浅井長政【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

浅井長政とは北近江の戦国大名であり、浅井氏の三代目にして、最後の当主です。
織田信長と結び、近江に勢力を拡大して浅井氏の全盛期を築くも、後に信長と決別して敵対。最後は戦いに敗れ、自害しました。
浅井三姉妹の父親としても知られる人物でもあります。
今回はそんな北近江の雄こと浅井長政を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
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生年 | 1545年(天文14年) |
没年 | 1573年(天正元年9月1日) |
改名 | 猿夜叉丸(幼名)⇒賢政⇒長政 |
主君 | 六角義賢 |
家紋 | 三盛亀甲に花菱(みつもり きっこうに はなびし) |
親 | 父:浅井久政 母:小野殿 |
兄弟 | 長政 政元 政之 岡崎安林 浅井治政 阿久姫 大弐局 京極マリア |
妻 | 正室:平井定武の娘 継室:お市の方 側室:八重の方 |
子 | 万福丸 万寿丸 茶々 初 江 くす 刑部卿局 |
信長の野望での浅井長政

信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 83 |
武勇 | 84 |
知略 | 77 |
内政 | 52 |
外政 | 62 |

軍事よりの能力値で、それなりに優秀です。
祖父・亮政と似たような能力ですね。
父・久政はちょっとぱっとしない能力なので、長政が出てきたらそうそうに家督を譲ってもらいましょう。
長政登場以降の浅井家には、家臣団にもそこそこの人材がいる上に、滅亡さえしなければ、近江は人材の宝庫なので、放っておいても人が集まってきます。
織田家と結んだら、信長が勢力拡大する前に、その上前を撥ねてしまうのが一番です。
ところで余談ですが、「大志」になって武将のビジュアルが新たに書き直された長政。
大志で新たに描かれた武将たちは、肖像画などが残っている場合はかなりそれに似せてきた容姿となっており、意識されているのが分かります。
が、長政は相変わらず似ても似つかないんですよね……。
肖像画に合わすと、かっこよく描けないので……これまでのイメージが崩れてしまうからでしょうか。
お隣美濃の斎藤義龍などは、それはもうよく似ているビジュアルになったというのに。
そういえば主人公たる信長も、肖像画はガチ無視ですね。
さすがは義兄弟。
それはともあれ、信長と結ぶことで歴史に名を残すことになる長政。
その長政の生涯を紐解いていきましょう。
浅井長政とは

浅井長政の名は、戦国時代では比較的有名です。
若くして亡くなっていているので、それだけ活動時期が短かく露出も少なそうに思えるのですが、その死後もちょくちょく名の出てくるんですね。
というのも戦国時代の三英傑・織田信長や、豊臣秀吉、徳川幕府に間接的に関わってくるからでしょう。
まず長政の正室が、あの信長の妹であるお市の方であるし、その娘の茶々は豊臣秀吉の側室であるそ、末娘のお江は徳川家康の子で徳川幕府第二代将軍・徳川秀忠の正室というように、時の権力者の近しい身内としてあったからです。とても完全無欠に滅ぼされたお家とは思えないくらいです。
結局天下をとった江戸幕府の三代将軍・徳川家光の外祖父に当たるということで、1632年(寛永9年)には従二位中納言の官位を送られています。
また他にも、長政自身の人生においても見るべきところがあったからなのでしょう。
浅井久政時代
1545年(天文14年)、浅井久政の嫡男として誕生しました。
浅井氏はもともと北近江の守護であった京極氏の臣下であったのですが、祖父・浅井亮政の代にこれを追い落とし、取って代わって北近江を支配するに至っています。
しかしその後、南近江の守護であった六角氏との戦いに敗れ、父・久政の代でその下に臣従することになっていたのです。
そのため長政は六角氏の居城、観音寺城下にて生まれ、母である小野殿と共に六角氏の人質になっていたといわれています。
久政は外交によってどうにか北近江を維持していたものの、それを弱腰であると反発する家臣も多かったようです。
長政は15歳で元服します、六角当主である六角義賢の名から一字をとって、賢政と名乗らせたり、六角家臣の平井定武の娘を正室に迎えさせるよう、強いられていました。
野良田の戦い

