粟屋勝久【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

土岐 無理之介

 粟屋勝久とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
 若狭武田氏の家臣。武田四老の一人ともされています。
 若狭国国吉城主を務めました。

信長の野望での粟屋勝久

信長の野望・新生での能力値

粟屋勝久【信長の野望】
©コーエーテクモゲームス
統率武勇知略政務
63666151
信長の野望 新生 能力値
粟屋勝久能力【信長の野望新生】
©コーエーテクモゲームス

 粟屋勝久の能力自体は平凡ではありますが、若狭武田氏家臣団においてはバランスのとれた武将となっています。

 四項目ある能力のうち、三項目が60以上という武将は若狭武田氏にはいませんからね……。

 若狭武田氏は同族の粟屋光若と共に、粟屋一族にかかっているといっても過言ではありませんので、何とか隣国からの侵攻を防いでもらいましょう。

 しかし史実同等、城は守れても国は守れなさそうです……。

粟屋勝久の来歴

 粟屋勝久の生年ははっきりとは分かっていないものの、天文年間ではないかと考えられています。

 粟屋氏は清和源氏安田氏の末裔であり、若狭守護・若狭武田氏の被官を務めた家系です。

 ただこの若狭粟屋氏についてははっきりと分かっていないことも多く、勝久の前後の系図は不明であり、同じく若狭武田氏に仕えたとされる粟屋元隆や粟屋光若との関係も明らかではありませんが、しかし同族と考えられるようです。

 とはいえ、勝久は越中守を名乗っており、これは粟屋本家の右京亮家の歴代の名乗りであって、実際の血縁はともかく、右京亮家を再興して継承する意図があったものと推測されています。

 歴史資料における初見は弘治2年(1556年)です。

 当時の若狭武田氏は、旧守護・武田信豊と、子で現守護・義統が対立するなど内乱状態にありました。

 内乱は義統が勝利したものの、その後も若狭西部の有力家臣であった逸見氏が謀反を起こして独立するなどして、若狭武田氏は領国の統治に窮します。

 そこで当主・義統は、婚姻関係のある越前国守護・朝倉氏に援軍を要請しました。

 これに対し、勝久は朝倉氏の軍勢を若狭に入れることに反対。

 具体的には義統の子・武田元明を擁立して抵抗し、永禄6年(1563年)から毎年、朝倉氏が朝倉景紀を大将として若狭国へ侵攻し、略奪放火と狼藉の限りを尽くすのですが、勝久は国吉城に籠城してこれを撃退し続けました。

 しかしついに永禄11年(1568年)、難攻不落を誇った国吉城を迂回され、朝倉氏によって武田元明は囚われて越前に連行されると、一乗谷の朝倉館に軟禁されることになります。

 この時に勝久宛の武田元明からの降伏命令が届きましたが、それを拒否しています。

 ともあれこれにより朝倉氏による若狭支配が始まったのですが、勝久はその後も若狭武田氏家臣として、単独で国吉城に籠し、ひたすら朝倉氏に抵抗を続けます。

 このような中、尾張の織田氏の勢力が拡大。
 元亀元年(1570年)、勝久は他の若狭国人衆と共に織田信長に協力します。

 同年4月に信長が越前へ出兵した際には、国吉城は信長の宿所となりました。

 元亀4年から天正元年(1573年)にかけて朝倉義景率いる朝倉勢が若狭国に侵入した際には、国吉城が包囲されてしまいます。

 しかし織田勢が攻勢を開始すると、越前攻めでは一乗谷一番乗りの武勲を挙げ、幽閉されていた旧主の武田元明を救出することに成功しました。

 天正3年(1575年)7月、勝久は上洛して元明助命の嘆願を果たしたものの、武田氏による若狭領有は許されることなく、若狭は織田氏の重臣・丹羽長秀に任されることとになってしまいます。

 ともあれ勝久ら若狭武田氏の旧臣たちは、天正9年(1581年)の天覧馬揃えに見られるように、丹羽長秀の与力として存続しました。

 その後本能寺の変が勃発し、明智光秀によって織田信長が横死すると、勝久は台頭した羽柴秀吉に仕えて馬廻役を務めました。

 その後国替えとなり、勝久のいた国吉城には木村常陸介(木村重茲)が入部したとされています。

 そして天正13年(1585年)死去。

 ちなみに孫の助太夫は豊臣秀頼に仕えたとされ、大坂の陣では豊臣方として戦い、戦後は藤堂高虎に仕官しました。

 また 同じく孫の粟屋勝長は臼杵藩に仕え、元文3年(1738年)に粟屋勝興が御鑓奉行に任じられています。

 そして子孫は明治維新に至り廃藩となるまで、家老職を勤めることになるのです。

粟屋勝久と国吉城

 粟屋勝久といえば、やはり佐柿国吉城での徹底抗戦、ですね。

 勝久の国吉城での籠城戦については、『国吉城籠城記』などが知られています。

 それによると、

  • 1556年(弘治2年) – 粟屋勝久が国吉城を築く。
  • 1563年(永禄6年) – 朝倉氏侵攻。
  • 1564年(永禄7年) – 朝倉氏侵攻。
  • 1565年(永禄8年) – 朝倉氏侵攻。
  • 1566年(永禄9年) – 朝倉氏侵攻。
  • 1567年(永禄10年) – 朝倉氏侵攻。
  • 1568年(永禄11年) – 若狭国守護武田元明が朝倉氏に降り、勝久に降伏を勧めるが拒否。
  • 1570年(元亀元年) – 織田信長が越前攻めのため、国吉城に入城。勝久の武勲を賞賛。
  • 1573年(天正元年) – 信長の第2回目の越前攻めに勝久が参戦。朝倉氏が滅亡。
  • 1582年(天正10年) – 本能寺の変。若狭武田氏が滅亡。
  • 1583年(天正11年) – 木村定光が国吉城主となる。
  • 1585年(天正13年) – 粟屋勝久が死去。
  • 1615年(元和元年) – 国吉城廃城

 こんな感じの歴史を辿ったようです。

スポンサーリンク
ABOUT ME
土岐無理之介
土岐無理之介
歴史好き。主に戦国時代。
旅ついでに城郭神社仏閣を巡りなどやってます。

趣味で小説など書いたりも。カクヨムや小説家になろうにて、荒唐無稽な歴史IF小説などを、気ままに投稿しています。
たまにはイラストなども描いてみたり。
記事URLをコピーしました