鵜殿長照【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
鵜殿長照とは戦国時代の武将。三河国宝飯郡上ノ郷城主。今川家の家臣です。
信長の野望での鵜殿長照
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
55 | 65 | 50 | 35 |
史実で伝わっている事績においては、やはり最後は討ち取られるという末路を辿っていることもあってか、さほど高い能力としては評価されていません。
並みの能力といえばそうなのですが、三河の脳筋たちを相手にするには力不足は否めないかもしれませんね。
しかし今川家にとっては貴重な人材です。
鵜殿長照の来歴
鵜殿長照の生年はわかっていません。
弘治2年(1556年)、今川氏に従っていた父・鵜殿長持が死去したため、城主を継いだとされています。
当時、今川氏が西進政策を採り続けいたこともあって、三河の東西を結ぶ意味合いを持っていた鵜殿氏の所領は非常に重要度が高かいものでした。
結果、鵜殿氏の地位は向上し、今川義元の妹が生母ということもあって、義元の甥にあたる長照も今川氏の親戚として重用されたと考えられています。
永禄3年5月(1560年)の桶狭間の戦いが勃発しますが、その以前から、尾張大高城の城代に任命されていたといわれています。
しかし大高城は対織田戦線の最先端にあって身動きを封じられており、兵糧枯渇の窮地に立たされていました。
長照は城兵を鼓舞し、山野の草木の実を採取して飢えを凌いだと伝わっています。
桶狭間の戦いの前哨戦となった松平元康(のちの徳川家康)の指揮による兵糧運び入れが賞賛されたのは、まさにこの時ですね。
窮地から解放されると、長照は元康と大高城の守備担当を交代。
ただその後の使命や働きなどは明確ではありません。
そんな中桶狭間本戦において、義元が移動の小休止中に織田信長によって討たれ戦死すると、元康よりも先に三河の本領に逃げ帰っているようです。
この桶狭間の敗戦によって、今川氏支配の領国は政治的に混乱をきたしました。
今川氏の支配が弱まった三河において、急速に台頭したのが松平氏です。
一方、今川氏に属した長照は松平家康(元康より改名)と必然的に対立することになりました。
その対立の過程で、特に近隣領主の竹谷松平清善としばしば戦ったとされています。
しかし長照自身は「不行儀」だったため人心を得られなかったようで、一門の中から離反者が発生。ついには松平氏に降った者や駿府へ逐電した者が出始めました。
永禄4年(1561年)鵜殿勢は竹谷城に夜襲をかけようとしたものの、城兵らが夜通しで賭博していたのを計画が露見したと誤認し、撤退におよぶなどの逸話も残されています。
以後も長照は竹谷松平氏を相手に善戦しましたが、永禄5年(1562年)松平勢は家康自ら軍勢を率いて上ノ郷城を攻撃。
これに対し長照はよく守りましたが、家康は甲賀衆に火計を用いさせ、その混乱に乗じて城は攻め落とされてしまいます。
そして長照も伴与七郎に討ち取られました。
長照の二子氏長・氏次は捕らえられ、駿府に留められていた家康の妻子と交換する形で今川氏方へと送られたことは、有名な話として伝わています。