豊臣秀吉(羽柴秀吉)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

土岐 無理之介

 豊臣秀吉とは、戦国時代の武将。
 織田家臣のちに独立して大名となり、天下統一を果たしました。
 三英傑の一人。関白、太閤。

 今回はそんな豊臣秀吉(羽柴秀吉)を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

信長の野望での豊臣秀吉

信長の野望・大志での能力値

豊臣秀吉(羽柴秀吉)【信長の野望】
©コーエーテクモゲームス
豊臣秀吉(羽柴秀吉)【信長の野望】
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豊臣秀吉(羽柴秀吉)【信長の野望】
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信長の野望 大志
羽柴秀吉(はしば ひでよし)
統率95
武勇80
知略97
内政95
外政92
豊臣秀吉(羽柴秀吉)能力【信長の野望大志】
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 相変わらずの文句のつけようのない能力値です。

 主君である織田信長と比べても、まったく遜色の無い能力。
 知略、外政では信長を上回っており、その他の能力差も僅差です。

 総合値でも秀吉459に対し、信長462と、もはや誤差のような差しかありません。

 ちなみにのちの天下人である徳川家康は457。
 もう誰が天下をとってもおかしくない能力ですね。

 『信長の野望』の歴代シリーズをプレイされている方ならばご存知かもしれませんが、秀吉の方が信長よりもわずかに政治力が上な能力を多かったのですが、ここにきて逆転されています。

 また『烈風伝』あたりにから武勇系の能力が低評価となり、50台や60台など、不遇の時代もありました。
 『大志』ではまた評価が回復し、全体の中での最低能力とはいえ、80を維持しているほどです。

 とはいえ、管理人としては武勇がある程度低かった時代の方が、個性があって良かったのではないかと思ったりします。

 合戦に関わる能力が統率、武勇、知略とわざわざ三つに分かれているのですから、総合値を上げるために無理に武勇をかさ上げする必要もないのかな、と。

 いくら天下人補正がかかっているとはいえ、なんでもかんでもオールマイティな能力にしてしまうと、面白くないですからね。

信長の野望・新生での能力値

豊臣秀吉(羽柴秀吉)【信長の野望】
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統率武勇知略政務
96819897
信長の野望 新生 能力値
豊臣秀吉(羽柴秀吉)能力【信長の野望新生】
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 新生での豊臣秀吉は、微増ながら評価が上昇しています。
 しかし今回は能力よりも、特性の人たらしの方が、非常に役立ってくれます。
 今作では特に序盤、忠誠度を上げるのがなかなか難儀しますからね。

豊臣秀吉 略歴

豊臣秀吉像
豊臣秀吉像

 秀吉は改名を繰り返していますが、さすがは天下人といったところで、そのどの名前も同じくらい有名です。

 木下藤吉郎⇒木下秀吉⇒羽柴秀吉⇒藤原秀吉⇒豊臣秀吉

 とまあ、こんな感じで、藤原秀吉だけはあまり馴染がないかもしれませんが、あとはどの名前を聞いても同一人物であるとすぐにも分かるでしょう。

 秀吉は天文6年2月6日(1538年)に、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされています。

 農民から天下人への前代未聞の大出世。
 秀吉が今も人気のある所以です。

 そんな秀吉は、実は当初、織田信長にではなく、今川家に仕えていました。
 具体的には今川義元の家臣の家臣の家臣といった立ち位置だったわけです。

 しかし出奔し、天文23年(1554年)頃から織田信長に使えるようになります。

織田家臣時代 木下秀吉~羽柴秀吉

 永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚。

 永禄7年(1564年)には、美濃国の斎藤龍興との戦いの中、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させるという功を上げています。

 そして永禄9年(1566年)に、課の勇名な墨俣一夜城建設に携わり、その名を後世に残しました。
 が、どうにも真実かどうかはうさん臭く、創作のようです。

 永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、かの竹中半兵衛こと竹中重治を与力としています。

 永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍。

 元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。
 金ヶ崎の戦いが勃発します。

 これは当初優勢であったものの、北近江の浅井長政が裏切ったことで窮地に陥り、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め、これを見事果たして功績を重ねました。

 その後の姉川の戦いには参陣せず、奪取した横山城の城代に任じられています。

『阿根川大合戦之図』月岡芳年画
『阿根川大合戦之図』月岡芳年画

 元亀3年(1572年)8月、木下氏から羽柴氏へと改姓。
 これは織田家重臣・丹羽長秀と柴田勝家の名からそれぞれ一字をもらい、新たにつけた名でした。

 天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて長浜城の城主となります。

 天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍。
 武田勝頼に対し、大勝を収めます。

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

 天正4年(1576年)には、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃し、落城に至らしめています。