1560年(永禄3年)、六角軍を相手に戦った野良田の戦いに長政は15歳の若さで出陣し、浅井を勝利に導きます。
現代の感覚ていえば、中学生に率いられる戦……と、なかなかありえないシチュエーションではありますが、当時はこんなものでした。
この戦いの原因は、久政の弱腰外交に不満を持っていた家臣が長政を擁立し、クーデターを起こしたことにあります。
結果、久政は強制的に隠居となり、この時に長政は賢政の名を捨て「長政」と名乗って、六角氏と手切れしました。
正室である平井定武の娘も、実家へと送り返すことになったそうです。
これと同時に六角家に対して調略も行い、寝返り工作も実施。
この時寝返ったのが愛知郡肥田城主である高野備前守で、この裏切りに対して六角家は軍を派遣、肥田城に攻め寄せることになったのが発端でした。
長政はただちに救援軍を派遣。
六角軍25,000に対し、浅井軍は11,000と半分以下の兵力でありながら、数の優位と緒戦勝利に油断した六角軍に対して反撃し、これに勝利しました。
重臣達は指揮した長政に対し、心酔したといわれています。
以後、六角氏と争いながらも北近江の支配を確立させ、領地拡大をしていくことになっていくのです。
こういった事情から、長政の父である久政の評価は芳しくありません。
しかし、久政がそれまでに外交力を駆使してお家を守ってきたからこそ、長政に活躍する場が与えられたということもまた事実でした。
果たしてそれが良かったのかどうか。
長政の活躍により、のちに信長に目をつけられるまではなるほど良かったのかもしれません。
とはいえのちの浅井家の運命を思うと、果たしてどうだったのでしょうか。
宿敵・六角氏と盟友・朝倉氏

六角軍を打ち破った長政でしたが、祖父の代からの同盟相手であった越前の朝倉氏に対し、この野良田の戦いに際して援軍を求めた様子はなく、親朝倉であった父・久政らとは一線を画していたことがうかがえます。
そのため戦後、朝倉氏とは距離をおいた方針を展開するようになった。
一方、宿敵であった六角氏に異変が発生。
1563年(永禄6年)に、六角氏の重臣であった後藤賢豊が暗殺されるといった、観音寺騒動が勃発したのです。
後藤賢豊は六角家家中において人望のあった人物で、賢豊の死により六角家家臣団の中には不信を抱くものも現れ、浅井氏につく者も出てきたといわれています。
この観音寺騒動の契機に、六角氏は没落していくことになっていきました。
六角氏が自滅していったことも、長政にとっては追い風だったのです。
織田家との同盟

この時期、美濃の斉藤氏を相手に戦況が膠着していた織田信長はそれを打開するために、長政との同盟を目論むことになりました。。
この同盟は浅井家にとって有利な条件が提示されていたのですが、それでも家中では賛否両論となってしまいます。
それというのも信長が浅井家の盟友であった朝倉義景と仲が悪く、迂闊に受け入れることができない事情があったからなのです。
つまり、浅井家は板挟み的な立場になってしまったわけで、このことはのちに浅井家滅亡の原因になっていきます。
結果的に、浅井家は織田家と政略結婚という形で同盟を締結。
長政の妻に、信長の妹である市を迎えることとなりました。

この婚姻による同盟に信長は大層喜んだといわれており、信長が婚姻費用を全て賄った(当時のしきたりでは、妻を迎える方が負担)と言われています。
信長はこれによって美濃攻略の足がかりを得、さらには上洛するための経路も確保でき、この同盟の意義が大変大きかったことが伺えるでしょう。
浅井家にとっても信長の妹を妻に迎えたということは、ある意味織田家の人質を得たに等しく、また浅井家にとっての悩みの種であった朝倉氏との関係は、信長が朝倉への不戦を誓ったこともあり、浅井家にとって有利な条件であったことが想像できます。
信長が上洛を開始すると、宿敵であった六角氏は甲賀郡まで撤退し、勢力を縮小させていきました。
信長との決別
金ヶ崎の戦い

1570年(元亀元年)、織田信長は浅井との同盟の際に約束した朝倉との不戦を破り、近江から越前に侵攻。
これは信長が、長政を反故した上で朝倉家に攻め込んだものでした。
信長にしてみれば、長政がこのあとまさか敵対することになるとは夢にも思っていなかったようですが……このあたりが信長が裏切りなどに対して実は無頓着じゃないのか、と管理人などは思ってしまうところなのですが、ともあれこの事態は浅井家中を紛糾させて、大問題になったのです。
そして長政はこの状況下において、朝倉義景との同盟の方を選び、織田軍を背後から急襲しました。
これによって挟み撃ちとなった信長は命からがら脱出する羽目になり、いわゆる金ヶ崎の退き口となったのです。
元々信長との同盟に反対していた家臣もおり、当然このことに対して不満を持って、親朝倉である久政を担ぎ出して長政に織田軍急襲を提案したと言われています。
こうやってみると、浅井家の家臣というのはけっこう無茶苦茶してるのが分かります。
長政が担ぎ出された時もそうでしたが、今回似たようなものですからね。
これは浅井家の家臣はもともと主家であった京極家に仕えていたという経緯があり、そういった意味では浅井家と同格だった家柄の者も多く、絶対の主従関係、というわけにはいかなかったことも一因だったのかもしれません。
下克上の時代だからこそ浅井家が頭一つ飛びぬけることができましたが、だからこそ家臣の統制は難しかったということでしょう。長政にしてみれば、皮肉な話です。
これにより浅井と織田は手切れとなり、同年の6月には姉川の戦いが勃発しました。
姉川の戦い

この戦いでは員昌の姉川十一段崩しといわれる浅井家臣・磯野員昌の活躍もあって、織田軍を敗走寸前にまで追い込むも、連合軍であった朝倉軍が徳川軍に敗れると、その増援もあって浅井軍も総崩れとなって敗退することになります。
しかしその後、朝倉氏や延暦寺などと連携し、信長に対して攻勢に出ました。
志賀の陣では信長も窮地に追い込まれるも、朝廷工作によって講和。その隙に延暦寺は焼き討ちに遭い、壊滅することになります。
志賀の陣では朝倉・浅井連合軍優勢だったのですが、戦略的には信長の方が一枚上手だったということでしょう。
武田信玄の西上作戦
1572年(元亀3年)に信長が近江侵攻を開始すると、盟友・朝倉義景が援軍として駆けつけることになります。
数で劣る浅井・朝倉軍は苦戦を強いられつつも、ここでようやく武田信玄が行動を開始。
信玄は三方ヶ原の戦いにおいて徳川軍を撃破しつつ前進。
信長は北近江にて浅井・朝倉と睨み合っており、全力での徳川救援に向かえず、このまま信玄に背後を突かれれば信長の敗北は必至となるところでした。
ところが朝倉義景は越前に撤退。
このため信長は北近江から美濃へと戻り、信玄の西上作戦も一時停止することになってしまいます。
結局義景は動かず、武田軍は再び進軍するも、信玄の急死によて甲斐へと撤退。
これによって最大の窮地を脱した信長は、近江・越前へと全力を傾注できるようになってしまったのでした。
小谷城の戦い
1573年(天正元年)になり、信長は再度近江に侵攻を開始。
再び朝倉義景も来援に駆けつけるも、状況の不利を悟って撤退。
しかし織田軍は執拗に追撃し、刀根坂の戦いにて朝倉軍は壊滅。
そのまま越前へと侵攻し、朝倉氏は滅亡しました。
その後すぐに軍を取って返した信長は全軍で浅井軍を包囲。小谷決戦へと至ります。
織田方は不破光治や木下秀吉を派遣して降伏勧告をするも、長政はこれを拒否。
織田軍の総攻撃が始まると、秀吉の攻勢の前に、小丸に篭もる久政が追い詰められて自害。
本丸の長政は持ち堪えつつ、嫡男万福丸を城外に逃がし、正室であるお市を三人の娘と共に織田軍に引き渡すという、最後の処置を済ませた、覚悟を決めました。
そして長政は弟の政元や赤尾清綱といった重臣と共に自害し、小谷城は落城。
祖父・浅井亮政より続いた浅井三代は、ここに滅亡したのでした。享年29。
その後
信長は長政に対しての恨みは根深かったようで、戦後の仕置きは苛烈だったといわれています。
長政、久政親子の首は獄門にかけられた上で、更に敵将・朝倉義景の頭蓋骨と共に薄濃にしたとも伝わっています。
ただしこの行為は信長の残虐性を表しているというよりは、むしろ反対に敬意を示すものであった可能性も指摘されているようです。
当時と現代との違いではありますが、やはり現代の我々にはなかなか理解できない行動ですよね。
直接処理したひとのことを思うと……。ゲロォ…(T┰T )
そして 城外に脱出した長政嫡男の万福丸は捕縛されて処刑され、その他親族であった浅井亮親、浅井井規も同じく処刑されました。
浅井三姉妹
こうやって滅亡した浅井家でしたが、その娘である茶々、初、江のいわゆる浅井三姉妹は生き残り、その後、戦国の女性の代名詞として知られていくことになります。
浅井家の男系は根絶やしにされた一方で、女系は残ってこの後の戦国時代に翻弄された女性たちとして知られていくことになるわけですね。
浅井長政 関係年表
1545年 浅井久政の嫡男として誕生。
1560年 野良田の戦いで六角氏に勝利。
1563年 観音寺騒動。
長政の美濃遠征中に、六角軍の侵攻。これを撃退。
1567年 信長の妹市を、正室に迎える。
1568年 信長上洛開始。長政も上洛を掩護。
1570年 金ヶ崎の戦い。織田家と手切れになる。
姉川の戦い。浅井・朝倉連合軍の敗北。
志賀の陣。朝倉、延暦寺と連携して信長と対峙。
1572年 信長の近江侵攻。
武田信玄による西上作戦。
1573年 信長、近江へ再侵攻。
小谷城の戦い。
長政、小谷城にて自害。
浅井長政画像
