浅井久政【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴
浅井久政とは北近江の戦国大名であり、近江浅井氏の第2代当主。
織田信長の義弟である浅井長政の父親としても知られています。
浅井三代の中では両雄に挟まれてパッとしない久政。
今回はそんな浅井久政を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
生年 | 1526年(大永6年) |
没年 | 1573年(天正元年8月27日) |
改名 | 猿夜叉⇒久政 |
別名 | 新九郎 |
主君 | 六角義賢 |
家紋 | 三盛亀甲に花菱(みつもり きっこうに はなびし) |
親 | 父:浅井亮政 母:尼子馨庵 |
妻 | 小野殿(井口経元娘) |
子 | 長政 政元 政之 岡崎安休 治政 阿久姫 大弐局(六角義実室) 京極マリア(京極高吉室) 養女:近江の方(斎藤義龍室) |
信長の野望での浅井久政
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 35 |
武勇 | 38 |
知略 | 47 |
内政 | 66 |
外政 | 57 |
久政は歴史書でも暗愚呼ばわりされている人物ですので、その能力も残念なことになっています。
しかし同じくぼんくら戦国大名である盟友・朝倉義景に比べれば、いくらかマシな感じもしますね。
とりあえず、内政面では多少は働けるかな、といった具合です。
やはり浅井家で躍進しようと思ったら、長政の代まで待つべきでしょうね。
しかし久政は本当に暗愚であったのか。
そんな浅井久政の生涯を紐解いていきましょう。
浅井久政とは
浅井久政というと、息子である浅井長政と父親である浅井亮政の間に挟まれて、どうにもいまひとつの印象の拭えない人物です。
そのため今までは暗愚な人物であったとされてきました。
それこそ朝倉家を滅亡させた、盟友・朝倉義景なんかと同様にです。
そのような評価は『浅井三代記』などによるものなのですが、しかし現在では再評価が進められているようです。
そもそも久政がいたからこそ、浅井家は存続して長政の代で大成できたのではないかと、そういうことですね。
久政は優秀な中継ぎだったのか否か。
次から見ていきましょう。
六角氏への臣従
浅井亮政の死と家督相続
1526年(大永6年)、浅井亮政の長子として誕生しました。
母親は亮政の側室であった、尼子馨庵。
馨庵は近江尼子氏の出であり、戦国時代に中国地方に割拠した出雲尼子氏は、庶流にあたるとされています。
1542年(天文11年)に、父・亮政が死去。
久政は嫡子であったものの、生前の亮政は田屋明政(久政の異母姉の婿)に家督を譲ろうとしていたともされ、久政の家督相続を承服せずに反乱を起こしたといわれています。
父親がこんなことをしようとしていたんじゃないか、なんていう記録があるせいで、久政はよほどぼんくらだったのか、なんて考えることもできてしまい、その評価を落とす一因にもなっているのかもしれません。
ともあれ、このことは浅井家中に禍根を残すことになりました。
もっとも反乱を起こしたとされる田屋明政ではありますが、一説では争いはなく、久政への家督相続は問題無く行われた、という見方もあります。
結局このあたりはよく分からないのです。
久政の外交政策
久政は父・亮政は武勇のひとでした。
しかし久政は武勇に関してはいまひとつだったようで、南近江の六角氏に次第に圧迫され、ついには臣従することで浅井氏の存続を図ったとされています。
父親だった亮政は勇猛な武将で知られており、浅井氏を一家臣から北近江の戦国大名にまで押し上げたような人物でしたから、それに付き従った家臣からしてみれば、当然現状を面白く思うはずがありません。
とはいうものの、持ち合わせていないもの無いので、久政は久政なりに、苦手な武勇以外の方法、つまり外交手腕でもって、浅井家の存続を図ったのです。
