鵜殿氏長【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
鵜殿氏長は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。
徳川家康長男・竹千代(松平信康)と、正室の築山殿(瀬名姫)との人質交換にされた人物として知られています。
信長の野望での鵜殿長照
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
28 | 22 | 44 | 42 |
能力的にはなかなかひどい評価。
特に戦働きに関してはほぼ使い物にならなさそうです。
何だかんだで主要な戦場にも参陣し、さらには家の命脈も保った人物なのですが、ゲーム中の評価には繋がらなかったようですね。
鵜殿氏長の来歴
鵜殿氏長は 天文18年(1549年)、三河国上ノ郷城主として宝飯郡一帯を治めていた鵜殿長照の子として生まれました。
鵜殿氏は今川氏に従属していましたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの敗戦によって今川氏の力が減衰すると、三河支配の力も弱まり、岡崎城の松平元康(後の徳川家康)が今川氏から離反したことで、多くの国人は松平氏の傘下に加わるようになります。
そんな中、上之郷鵜殿氏は西三河で数少ない今川方となって松平氏と戦いました。
しかし永禄5年(1562年)上之郷城は元康の攻撃にあって落城し、父・長照は討死します。
その際、氏長は弟の氏次とともに松井忠次によって捕らえられ、駿府に抑留されていた元康の夫人とその嫡男竹千代、長女亀姫との人質交換によって今川氏方へと引き渡されました。
その後は大原資良に従っていたようで、吉田城を守備しましたが、同城も徳川氏によって落城。
これにより氏長は駿河へ後退したようです。
永禄11年(1568年)頃には今川氏の没落が決定的になっており、氏長は徳川家康に臣従して旧領を安堵されたようで、氏長自身は遠江二俣城の守将の一人となっています。
その後は姉川の戦い、長篠の戦い、光明城攻めなどに従軍。
天正19年(1591年)になると天下は豊臣秀吉のものとなり、徳川氏は関東に移封され、それに従った氏長は1,700石を与えられたとされています。
文禄2年(1593年)には諸大夫成りし、石見守に任じられました。
慶長10年(1605年)福正院の池田利隆降嫁、慶長14年(1609年)保寿院の細川忠利降嫁にそれぞれ供奉していることが伝わっています。。
また京極高次死後の小浜藩に派遣され、藩政の監察を行っていたようです。
慶長20年(1615年)に大坂夏の陣が勃発すると、使番として戦列に加わりました。
寛永元年(1624年)76歳で死去。
家督は養子の氏信が継ぐことになります。