若狭武田氏と家臣団【戦国大名家】
若狭武田氏とは
若狭武田氏は安芸武田氏4代の武田信繁の嫡男である武田信栄が、室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まりました。
若狭武田家歴代当主
若狭武田家臣団
一門衆
主要家臣団
若狭武田氏の歴史
若狭武田氏の創始は、安芸武田氏4代武田信繁の嫡男である武田信栄が、若狭守護職を任命されたことに始まります。
足利将軍家および細川京兆家の信任が厚かったこともあり、武田氏には安芸武田氏や甲斐武田氏などがありますが、歴代当主の多くが始祖である武田信光以来の武田伊豆守の名乗りを許されていたことや、武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと、さらには丹後守護を兼ね幕府のある畿内周辺で二ヶ国もの守護に任じられていたことなどを挙げて、若狭武田氏こそが武田氏の本流であるという説も存在しています。
信繁の嫡男である信栄は、一国の守護となったのを契機に安芸から若狭に武田氏の本拠地を移しました。
これはつまり、安芸武田氏の嫡流は若狭武田氏であることになります。
1441年(永享13年)に信栄が28歳で病没した跡は、弟の武田信賢が継承。
安芸国と共に若狭国経営を行いました。
信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁元年(1467年)からの応仁・文明の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍します。
そのため室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流していたようです。
しかし信賢以後、武田家は分裂。
安芸武田氏は信繁の四男の武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁の三男の武田国信が継ぐことで分かれていきました。
国信は若狭国・丹後国加佐郡を中心に領国経営を行いつつ、幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵しています。
また丹波守護の細川京兆家の要請による丹波への出兵も多かったようです。
そして国信の子の武田元信と孫の武田元光の代になると、若狭武田氏は最盛期を迎えることになります。
元光は大永2年(1522年)小浜に後瀬山城を築き、大永7年(1527年)に管領細川高国に請われて第12代将軍・足利義晴を奉じて上洛しました。
しかし桂川原の戦いにおいて、細川晴元方の三好氏と波多野氏を相手に敗北を喫します。
その後の若狭武田家は徐々に力を失い、周辺諸国からの圧力や有力国人の離反などが相次ぎ、国内での勢力を衰退させていきました。
元光の孫の武田義統の代には家督争いも勃発して、更に弱体化してしまいます。
義統は、永禄9年(1566年)8月に、義理の兄である義統を頼って入国した室町将軍家の息子の足利義昭を庇護したものの、足利義昭は若狭武田家中の混乱を見かねて頼りにならずと考え、隣国の越前朝倉氏を頼りました。
そして2年後の永禄11年(1568年)8月、朝倉義景の若狭進攻が開始され、領国での支配権を喪失します。
若田武田家当主であった武田元明は、朝倉氏によって一乗谷での定住を余儀なくされていましたが、天正元年(1573年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡したことで助け出され、若狭に帰国しました。
しかし本領復帰には至らず、信長より新たに若狭国を任されたのは丹羽長秀であり、元明は大飯郡南部の石山3,000石のみの領有を許されただけに留まります。
そして天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発すると、旧領回復を狙って丹羽長秀の居城の佐和山城を陥落させ、信長を滅ぼした明智光秀に加担しました。
しかし光秀は羽柴秀吉に敗北。
元明は秀吉や長秀によって自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡したのです。