斎藤義龍(斎藤高政)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

斎藤義龍とは戦国時代の武将、美濃国の戦国大名です。
父・斎藤道三を長良川の戦いで敗死させ、道三流斎藤氏の第2代当主となりました。
美濃一色氏初代とする説もあるようです。
今回はそんな斎藤義龍を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
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生年 | 1527年(大永7年6月10日) |
没年 | 1561年(永禄4年5月11日) |
改名 | 豊太丸(幼名) 斎藤義龍 范可(号) |
別名 | 新九郎(通称) 利尚 高政 一色義龍 一色左京大夫 |
主君 | 足利義輝 |
氏族 | 美濃斎藤氏 |
家紋 | 撫子(なでしこ) |
親 | 父:斎藤道三 母:深芳野 |
兄弟 | 義龍 孫四郎 喜平次 利堯 利治(長龍) 帰蝶(織田信長正室) 女子(斎藤利三正室) 女子(姉小路頼綱正室) 女子(土岐頼純室) 女子(稲葉貞通正室) 女子(斎藤利之妻 斎藤元忠の母) 義兄弟:正義 |
妻 | 正室:近江の方(浅井久政の養女で亮政の娘) |
子 | 龍興 |
信長の野望での斎藤義龍
信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 77 |
武勇 | 76 |
知略 | 69 |
内政 | 58 |
外政 | 65 |

能力はどちらかというと、合戦向きの能力値、ですね。
内政関係は平凡。
決して低くはないけれど、父親である道三と比べると、ちょっと見劣りする数値です。
道三は義龍のことを、ほれもの(愚か者)と評していたようなので、『信長の野望』でも影響しているのかもしれません。
内政面はともかく、軍事面では過小評価されているような気もします。
何といってもあの道三に対して勝利し、その他反抗勢力であった明智氏なども、迅速な用兵でもってこれを滅ぼしている手腕。
さらに信長ですら、義龍が生きている間は美濃攻略を果たせなかったわけだから、少なくとも道三と同程度の能力があったとしても、過大とは言えないと思うのですが……。
個性や戦法、作戦などは、とにかく攻撃に主を置いたものがほとんどであり、戦場でこそ役に立つ能力といえます。
格付けはCとやや物足りず、意外に簡単に捕縛できてしまったり。
しかし野心12はご立派。
戦国武将たるもの、これくらいなければ!
信長の野望・新生での能力値

統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
78 | 77 | 74 | 60 |

新生での斎藤義龍は、全体的に評価は微増といったところ。
知略が70台に上昇したので、バランスのよい良将になっています。
しかし以前はもっと武勇が高かったのですが、最近では父・道三にすら及ばなくなっていますよね。残念。
来歴

