朝倉義景とは越前国の戦国大名であり、一乗谷に居を構えた越前朝倉氏最後の当主。
戦国大名・一乗谷朝倉氏の初代である朝倉(英林)孝景より数えて5代目であり、但馬国時代及び越前朝倉氏初代である朝倉広景から数えると11代目に当たる。
戦国時代で最も有名な人物である織田信長を大いに苦しめるものの、最後は一門の朝倉景鏡に裏切られ、自害した人物として知られている。
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生年 | 1533年(天文2年9月24日) |
没年 | 1573年(天正元年8月20日) |
改名 | 長夜叉(幼名)⇒延景⇒義景 |
氏族 | 朝倉氏 |
家紋 | 三盛木瓜(みつもりもっこう) |
親 | 父:朝倉孝景 母:高徳院 |
妻 | 正室:細川晴元の娘 継室:近衛植家の娘 側室:小宰相(鞍谷嗣知の娘) 小少将(斉藤兵部少補の娘) |
子 | 阿君丸 愛王丸 四葩(本願寺教如と婚約) 娘(出家) まつ(勝興寺顕幸室) 山浦景国室(上杉景勝養女) 信景 |
朝倉義景とは














出生と家督相続

《一城谷朝倉館唐門》
朝倉義景は朝倉孝景の長男として、1533年(天文2年)に越前国にて誕生。幼名は長夜叉。父・孝景はこの時で40歳になっており、他に兄弟がなく、唯一の実子であったとされている。
孝景が1548年(天文17年)に死去。そのため朝倉家11代当主として家督を継ぎ、延景と名乗ることになった。
当時の義景は若年であり、一門の朝倉宗滴によって、彼が死去するまで軍事面及び政治においても補佐されることになる。







義景を名乗る
1552年(天文21年)当時の室町幕府の将軍は足利義輝であり、この名前から義の一字を与えられて延景は義景と名を改め、また左衛門督の官途も与えられた。
これは父・孝景の代から幕府と親密な関係を築き、義景自身も正室に管領・細川晴元の娘を迎えるなどして、歴代朝倉家の中でも最も幕府に近しい存在になっていったことが伺える。
1555年(弘治元年)になり、朝倉宗滴が死去することで、義景は本格的に自ら政務をみるようになった。その後隣国の若狭や加賀に出兵などし、大過なく越前は平穏を維持していく。






足利義昭の来訪
朝倉義景にとって天下を取る最大の機会が、この足利義昭の来訪だった。
1565年(永禄8年)、時の室町幕府将軍・足利義輝が、松永久秀によって暗殺される永禄の変が勃発。これにより義輝の弟であった義昭は奈良にて幽閉されることになったが、義景はその脱出に関わり、まず近江へと動座。その後若狭、敦賀へと移ってきたため、義景はこれを歓迎することになる。
一方の義昭も、朝倉家の援助を期待していた。しかしその後援を得るには朝倉と長年抗争を続けていた加賀一向一揆を何とかする必要性があり、両者の仲を取り持つなど、積極的に動くことになる。
もっともそう簡単にはいかず、1567年(永禄10年)には朝倉家臣である堀江景忠が謀反。しかも加賀一向一揆と結んだため、義景はこれと戦い、結果として堀江景忠は加賀から能登へと退去し、没落した。その後ようやく越前国も落ち着き、義昭の仲介もあって、加賀一向一揆との和睦も成立することになる。
これにより、義昭は義景に対して上洛を要請。義昭が後援を期待するのはまさにそのためであって、京からも近く、また幕府とも親しく、戦国大名として有力であった朝倉氏にそれを求めたのは必然だったいえる。
しかし義景はこれを丁重に拒否したのだった。
























宿敵、織田信長
1568年(永禄11年)、義景は隣国若狭の武田氏の内紛に介入し、出陣。若狭国を支配することになる。
しかし義景はこの頃から政治に倦みだし、遊興に耽るようになっていったという。
一方、同年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。上洛後、義昭を将軍とした信長は朝倉義景に対し、義昭の命ということで上洛を要請。
二度に渡る上洛命令だったが、義景は拒否した。















金ヶ崎の戦い

《金ヶ崎城址》
朝倉義景が上洛命令を拒否したことを理由に、織田信長は越前出兵を開始。
1570年(永禄13年4月20日)、若狭攻めを口実に織田・徳川連合軍は3万の軍を率いて京を出陣した。
織田軍は朝倉方の手筒山城を下し、敦賀郡司・朝倉景恒が守る金ヶ崎城を攻め、ここに金ヶ崎の戦いが勃発する。
織田軍を前に旗色悪く、朝倉景恒は降伏して金ヶ崎城は陥落。
しかしここで朝倉氏と同盟関係にあって、織田家とも婚姻関係にあって板ばさみ状態になっていた浅井長政が、信長を裏切り朝倉氏についたことで、信長は挟み撃ちの窮地に立たされることになる。
これにより金ヶ崎の退き口といわれる戦国史上有名な、織田信長の撤退戦が展開されることになるのだった。








姉川の戦い

『姉川大合戦之図』
1570年(元亀元年6月28日)に姉川の戦いが、朝倉・浅井連合軍と、織田・徳川連合軍との間に勃発。
朝倉義景は一門の朝倉景健を総大将に命じ、景健率いる8,000の兵と浅井長政率いる5,000の兵との連合軍、計13,000は織田信長・徳川家康の連合軍と姉川にて激突。
しかし結果的に、朝倉・浅井連合軍の敗北で終わることになったのである。
この戦いにおいて朝倉方では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基ら朝倉家きっての猛将を相次いで討死し、また浅井家においても長政が信頼していたとされている重臣・遠藤直経やその他の多くの家臣を喪い、義景は手痛い損害を受けることになった。











