松前慶広【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
松前慶広とは戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国大名。
蝦夷地松前藩の初代藩主です。
今回はそんな松前慶広を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での松前慶広
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 67 |
武勇 | 54 |
知略 | 71 |
内政 | 84 |
外政 | 83 |
父・蠣崎季広とよく似た能力値。
外政能力がやや季広よりも高いのは、蝦夷地に引きこもらずに、本人自らお家存続と家格向上のために働き、実績を出したことを評価されてのことでしょう。
納得の数値です。
1600年前後になると、もはや戦国時代とは言い難い、泰平の世一歩前の時代であり、武勇よりも政治的、特に外政的な能力がものをいう時代となっていました。
そういった過渡期の時代を生き抜くに必要な能力は何であったのか、それを如実に教えてくれる人物と能力なのかもしれません。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
68 | 58 | 73 | 86 |
相変わらず内政官として優秀な一族です。
新生でも評価は変わらず。
松前慶広の来歴
松前慶広は蠣崎季広の三男として大館(松前)の館山城にて、天文17年9月3日(1548年)に誕生しました。
慶広は三男であったのですが、長兄・蠣崎舜広が永禄4年(1561年)に、翌年(1562年)には次兄・明石元広が次々に毒殺されたことにより、嫡男となって天正10年(1582年)、父・季広の隠居により家督を継承し、蠣崎氏当主となりました。
天正18年(1590年)、天下人として王手をかけていた豊臣秀吉が奥州仕置に着手すると、主家・安東実季の上洛に蝦夷地代官として帯同します。
しかし慶広はただついていっただけではなく、秀吉との関係の深かった前田利家に取り入り、秀吉との謁見に成功。
この時に、主家であった安東氏より独立し、大名化を果たしたと考えられているようです。
文禄2年(1593年)1月には、肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見しています。
当時の日本の端から端までよくもまあ元気なものだと思いますが、それは当時も同様に思われたようで、慶広の参陣に秀吉も喜び、官位を与えようとしたほどでした。
しかし慶広はこれを固辞。
代わりに蝦夷地での権益を認めてもらい、名よりも実をとって、さらには秀吉の後ろ盾を得、蝦夷地での支配を完全に確立させることに成功しました。
なかなか外交上手はしたたかな人物だったようです。
そしてそれはこの後も続きます。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、ただちに徳川家康と誼を通じ始めました。
その際に忠誠の証として、「蝦夷地図」を献上しています。
またこの頃に、アイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因み、改姓しました。
松前氏の誕生です。
慶長5年(1600年)には家督を長男・盛広に譲り、慶広は隠居。
しかし実権はその手中にあったようです。
慶長14年(1609年)に猪熊事件が発生すると、その結果として左近衛少将・花山院忠長が蝦夷・上ノ国に配流されてきます。
この機会を逃さないのが慶広のしたたかなところであり、花山院忠長を賓客として遇し、誼を結んで、その後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高め、さらには松前に京都の公家文化をもたらすことに成功したのです。
また慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の二回、徳川家康へと海狗腎を献上しました。
え、読めない?
はい、管理人も読めませんでした。
献上されたのは海狗腎(オットセイ)だったそうです。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には徳川方として参陣。
徳川家と豊臣家の争いの中で、慶長19年(1614年)には豊臣氏に通じたとして、親豊臣派であった四男・由広を誅殺するなど、お家存続のためには身内すら切り捨てる覚悟のある人物だったようです。
元和2年5月(1616年)、剃髪して海翁と号し、同年10月12日に死去。
享年69でした。