斎藤義龍 ~父・道三に最後まで認められなかった嫡男

斎藤義龍 ~父・道三に最後まで認められなかった嫡男

 斎藤義龍とは戦国時代の武将、美濃国の戦国大名。
 父・道三を長良川の戦いで敗死させ、道三流斎藤氏の第2代当主となった。
 美濃一色氏初代とする説もある。

斎藤義龍(さいとう よしたつ)
撫子
生年1527年(大永7年6月10日)
没年1561年(永禄4年5月11日)
改名豊太丸(幼名) 斎藤義龍 范可(号)
別名新九郎(通称) 利尚 高政 一色義龍 一色左京大夫
主君足利義輝
氏族美濃斎藤氏
家紋撫子(なでしこ)
父:斎藤道三
母:深芳野
兄弟義龍 孫四郎 喜平次 利堯 利治(長龍) 帰蝶(織田信長正室) 女子(斎藤利三正室) 女子(姉小路頼綱正室) 女子(土岐頼純室) 女子(稲葉貞通正室) 女子(斎藤利之妻 斎藤元忠の母)
義兄弟:正義
正室:近江の方(浅井久政の養女で亮政の娘)
龍興

斎藤義龍とは

由羅
由羅
斎藤義龍といえば、斎藤道三の長男で父・道三に反旗を翻し、敗死させたことで知られている人物だよね
そう。いわゆる親殺しをした戦国大名だよ
イリス
イリス
由羅
由羅
戦国時代ならそういうこともあるかもしれないけれど、それでどうしてそうなったのかって思うよね
こんな時代であっても、親殺しは汚名に違いないから。だからそれを避けるために、一色姓を名乗ったりしたともいわれているよ
イリス
イリス

来歴

母・深芳野

 斎藤義龍は1527年(大永7年)に、斎藤利政(のちの斎藤道三)の長男として誕生した。
 母親は側室であった深芳野。

義龍の母親であった深芳野は、美濃一とされる美女だったそうだよ。しかも身長は六尺二寸もあったらしいし
イリス
イリス
由羅
由羅
六尺二寸?
約187cmくらいかな
イリス
イリス
由羅
由羅
現代でいうモデル体型の人よりも、って感じだね。だから義龍も大きかったんだ
うん。義龍は六尺五寸(約197cm)の大男だったそうだから
イリス
イリス
 深芳野は元は土岐頼芸の愛妾だったとされ、のちに下賜されて道三の側室になったという。
ちなみに……俗説ではあるけれど、道三が深芳野を拝領する以前から懐妊していた、という噂があるの
イリス
イリス
由羅
由羅
それってまさか……?
そう。実は義龍は道三の子ではなくて、土岐頼芸のご落胤ではないか、ともいわれているそうだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
うわあ……。そういうのがあると、のちのち……って思っちゃうよね
このことは江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』によるもので、あくまで一説に過ぎない話ではあるけれどね
イリス
イリス

家督継承

 1554年(天文23年)、父・道三は隠居。
 そのため長男であった義龍が家督を継いで稲葉山城主となったとされる。

この時の道三の隠居は、決して道三自身が望んだものではなくて、なかなか家臣の統制がとれず、領国経営のためにやむなく譲った……ともいわれているの
イリス
イリス
由羅
由羅
どうしてうまくできなかったの?
道三の美濃国盗りの経緯から、どうしても土岐氏由来の家臣たちの信を得られなかったから、だろうね
イリス
イリス
 家督継承後、道三は義龍に対し耄者(愚か者の意)と断じ、利口者であるとした、義龍の弟であった孫四郎や喜平次を偏愛するようになったという。

 このような道三の振る舞いに対し、義龍も危機感や不満を募らせていった。
 そして道三は義龍廃嫡を考え始め、正室の子であった孫四郎を嫡子にしようと考え始めたとされる。

由羅
由羅
義龍が素直にこれを受け入れるはずもないものね
その通り。だからこの時、義龍と道三の仲は最悪な状態になっていたと言えるよ
イリス
イリス

長良川の戦い

 1555年(弘治元年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀し、弟の孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させた。
 この事件に道三は驚き、大桑城に落ち延びたという。

