河合吉統【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
河合吉統とは戦国時代の武将であり、越前朝倉氏の家臣。
朝倉氏の行政担当として活躍し、最期は刀根坂の戦いにおいて戦死した人物として知られています。
今回はそんな河合吉統を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での河合吉統
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 40 |
武勇 | 41 |
知略 | 60 |
内政 | 68 |
外政 | 65 |
能力は一見して分かるように、内政向けの能力を有してします。
吉統は一乗谷奉行人という立場であり、主に内政で活躍していた記録が残っているため、このような数値になったのだと思われます。
一方で軍事能力は、今一つ。
これは吉統が内政官的なイメージが強いからなのかもしれませんが、実際には戦場に出、軍勢を率いて戦っている記録が残っています。
また戦によっては先鋒を任されるなど、重要な役どころを担ってもおり、またそれらを大過なくこなしたことを思えば、やや低すぎるような気もしないではありません。
そしてその最期も一乗谷ではなく、戦場でした。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
41 | 44 | 61 | 69 |
新生での吉統は、前作とほぼ同じ能力。
政務能力が69と、70まであと一歩。
70台になると、一気に一乗谷奉行人としての内政能力が評価されたようにみえてくるのですが、次作はどうなるか。
朝倉氏の行政を担当する
河合吉統は1521年(大永7年)に誕生しました。
内政に手腕を振るった人物で、最初は当主である朝倉義景の奏者として活動したとされています。
その後1550年(天文19年)に奉行衆へと任命。
1570(元亀元年)から1573年(天正元年)の朝倉氏滅亡まで、いわゆる一乗谷奉行人と称された地位あって、行政全般を担っていたと考えられています。
この期間においては、朝倉家の家臣団の中では最高位の地位にあったと考えられています。
つまり河合吉統は朝倉氏の行政官、今でいう官僚のトップみたいな地位にいた、といったところでしょうか。
朝倉氏が治めていた頃の越前国内が比較的安定していたことを思えば、それなりの能力はあったのかもしれません。
一乗谷奉行人
一乗谷奉行人とは、朝倉氏当主の命を奉じて政務を執行する者のことをいいます。
これは一人だけではなく、二名から四名の奉行人がこれにあたっていました。
この奉行職に任命される家柄は決まっており、朝倉掃部助家、朝倉玄蕃助家(越中守家)、魚住家・河合家・小泉家・前波家の六家であったとされ、この中で交代しつつ世襲されていたようです。
ちなみに朝倉義景の時代の一乗谷奉行人としては、河合吉統を始めとして魚住景固、小泉長利、朝倉景連らが挙げられます。
刀根坂の戦い
内政に腕を振るう一方で、河合吉統は武将として各地に転戦していたようで、1566年(弘治元年)には大野郡や加賀への出兵、また1570年(元亀元年)の姉川の戦いにおいても、先鋒として出陣しています。
姉川の戦いに参加した朝倉家臣といえば、総大将の朝倉景建や真柄直隆の名が知られていますが、吉統もそんな彼らに交じって参加していたわけですね。
2,000騎を率いて先鋒を担った、ということだから、それなりに統率力もあったのかもしれません。
内政担当な雰囲気ではありますが、戦場にも出ていたわけで、やっぱり戦国武将には違いなかった、ということなのでしょう。
しかし1573年(天正元年)、朝倉氏は織田信長に対し、刀根坂の戦いで大敗を喫しました。
この時に朝倉氏の有力家臣を数多く失い、吉統もまたその一人であったことが、記録に残されています。