母・深芳野
斎藤義龍は1527年(大永7年)に、斎藤利政(のちの斎藤道三)の長男として誕生しました。
母親は側室であった深芳野。
義龍の母親であった深芳野は、美濃一とされる美女だったといわれています。
しかも身長は六尺二寸(約187cm)もあったそうです。
現代でいうモデル体型の人よりも、って感じでしょうか。
そのため義龍も大きかったといわれています。
なんでもそ六尺五寸(約197cm)の大男だったそうな。
その深芳野は元は土岐頼芸の愛妾だったとされ、のちに下賜されて道三の側室になったという経緯がありました。
ちなみに……これは俗説ではあるのですが、道三が深芳野を拝領する以前から懐妊していた、という噂があったりします。
これはつまり、実は義龍は道三の子ではなくて、土岐頼芸のご落胤ではないか、ともいわれている原因になっているわけですね。
このことは江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』によるもので、あくまで一説に過ぎない話ではあるのですが、こんなおいしいシチュエーション、ドラマでは高確率で採用されてしまうネタになってしまうのは、まあやむを得ないのかもしれません。
家督継承
1554年(天文23年)、父・道三は隠居。
そのため長男であった義龍が家督を継いで、稲葉山城主となったとされます。
この時の道三の隠居は、決して道三自身が望んだものではなくて、なかなか家臣の統制がとれず、領国経営のためにやむなく譲った……ともいわれています。
どうしてうまくできなかったのかといえば、道三の美濃国盗りの経緯から、どうしても土岐氏由来の家臣たちの信を得られなかったことに起因するようです。
家督継承後、道三は義龍に対し耄者(愚か者の意)と断じ、利口者であるとした、義龍の弟であった孫四郎や喜平次を偏愛するようになったていきます。
このような道三の振る舞いに対し、義龍も危機感や不満を募らせていくのは当然でした。
そして案の定、道三は義龍廃嫡を考え始め、正室の子であった孫四郎を嫡子にしようとしたのです。
この時、義龍と道三の仲は最悪な状態になっていたと言えるでしょう。
長良川の戦い
1555年(弘治元年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀し、弟の孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させました。
義龍の道三に対する宣戦布告です。
この事件に道三は驚き、大桑城に落ち延びたといわれています。
そして1556年(弘治2年)、義龍は長良川にて道三と対峙。
この時、道三に味方する土岐氏由来の家臣は少なく、兵力で勝る義龍方は道三を打ち破り、これを討ち取りました。
ちなみにこの事件により、家臣であった明智光秀が浪人する羽目になったともいわれています。
道三の娘婿であった尾張の織田信長も援軍を派遣していたのですが間に合わず、撤退を余儀なくされていました。
ちなみにこの時、義龍の弟であった斎藤利治が尾張に亡命して、織田家臣になっていたりします。
義龍の内政・外交
美濃国は長年の内乱により混乱していたのですが、義龍は貫高制に基づいた安堵状を発給するなどして、所領の問題を処理。
また宿老による合議制を導入。
戦続きであった道三の時代には成し得なかった守護領国制を排し、戦国大名としての基礎を築いたとされます。
また義龍は京の足利義輝より一色氏を称することを許され、一色義龍と改名しました。
また1558年(永禄元年)には治部大輔に、1559年(永禄2年)には足利幕府相伴衆に列せられています。
この頃は織田信長の美濃侵攻が激しさを増していた頃ではあったのですが、南近江の六角義賢と同盟し、北近江の浅井久政と戦ってもいるなど精力的に活動していました。
もっとも信長の侵攻のために、勢力拡大はできなかったのですが。
そして1561年(永禄4年)、左京大夫に任じられるも同年中に急死。享年35でした。
これにより、美濃国は織田信長による更なる侵攻にさらされることになっていくのです。
斎藤義龍の人物像
道三の遺言
父・道三は長良川の戦いで戦死する前に、織田信長に対して美濃を譲るという趣旨の遺言状を残しています。
道三は義龍のことを愚か者としていましたが、実際に対峙してその采配を見たことで、認識を改めたといわれています。
それでもそんな遺言状を信長に残した心境はいかばかりだったものか。
結局のところ、義龍は最後の最後まで道三に認めてもらえなかった、ということでした。
信長暗殺
ちなみに1559年(永禄2年)、信長が僅かな供回りで上洛した際に、道中で火縄銃により暗殺を謀ったています。
何とこれが、これが記録上では日本初となる、狙撃の実例だったりします。
義龍の発想力の豊かさを物語るエピソードですね。物騒な内容ではありますが。
ただし、失敗したそうです。
一色姓を名乗る~一色義龍
義龍は親殺しの汚名を避ける手段として、一色姓を名乗ったとされています。
一色姓を名乗ることが、どうして親殺しの汚名回避になるかといえば、まず義龍の母である深芳野が、遡れば一色氏の出自だとされていることに行き着きます。
そして当時から義龍は道三の子ではなくて、土岐頼芸の落胤である、という噂があったわけで、つまりその噂を逆手に取った、ということですね。
もし噂通りなら義龍は道三の子ではないし、一色姓を名乗ることで斎藤氏とは違うということをアピールできるわけですから。
それに土岐頼芸の子であるのなら、かつての土岐氏家臣たちは感情的に賛同し易い。
だからこそ、長良川の戦いでは17,500もの兵を集めることができたとされているのです。
いかに大義名分って大切か、ということでしょう。
それにそういうことを考えて実行し、成功させた義龍は、やはり道三が言ったような耄者では無かった、という結論に行き着きざるを得ません。
信長の才覚を見抜いた道三も、身内に対しては目が曇った、ということなのでしょう。
それでも道三が義龍を最後まで認めなかったのは……意地の類、かもしれませんね。
斎藤義龍画像