由羅
由羅
義龍がまず先手を打ったんだね
 そして1556年(弘治2年)、義龍は長良川にて道三と対峙。
 この時、道三に味方する土岐氏由来の家臣は少なく、兵力で勝る義龍方は道三を打ち破り、これを討ち取ったという。
この時、道三方についた明智氏なんかも攻め滅ぼしているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
明智光秀が浪人する羽目になった事件だものね
 この時、道三の娘婿であった尾張の織田信長が援軍を派遣していたものの間に合わず、撤退している。
ちなみにこの時、義龍の弟であった斎藤利治が尾張に亡命して、織田家臣になっているから
イリス
イリス

義龍の内政・外交

 美濃国は長年の内乱により混乱していたが、義龍は貫高制に基づいた安堵状を発給するなどして、所領の問題を処理。
 また宿老による合議制を導入。
 戦続きであった道三の時代には成し得なかった守護領国制を排し、戦国大名としての基礎を築いたとされる。

 また義龍は京の足利義輝より一色氏を称することを許され、一色義龍と改名した。

 また1558年(永禄元年)には治部大輔に、1559年(永禄2年)には足利幕府相伴衆に列せられている。

この頃は織田信長の美濃侵攻が激しさを増していた頃ではあったけど、南近江の六角義賢と同盟し、北近江の浅井久政と戦ってもいるよ。もっとも信長のせいで勢力拡大はできなかったけれどね
イリス
イリス
 そして1561年(永禄4年)、左京大夫に任じられるも同年中に急死した。享年35。
 これにより、美濃国は織田信長による更なる侵攻にさらされることになっていくのである。
由羅
由羅
義龍って、父親に劣らない才覚の持ち主だったんだね
うん。信長ですら義龍が存命のうちは手が出せずにいたくらいだから。だから義龍の急死は、信長にとってまさに天祐だったんだよ
イリス
イリス

斎藤義龍の人物像

道三の遺言

 父・道三は長良川の戦いで戦死する前に、織田信長に対して美濃を譲るという趣旨の遺言状を残している。

道三は義龍のことを愚か者としていたけれど、実際に対峙してその采配を見たことで、認識を改めたといわれているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
それでもそんな遺言状を信長に残しているんだね
結局のところ、最後の最後まで道三に認めてもらえなかった、ということだね
イリス
イリス

信長暗殺

 1559年(永禄2年)、信長が僅かな供回りで上洛した際に、道中で火縄銃により暗殺を謀ったという。

これが記録上では日本初となる、狙撃の実例だよ
イリス
イリス
由羅
由羅
義龍って、そういう発想もできたんだね。ちなみに戦果は?
失敗したそうだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
だよね。信長ってこの後も活躍するわけだから

一色姓を名乗る

 義龍は親殺しの汚名を避ける手段として、一色姓を名乗ったとされる。

由羅
由羅
一色姓を名乗ることが、どうして親殺しの汚名回避になるの?
まず義龍の母である深芳野が、遡れば一色氏の出自だとされているの。そして当時から義龍は道三の子ではなくて、土岐頼芸の落胤である、という噂があったわけで……
イリス
イリス
由羅
由羅
つまりその噂を逆手に取った、ということ?
その通り。もし噂通りなら義龍は道三の子ではないし、一色姓を名乗ることで斎藤氏とは違うということをアピールできる。それに土岐頼芸の子であるのなら、かつての土岐氏家臣たちは感情的に賛同し易い。だからこそ、長良川の戦いでは17,500もの兵を集めることができたとされているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
大義名分って大切なんだね。それにそういうことを考えて実行し、成功させた義龍って、やっぱり道三が言ったような耄者では無かった、ということかな
信長の才覚を見抜いた道三も、身内に対しては目が曇った、ということだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
それでも道三が義龍を最後まで認めなかったのは……
意地の類、かもしれないね
イリス
イリス

斎藤義龍画像

斎藤義龍