信長の野望:武将能力列伝

浅井亮政【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

浅井亮政能力【信長の野望大志】

 浅井亮政とは戦国時代の武将。北近江の国人・浅井氏当主。
 戦国大名としての浅井氏初代当主であり、京極氏や六角氏と対立しながら、北近江に勢力を拡大した人物として知られています。
 戦国代の三英傑の一人、織田信長の義弟として知られる浅井長政の祖父にあたる人物です。

 今回はそんな浅井亮政を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

浅井亮政(あざい すけまさ)
三つ盛亀甲に花菱
生年 1491年(延徳3年)
没年 1542年(天文11年1月6日)
改名 勝政⇒亮政
別名 新三郎
家紋 三盛亀甲に花菱(みつもり きっこうに はなびし)
父:浅井直種
母:赤尾教政女
養父:浅井直政
浅井蔵屋(浅井直政の娘)
久政 高政 政弘 秀政 山城守 海津殿 松市御料(三田村定頼室) 女子(浅井忠種室) 千代鶴(六角宗能室)近江の方(斎藤義龍室)
養子:田屋明政


信長の野望での浅井亮政

信長の野望・大志での能力値

浅井亮政能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
浅井亮政(あざい すけまさ)
統率 84
武勇 79
知略 72
内政 64
外政 69


 浅井家を一家臣から戦国大名まで押し上げただけあって、それなりに高い能力を有しています。
 孫である浅井長政とよく似た能力値ですね。

 どうやらこの能力は子の久政には受け継がれず、長政へと隔世遺伝してしまったようです。

 とはいえ。
 決して低くの無い能力ではあるものの、宿敵であった南近江の六角定頼に比べると、どうしても見劣りしてしまいます。

 後年、定頼と一緒に攻め込んで来る朝倉宗滴などと比べても同様です。

 これではさしもの亮政もどうにもなからかったでしょう。
 能力値からもそれがうかがえる、ということですね。

 ではそんな亮政が送った人生はどのようなものだったのか。
 次から紐解いていきましょう。

京極家での台頭

浅井家嫡流を継ぐ

 浅井亮政は1491年(延徳3年)に、浅井直種の子として誕生しました。

 父である浅井直種は北近江の守護であった京極氏に仕えた人物であり、この京極氏に仕えた浅井氏の庶流に当たる家系の出です。

 浅井氏嫡流には宗家の当主として浅井直政がいましたが、直政には男子がいなかったため、直種は亮政を養子として出し、直政の娘であった蔵屋と結婚することになったようです。

 これにより亮政は、浅井家の嫡流を継承することになりました。

京極騒乱

 亮政が仕えていた京極家はこの頃、当主である京極高清が次男の京極高吉に家督を継承させようとしたことで、長男・京極高延との間で対立し、お家騒動が勃発しています。

 この際に亮政は近江国衆であった浅見貞則と共に、長男・高延を推し、次男・高吉を推す京極高清や上坂信光らと対立したことで、家中は二分されてしまいました。

 そして1524年(大永4年)、両者は合戦へと及んで亮政らが勝利。
 敗北した京極高清や上坂信光は、尾張へと逃亡したといわれています。

 この時、亮政は浅見貞則らと共に国人一揆を主導していましたが、一揆の盟主であった浅見貞則が専横を極めたため、亮政は浅見一族を追放し、盟主となることで京極家においての実権を掌握することになるのです。

六角家との対立

 しかし今度は京極高延が亮政の実権掌握に不満を持ち、対立していた京極高清と和解。
 更には南近江守護であった六角定頼の支援を受けて、亮政と対決姿勢をとるようになっていきます。