志賀の陣
同年8月、信長が三好三人衆や石山本願寺討伐摂津に出陣している隙をつく形で、朝倉義景は自ら出陣。織田領である近江坂本に侵攻開始した。
この時行われた宇佐山城の戦いにおいて、信長の弟である織田信治や重臣・森可成を討ち取る戦果を挙げることになる。




このような事態に信長が近江へと転進。義景は比叡山に立てこもって、信長と対峙することになるが、これがいわゆる志賀の陣と呼ばれるものである。
この志賀の陣は信長にとって苦しいもので、比叡山を包囲するものの長期戦となってしまい、信長自身、身動きがとれなくなってしまう。この機に各地で反信長の動きが加速していったため、信長は早期決戦を目指すも義当然景は決戦に応じることはなかった。






追い詰められた信長は、朝廷工作を行い、勅命により和睦して現状を打破します。
この際、信長は朝倉義景に対して「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という起請文を出したともいわれています。








刀根坂の戦い
1571年(元亀2年)になると、義景は本願寺の顕如と和睦し、その子である教如と義景の娘との婚約を成立。関係を改善させる。
一方で信長は京から越前へと通じる陸路や海路を封鎖しつつ、朝倉・浅井家に協力して信長に敵対した比叡山延暦寺の焼き討ちを断行した。
1572年(元亀3年7月)、信長は浅井氏の居城・小谷城を包囲。
義景はこれを救うべく出陣する。






その後、武田信玄による西上作戦開始。
武田軍は徳川領を蹂躙し、信長はこれに対応すべく岐阜に撤退することになる。






























1573年(元亀4年2月)、西上作戦の最中の信玄が病死。
武田軍は撤退し、そのため信長はその主力を朝倉家に傾注することが可能になってしまう。
1573年(天正元年8月)、信長は大軍を率いて近江に侵攻。
義景も迎撃するために出陣しようとするが、これまでの失策のため家臣の信頼を半ば失っていた義景の出陣命令に、重臣である朝倉景鏡や魚住景固が拒否。そのため山崎吉家らを率いて出陣するも、田部山の戦いで敗北し、撤退。
義景は疋壇城への撤退を目指すも織田軍の追撃は厳しく、その途中の刀根坂において壊滅的するに至った。
いわゆる刀根坂の戦いといわれる退却戦で、ここで朝倉家の重臣達を数多く失うことになる。

《疋壇城址》


朝倉家の滅亡
義景は命からがら一乗谷を目指すが、逃亡が相次ぎ、一乗谷に着いた頃には左右に10人程度の側近だけしか残っていなかったという。
この時朝倉氏の命運は尽きたと誰もが思ったようで、一族筆頭の重臣である朝倉景鏡以外は参陣してくることもなく、義景もついに自害を決める。しかしこの時は近臣によって止められ、景鏡の勧めもあって、一乗谷を放棄。再起を図るために、景鏡の地盤である大野にある賢松寺へと逃れることになるのだった。
しかし景鏡はすでに信長に通じており、義景を裏切って賢松寺を襲撃。
自らの運命を悟った義景はついに覚悟を決め、自害。享年41であった。









朝倉義景の墓所は一乗谷と、終焉の地である福井県大野市の二箇所に存在する。
「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」
以上の二句が、朝倉義景の辞世として残されている。

《福井県大野市にある朝倉義景墓所》


《一乗谷にある朝倉義景墓所》
朝倉義景の評価








朝倉家歴代当主
第1代 朝倉広景 1255年~1352年
第2代 朝倉高景 1314年~1372年
第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
第6代 朝倉家景 1402年~1451年
第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
第11代 朝倉義景 1533年~1573年
朝倉義景 関連年表
1533年 越前にて朝倉孝景の長男として誕生。
1548年 父・孝景死去。家督を相続し、延景と名乗る。
1552年 義景と改名。左衛門督に任官
1555年 朝倉宗滴死去。自ら政務を執る。
1559年 従四位下に叙位。
1563年 若狭に侵攻。粟屋勝久を攻める。
1564年 加賀に出兵。大聖寺まで進出。
1565年 将軍足利義輝暗殺。
義輝の弟である足利義昭、敦賀に動座。
1567年 堀江景忠謀反。
連動して加賀より杉浦玄任の来襲。
足利義昭を一乗谷安養寺に迎える。
加賀一向一揆と和解。
1568年 義景の母高徳院、二位の尼に序せられる。
嫡男・阿君丸の急死
義昭、越前より退去
若狭守護武田氏の内紛に介入。
武田元明を一乗谷に軟禁。
1570年 織田・徳川連合軍、越前に侵攻。
金ヶ崎の戦い。織田軍敗退。
姉川の戦いに敗北。
近江坂本に侵攻。坂本の戦いに勝利。
志賀の陣、義景と信長の講和成立。
1571年 本願寺顕如と和解。
義景の娘と、顕如の子である教如との間に婚約成立。
織田領横山城、箕浦城を攻撃するも敗退。
1572年 小谷城包囲。義景、援軍に赴く。
前波吉継、富田長繁ら織田方に寝返る。
武田信玄による西上作戦開始。
義景、越前に撤退。信玄に非難される。
1573年 武田信玄病死。
信長の近江侵攻。義景、出陣。
大嶽砦陥落。田部山の戦いで大敗。
刀根坂の戦いで朝倉軍壊滅。
一乗谷を放棄。東雲寺から賢松寺に逃亡。
朝倉景鏡の裏切り。
賢松寺を襲撃され、義景自害。享年41。
朝倉義景画像
