信長の野望:武将能力列伝

斎藤龍興【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴

斎藤龍興能力【信長の野望大志】

 斎藤龍興とは戦国時代の美濃国の戦国大名。
 道三流斎藤家第3代当主、もしくは美濃一色家第2代当主です。
 織田信長に美濃を追われるも各地で戦い続け、刀根坂の戦いにて戦死しました。

 今回はそんな斎藤龍興を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

斎藤竜興(さいとう たつおき)
撫子
生年 1548年(天文17年)
没年 1573年(天正元年8月14日)
改名 喜太郎(幼名)⇒龍興
別名 右兵衛大夫 治部大輔(通称) 義糺 義輔 義棟
主君 足利義輝⇒足利義栄⇒朝倉義景
氏族 美濃斎藤氏
家紋 撫子(なでしこ)
父:斎藤義龍
母:近江の方


信長の野望での斎藤龍興

信長の野望・大志での能力値

斎藤龍興能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
斎藤龍興(さいとう たつおき)
統率 31
武勇 39
知略 32
内政 43
外政 33


 これがあの美濃の蝮、斎藤道三の直系の孫なのかというほどの、悲惨な能力です。

 いいところが何も無く、目も当てられません。
 お隣越前の戦国大名・朝倉義景の能力を全てにおいて下回っています。

 が、ここまでくると、いっそ清々しいですね。

 このように低評価の龍興ですが、それは如何なる理由によるものなのか。

 斎藤龍興の人生から紐解いていきたいと思います。

斎藤龍興とは

斎藤龍興像斎藤龍興像

 斎藤龍興っていうと、父親である義龍が守った美濃国を、あっという間に信長に取られてしまったっていう、暗愚なイメージがつきまといます。

 祖父の斎藤道三や、父親の義龍に比べるとどうしても凡庸な印象が拭えませんが、美濃を追われた後もずっと、信長に屈せず抗戦し続けた不屈の人物ではあったのです。

 信長が美濃を攻略し、そのあと忘れた頃にどういうわけか朝倉家と一緒に滅んでいるけどどうして? みたいな感じの再登場と退場をこなすのですが、実はずっと戦っていたのでした。

 しっかり調べてみると、美濃失陥後もけっこうあちこちに登場していたりするんですよね。

父・義龍の死

 斎藤龍興は1548年(天文17年)に斎藤義龍の子として誕生。

 龍興の生母に関しては諸説あって、庶子であるという話もあるし、義龍正室の近江の方の子である、ともいわれています。

 ちなみに近江の方とは、北近江の戦国大名・浅井久政の娘、といわれている人物です。

 もっとも、それだと年齢が合わなくて、娘といっても実は養女で、本当は久政の父である浅井亮政の娘じゃないか、と考えられています。

 これは義龍と久政の年齢が、ほとんど同じだからですね。

 母親の方はそんな感じなのですが、父親である義龍が実は道三の子じゃない、なんて説もあり、さらにややこしくなっていたりします。

 1561年(永禄4年)、父・義龍が急死。
 これにより龍興は若くして家督を継ぐことになったのです。

 この時の龍興、14歳。

美濃失陥まで

 織田信長の侵攻に対し、1561年(永禄4年)の森部の戦いでは勝利するものの、日比野清実、長井衛安ら斎藤六宿老(安藤守就、氏家直元、日根野弘就、竹腰直光、日比野清実、長井衛安)らを失ってしまいます。

 また1562年(永禄5年)には郡上八幡城主の遠藤盛数が病死するなど、有力家臣が次々に失われていきます。

 そんな中、龍興は状況を打開するために隣国北近江の浅井長政との同盟を模索しました。

 しかし考えることはみんな同じです。

 美濃攻略に手こずっていた信長は、先んじて浅井長政と婚姻同盟を締結。
 これにより長政は、逆に美濃侵攻を行うようになってしまうのです。

 窮地に陥った龍興でしたが、この時は父の代から同盟を結んでいた南近江の六角義賢が北近江に侵攻してくれたおかげで、長政は撤退し、難を逃れています。

 1563年(永禄6年)、織田信長が再度美濃へと侵攻。
 新加納の戦いが勃発します。

 この時、信長が率いた織田勢は5,700。
 対する斎藤勢は3,500。

 数の上では斎藤方不利だったのですが、しかし結果は斎藤方の勝利となったのでした。

 これを龍興がやったのであれば、その武勇、もしくは知略は祖父や父にも劣らない、と自慢できたのでしょうが、これをやってのけたのは龍興でなく、家臣であった竹中重治だったといわれています。