 天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるも、勝家と仲違いし、無断で撤収。

 その後の手取川の戦いおいて、勝家は敗れてしまいます。

 この時、信長は秀吉の行為に激怒。
 進退に関わるほど追い詰められたりもしたものの、以降も戦にて功を上げ続け、織田家での地位を高めていくことになります。

 天正5年(1577年)、信長より中国路方面の攻略を命ぜられます。

 その中で、官兵衛こと黒田孝高より姫路城を譲り受け、これを拠点に中国攻略を推し進め、第一次上月城の戦いなどで戦勝を重ねていきました。

 天正7年(1579年)には、備前・美作の大名・宇喜多直家を服属。

 このように中国平定は順調であったものの、、摂津国の荒木村重謀反により、中断を余儀なくされています。

 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治との間に三木合戦が勃発。
 これに勝利します。

 天正9年(1581年)には鳥取城を攻略。

 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込みました。

『高松城水攻築堤の図』月岡芳年画
『高松城水攻築堤の図』月岡芳年画

 そしてついに運命の日が訪れることになるのです。

 官兵衛「殿の御運が開けましたぞ」

 天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反にあい、自害に及びます。
 本能寺の変の勃発でした。

「本能寺焼討之図」楊斎延一画
「本能寺焼討之図」楊斎延一画

 秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和。
 備中から京に軍を返す中国大返しをやってのけ、山崎の戦いにて明智光秀に勝利し、のちの織田家においての影響力を増すことになります。

 しかし、織田家中において躍進する秀吉と、織田家重臣であった柴田勝家の対立が表面化。

 両者は激突し、賤ヶ岳の戦いで秀吉は勝家を下し、勝家は居城の北ノ庄城で自害。

 秀吉は名実ともに、織田信長の後継者たる地位を得たのでした。

豊臣政権 羽柴秀吉~豊臣秀吉

 天正11年(1583年)、大坂城を普請し始めます。

 その後、徳川家康との溝が深まり、小牧・長久手の戦いが勃発。

 秀吉は圧倒的優勢でありながら苦戦を余儀なくされ、最終的には和議に至ります。

 天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任。
 公卿となります。

 天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任。

 天正13年(1585年)には四国征伐により長宗我部元親を屈服させ、四国を平定します。

 その最中、秀吉は近衛前久の猶子となり、7月11日には関白宣下を受けました。

 天正14年(1586年)9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任。
 ここに豊臣政権を確立させるに至ります。

 ちなみに「とよとみひでよし」というよりは「とよとみひでよし」の方が正しいとされています。

 一方で、対立関係にあった徳川家康はこれを懐柔し、家康もこれに従い、ついには臣従を誓いました。

 その後、九州では島津氏の勢力が猛威を振るっており、大友宗麟の救援要請を受けて、秀吉は停戦命令を出すも島津氏はこれを無視。
 ついには九州征伐が開始されることになります。

 大友氏滅亡寸前で豊臣方の援軍が九州に上陸。
 九州平定がなされることになります。

 天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が誕生。

 天正18年(1590年)には20万の大軍で関東へ遠征し、後北条氏を攻めた小田原征伐が開始されます。

 これにより後北条氏は滅亡。
 その後の奥羽再仕置を経て、ついには全国を平定。
 天下統一を果たしたのでした。

晩年

 天正19年(1591年)8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行します。
 文禄の役の開始でした。

 文禄2年(1593年)8月3日に側室の淀殿が豊臣秀頼を産みます。

 文禄4年(1595年)6月[61]、秀次に謀反の疑いが持ち上がり、秀次は切腹。

 文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、慶長の役が開始されます。

 そして慶長3年8月18日(1598年9月18日)、豊臣秀吉死去。
 最後は徳川家康らに嫡男・秀頼の後見人を依頼したとされています。

 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

 秀吉の辞世の句です。

 秀吉亡きあとの豊臣家は幼い秀頼が継ぎ、その間に関ヶ原の戦いなどを経て徳川家康の権勢が増すと、ついには大坂の陣において豊臣家は滅ぼされ、その天下は名実ともに徳川氏のものとなっていくことになります。

豊臣秀吉画像

豊臣秀吉像(狩野光信画)
豊臣秀吉像(狩野光信画)
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土岐無理之介
土岐無理之介
歴史好き。主に戦国時代。
旅ついでに城郭神社仏閣を巡りなどやってます。

趣味で小説など書いたりも。カクヨムや小説家になろうにて、荒唐無稽な歴史IF小説などを、気ままに投稿しています。
たまにはイラストなども描いてみたり。
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