南部信直【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
南部信直とは戦国時代の陸奥国の戦国大名。
南部氏第26代当主となり、南部家中興の祖といわれました。
今回はそんな南部信直を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での南部信直
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 64 |
武勇 | 51 |
知略 | 76 |
内政 | 75 |
外政 | 77 |
知略、内政、外政は70台と、内政向けの能力が優秀です。
一方で統率、武勇といった能力はごく平凡。
対立した南部晴政とは対照的で、お互いが補完し合えば理想的な統治ができたのかもしれませんが、結果は歴史が教えてくれる通りで、ダメダメでした。
合戦向きの能力はいまひとつなのは、やはり津軽為信(大浦為信)を武力的に討伐できず、台頭を許してしまったからでしょうか。
外政能力でも為信に劣っているのは、やはり豊臣政権下において一歩先んじられたからでしょう。
それでも南部家の体制を確立させた点は評価され、このような能力に落ち着いたものかと思われます。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
70 | 49 | 79 | 73 |
新生での南部信直は統率能力こそ70台に上昇したものの、武勇は低下。
勇ましい顔グラとは対照的に、よわよわな能力値となっています。
戦乱の世であれば晴政のような能力配分の方が良いのかもしれませんが、時はすでに豊臣秀吉による天下が定まったあたり。
となると、世渡り上手に生きることが重要で、戦働きよりも政治手腕の方が大事になってくるのかもしれません。
南部信直の来歴
南部信直は南部家第22代当主であった南部政康の次男・石川高信の庶長子として、天文15年(1546年)3月1日に誕生しました。
その後、南部家は従兄弟であった南部晴政が第24代当主として南部家を継承していましたが、晴政に男子がいなかったことにより、晴政長女の婿となることで養子となって、晴政の後継者となるべく三戸城に迎えられたそうです。
ところが元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生したことで、信直と晴政の関係が悪化します。
実子が生まれたことにより、養子に家督を継承させたくなくなるのはいつの世でも起こることで、豊臣秀吉なども実子秀頼が生まれたことにより、関白の座を譲ってまで後継者としていた豊臣秀次を死に至らしめています。
ともあれ、両者の関係が冷え込む中、元亀2年(1571年)5月、信直の実家である実父・石川高信が、南部一族の大浦為信に石川城を攻められて自害するという事件が発生しました。
そして天正4年(1576年)には信直正室が死去したことにより、信直は自身の窮地を感じてか、晴政の後継ぎの座を辞退することになります。
これでも安心できず、いったん田子館に引き籠もるも、さらに場所を転々として刺客から逃れたといいます。
一方の晴政も信直に対して不信を抱いており、南部家は信直を中心とする勢力と、晴政を中心とする勢力の間で対立が続くことになりました。
このような内部対立があったことで、反乱していた大浦為信によって津軽地方が切り取られていくものの、これに対して南部家は対抗することができず、為信の台頭を許してしまいます。
そして晴政の死後、南部氏第25代当主となった晴継が急死。
これにより信直が南部氏第26代当主を継承することになりました。
この頃には本能寺で横死した織田信長に変わって豊臣秀吉が勢力を拡大しており、信直は豊臣政権との交渉を行うようになります。
天正18年(1590年)1月には津軽へと兵を進めるも、大浦方の抵抗は激しく南部方は討伐に失敗。
そのまま小田原へと豊臣方として参陣すべく、撤退に及びました。
この際に津軽地方を押領されたことを訴えるものの、大浦為信に先を越されて所領の安堵が約束されており、信直の訴えは退けられます。
天正19年(1591年)には、九戸政実の乱が勃発。
豊臣秀次を総大将とした秀吉からの10万の援軍を得たことにより、これを鎮圧。
この際に、改めて為信の押領を訴え、討伐を願い出るも拒否されているようです。
結局失った津軽地方の代替地として、和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増。
10万石の大名となりました。
豊臣政権下にて、その主権を確立していった信直でしたが、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康に接近。
しかし翌慶長4年(1599年)10月5日に死去しました。
享年54。
その家督は長男であった南部利直が継承することになります。