六角定頼

 六角氏は京極氏にとっての本家筋にあたる家柄であり、この時期は室町幕府将家を庇護するなどして、幕府への関与を強め、その勢力を強めていました。

 この六角家の当主であった六角定頼は、内政・外交ともに巧みで優れた手腕の持ち主であり、織田信長が行ったことで有名な楽市楽座を創始したことでも知られています。

 六角氏との対立は亮政にとっても難事であったようで、常に不利を強いられることになりました。

朝倉家との同盟

 1525年(大永5年)には美濃の内乱に介入した亮政を牽制するために、六角氏は越前の朝倉氏と協力して小谷城へと侵攻します。

 そんなことしているから、隙をさらけ出して六角氏や朝倉氏に攻め込まれてしまっているのですが、それだけ亮政暴れん坊だったようです。

 この時に朝倉氏より派遣された名将・朝倉宗滴は五ヶ月にわたって小谷に布陣し、浅井氏と六角氏の調停に努めました。

 ここで朝倉家のチート爺様、朝倉宗滴が登場です。
 この頃の宗滴はまだ老齢ではなく、壮年期で充実していた頃だったこともあり、亮政にしてみればとても敵う相手ではありませんでした。
 朝倉家自体も全盛期一歩手前でり、国力も北近江の浅井家とは比較にならないくらい充実していましたしね。

 終始不利であった浅井氏にとって、この時の宗滴の調停は亮政にとって非常にありがたいものだったようで、これ以降、浅井氏と朝倉氏は強固な絆で結ばれることになり、のちの金ヶ崎の戦いにおける、織田信長の撤退戦に繋がる遠因にもなったともいわれています。

 ここで不思議なのは、朝倉家は六角と一緒に攻め込んできたにも関わらず、まるで助けるかのように調停したことです。

 これは朝倉家の対外的な戦略に一つだったと考えられ、当時の朝倉家は前述したように、全盛期一歩手前で強国ではありましたが、加賀方面はもちろんのこと、越前内部にも一向一揆という問題を抱えていたこともあって、意外に身動きが取れなかったのです。

 そういう事情の中、六角定頼を筆頭に日の出の勢いであった六角家と対立するのは朝倉家にとってもうまくなく、領地を接するのも面倒臭い。となると、その緩衝地帯にあった北近江の浅井家は重要な存在だった、というわけですね。

 つまり朝倉家にしえみれば、浅井家には滅んでもらっては都合が悪かった、ということでしょう。
 そこで攻め込んでおきながら恩を売り付け味方にし、南からの盾にしたのです。

 ともあれここでいわゆる朝倉家と浅井家の同盟が結ばれて、お互いに滅亡するまで継続されることになりました。

京極家との和解と対立

 六角氏と対立するなか、京極氏と争う余力の無かった亮政は、1534年(天文3年)に居城である小谷城に京極高清を招いて饗応し、和解しました。
 これにより、北近江の支配は京極氏から浅井氏に移ることになったといえます。

 浅井家は京極家を完全に駆逐したわけじゃなく、取り込むことを選択したということですね。
 それがよく分かる場所があって、それが浅井家の居城であった小谷城です。

 小谷城の曲輪をみてみると、本丸よりも一段高い所に京極丸っていう曲輪が存在しています。
 これは北近江を実効支配したのは浅井家ではあったものの、形の上では京極氏を自分よりも上に置いておいた、ということを物理的に示している証拠といえるでしょう。

 しかし子の京極高延は1541年(天文10年)に挙兵し、反旗を翻します。
 
 再び京極氏との対立という問題を抱えたまま、翌年の1542年(天文11年1月6日)に死去。

 その家督を巡って子の久政と婿養子の田屋明政が争うなど家中は乱れ、久政は六角氏に臣従することで浅井家の命脈を保つことになっていくのです。

浅井亮政 関係年表

 1491年 浅井直種の子として誕生。
 1523年 京極家のお家騒動。
 1524年 対立した京極高清らに勝利。
 1525年 朝倉宗滴の調停。
 1534年 京極高清と和解。
 1541年 京極高延が反旗を翻す。
 1542年 亮政死去。