その一例として、嫡男であるのちの長政に、六角家当主である六角義賢の一字をもらい、賢政と名乗らせたり、また六角家家臣の平井定武の娘を娶らせるなどして、一貫して従属姿勢を取り続けることになりました。
だがそんな久政の苦心をよそに、浅井家臣たちは不満を募らせていくのです。
長政への家督相続と久政の隠居
この久政の外交政策を弱腰と不満を抱く家臣は徐々に増え、1560年(永禄3年)に長政が六角氏を相手に野良田の戦いで大勝して六角氏から独立すると、長政に浅井氏の希望をみた家臣は久政に長政への家督相続を迫り、ついには隠居させられることになってしまいます。
久政は琵琶湖に浮かぶ島である竹生島に、一時的に幽閉されました。
問答無用で隠居させられた挙句、離れ小島に幽閉とは……戦国時代とはいえ、世知辛い世の中です。
織田氏との抗争
ただしこのような状態であっても久政の影響力は残っていたようで、父の代に築いた朝倉氏との同盟を維持をし続け、織田氏との新たな同盟には反対し続けていたとされています。
このように久政に発言力が残っている状態で、浅井氏の盟友・朝倉氏と、新たな同盟相手であった織田氏が対立。
板ばさみとなった浅井氏は、久政が強硬に朝倉氏との関係維持を訴え続け、ついには長政が折れる形で織田氏と敵対する道を選び、浅井・朝倉連合として織田氏との抗争に突入することになるのです。
金ヶ崎の戦いをもって織田信長を裏切った浅井氏は、その後の姉川の戦いに敗北するものの、志賀の陣などで織田氏を追い込んだりと、一進一退が続きました。
織田信長と敵対する道を選択した際、家臣たちは久政を担ぎ出したとも言われていますので、浅井家では家臣の統制すら難しかったことが窺えます。
しかし家臣団をもまとめられないような状態で、あの織田信長に敵うはずもありませんでした。
小谷城の戦い
1573年(天正元年)、盟友・朝倉義景の居城であった一乗谷が陥落すると、すぐさま浅井氏の居城であった小谷城への攻撃が開始されます。
必死の抵抗もむなしく、久政の篭る小丸は長政の篭る本丸と分断され、ついには覚悟を決めた久政は、浅井惟安と本鶴松大夫と盃を交わして切腹。
介錯は惟安が務め、その惟安の介錯は本鶴松大夫が務め、本鶴松大夫は主君と同じ座敷では恐れ多いとして、庭に出て自刃して果てました。
久政の評価
父・亮政や子の長政に比べて暗愚とされる久政ですが、現代においては再評価されつつあるようです。
まず弱腰外交とされた六角氏への従属について、当時の六角氏は六角定頼という名君がいました。
この人物は六角氏の全盛期を築いた名君であり、足利将軍家の後ろ盾を得た上で外交手腕により中央政治をも左右するほどで、更には各地で武功を上げ、また内政においても優れた手腕を発揮しました。
信長がやったことで有名な楽市楽座も、創始したのは実は定頼であり、内政的手腕にも優れていた人物です。
そのため当時の六角家は、非常に勢いがある状態だったわけですね。
定頼相手には、勇猛であった父・亮政ですら如何ともし難く、生前の亮政は幾度も越前や美濃に逃亡しては再起するという有様だったほどだったといわれています。
それを間近で見ていたはずの久政。
武で劣る久政が武をもって六角氏を制することは難しく、逆に従属によって庇護を得ることで領国経営に専念することができ、浅井氏の力の底上げをすることができたともいえるのです。
下手に戦えば滅ぼされていた可能性もあり、お家滅亡のリスクを排除して、一方で久政は六角氏に従属することでその優れた内政をも取り入れ、領内の発展に努めることができました。
それが実ったのが、長政の代だったというわけですね。
久政の内政重視のおかげで力をつけることができた浅井氏は、長政によって定頼の子である六角義賢を打ち破り、改めて独立を果たすことになります。
そういった結果を踏まえれば、長期的な戦略眼を持っていた、それなりに優れた人物だったといえなくもないでしょう。
もちろん、久政がそこまで考えていたかどうかは分かりません。
しかし結果として、長政が躍進する基礎を作ったのが久政であったことだけは、紛れも無い事実だったのです。