 いわゆる竹中半兵衛ですね。

 竹中重治らの活躍で織田勢を退け勝利を得たものの、龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけてしまいます。

 そのため1564年(永禄7年)、舅であった安藤守就と共に重治は斎藤飛騨守を殺害し、稲葉山城を占拠し、龍興を追い払ってしまうという事件が発生しました。

 これは半兵衛がたった16名で稲葉山城を乗っ取ったっていう、有名なエピソードです。

 これをやってのけた半兵衛が凄いのか、してやられた龍興がアホの子だったのか、まあどっちもそうだったのでしょう。

 この後、重治は龍興に稲葉山城を返還しており、龍興は美濃の国主に返り咲いています。
 しかしこの事件は斎藤氏の衰退を示すものでした。

 それを示すかのように、東美濃においては市橋氏、丸毛氏、高木氏などが織田家に通じ始めてしまいます。

 そして1565年(永禄8年)、美濃の有力国人であった佐藤忠能が織田家に寝返り、堂洞城主の岸信周が討たれます。

 また関城主で大叔父の長井道利は斎藤利治に敗れ、中濃地方が織田家の勢力下に入ってしまいました。

 さらには1567年(永禄10年)、美濃三人衆の稲葉良通や氏家直元、安藤守就らが信長に内応。

 これにより稲葉山城を信長に落とされ、龍興は長良川を船で下り、北伊勢の長島へと亡命したとされています。

 この時の龍興は20歳。

 ドラマなんかですと、だいたいここで龍興の出番は終了してしまうという、残念な終幕となってしまうのです。

織田家への抵抗活動

 ドラマで描かれなくても、龍興は信長への恨みを忘れておらず、抵抗活動を続けました。
 今でいう、レジスタンスみたいなものです。おぉ、なんか格好いい。

 伊勢に逃れた龍興は畿内へと移り、三好三人衆と結託して1569年(永禄12年)、信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を攻めています。

 いわゆる本圀寺の変ですね。

 しかし明智光秀らの奮戦で失敗に終わります。

 また1570年(元亀元年)には三好康長や安宅信康、十河存保や石山本願寺顕如らと共に三好三人衆を支援した、野田城・福島城の戦いにも参加しました。

 その後、越前国の朝倉義景を頼り、客将として遇されたといわれています。

 そして1573年(天正元年8月)、北近江の浅井氏の居城・小谷城を攻めた織田信長に対し、朝倉義景は自ら軍勢を率いて援軍を派遣。
 龍興もこれに従軍しました。

 しかしその撤退の最中、刀根坂において激戦となり、討死。享年26でした。

 かつて斎藤家の重臣であった氏家直元の嫡男・氏家直昌に斬られた、ともいわれています。

龍興生存説

 現在の富山市にある興国寺の伝説によると、龍興は戦死せず、越中国新川郡布市村に来て興国寺に隠れたと伝わっています。

 そしてお家再興が叶わないことを悟り、九右ェ門と改名して付近を開拓したそうです。

 1611年(慶長16年)になり、家督を子に譲って自らは出家。
 1632年(寛永9年)に死去したという。享年87。

 ずいぶん具体的な伝承であり、かなりの長生きをしたようです。

 あくまで俗説ではありますが、仮にもしこの通りに龍興が生存していたならば、時代の移り変わりをどのように見守って、その人生を終えたのでしょうか。

斎藤龍興画像

斎藤龍興像(落合芳幾画)斎藤龍興像(落合芳幾画)