馬場信春【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
馬場信春とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。
武田信虎・武田信玄・武田勝頼と武田三代に仕え、後代の武田四天王(武田四名臣)の一人として名を残しました。
しかし長篠の戦いにて織田軍と戦い、戦死することになります。
今回はそんな馬場信春を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
生年 | 1515年(永正11年) |
没年 | 1575年(天正3年6月29日) |
改名 | 教来石景政⇒馬場信房⇒信春 |
別名 | 信政 信武 氏勝 |
家紋 | 花菱 |
主君 | 武田信虎⇒武田信玄⇒武田勝頼 |
親 | 父:教来石信保 |
兄弟 | 信春 信頼 |
子 | 昌房 娘(鳥居元忠室) 娘(真田信尹室) |
信長の野望での馬場信春
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 89 |
武勇 | 84 |
知略 | 88 |
内政 | 71 |
外政 | 78 |
馬場信春といえば、不死身の鬼美濃の二つ名が有名です。
そして武田四天王、もしくは武田四名臣の一人として挙げられる人物で、その勇名に恥じない能力を有しています。
統率、武勇、知略と合戦に関わる能力は80越え。
内政、外政といった能力も70台であり、戦時でも平時でも活躍できる名将となっています。
同じ四名臣の山県昌景に比べると、多少見劣りするというものですが、それは昌景が異常なだけで、十二分に優秀な能力です。
といっても総合値において、10程度しか違わないのですが。
それだけに近隣諸国の弱小大名家からすれば(武田家の周囲は強国ばかりですが)、間違いなく家臣団筆頭になれますね。
しかし四名臣、みんな強すぎだよ……。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
90 | 85 | 88 | 75 |
新生での馬場信春は前作とほぼ同じ評価ですね。
統率能力が90台に上昇したので、何となくグレードアップした感もあります。
馬場氏
信春の生年は、1514年(永正11年)もしくは1515年(永正12年)といわれています。
馬場氏は摂津源氏の流れをくみ、美濃土岐郡に土着した一族でしたが、のちに甲斐国教来石村に移り住み、教来石氏を名乗りました。
信春ももとは教来石景政と名乗り、のちに馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名し、さらに名を改めて馬場信春と名乗ったとされています。
ちなみに教来石は「きょうらいし」と読むそうです。
武田信虎時代
信春は武田信虎の代より、武田氏に仕えました。
信虎の子・武田晴信の初陣の際には信春も参戦し、海ノ口城攻めにて敵将・平賀源心を討ちとる功を挙げています。
また1541年(天文10年)に行われた、信虎追放計画にも参加し、信玄の家督継承に尽力したそうです。
武田信玄時代
武田信玄が甲斐武田氏国主となると、信玄は積極的に信濃攻めを行い、信春もこれに従って武功を挙げていくことになります。
これらの功により、1546年(天文15年)に馬場虎貞が武田信虎に殺害されて途絶えていた甲斐武田氏譜代の馬場氏の名跡を継ぐことを命じられ、改称。
この時に侍大将に出世しています。
馬場氏とは?
馬場氏とは源頼光の摂津源氏の後裔で、美濃源氏の土岐氏の祖となる源光信(土岐光信)の孫にあたる、美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族のこと。
享禄2年に武田信虎が一族の加賀美虎光を討った事を諌めたことが原因で、内藤虎資、山県虎清、工藤虎豊らと共に、当時の馬場氏当主であった馬場虎貞は信虎に手打ちされました。
ちなみに武田四名臣の内、三人がこの時手打ちになって断絶したお家の名跡を継いで、再興しています。
その後も功を挙げ、1559年(永禄2年)には譜代家老衆の一人として列せられ、1561年(永禄4年)に起きた川中島の戦いにおいては、上杉軍の背後を襲うための別働隊の指揮を任されました。
1562年(永禄5年)になると、鬼美濃と称された猛将である原虎胤の引退に伴い、美濃守を名乗ることを許され、馬場美濃守信春と改名したとされています。
ここで美濃守を称するようになり、鬼美濃と呼ばれるようになったのです。
1568年(永禄11年)には信玄による駿河攻めに参加。
翌年の1569年(永禄12年)に起きた三増峠の戦いにおいては北条軍と戦い、武功を重ねていく。
また西上作戦の最中、三方ヶ原の戦いに参戦して徳川軍を大敗せしめ、浜松城に追い込むなど功を挙げました。
武田勝頼時代
西上作戦の途中において、主君であった武田信玄が病死。
後を継いだ武田勝頼の補佐として、山県昌景と共に筆頭重臣としてこれを支えることになります。
しかし勝頼は信玄以来の老臣を疎み、重用されることはありませんでした。
そして1575年(天正3年)には、武田氏の運命を決定づける長篠の戦いが勃発します。
信春は昌景らと共に撤退を勝頼に進言するものの受け入れられず、決戦を強行。
いざ戦闘となると、信春は武田軍右翼に配置されました。
しかし武田軍の突撃に対し、織田信長・徳川家康連合軍の防御を突破できず、数で劣る武田軍は次第に劣勢となり、やがて崩壊。
大敗した武田軍は退却し、殿軍を務めた信春は勝頼の退却を見届けた上で反転し、織田軍と戦った上で壮絶な最期を遂げました。享年61。
この時の活躍ぶりは『信長公記』にも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されるものであったといわれています。
人物評価
その経歴からも分かるように、信春は数多くの戦に出陣し、その数は70にも及んだとされています。
そして最後の長篠の戦いに至るまで、かすり傷一つ負わなかったとされ、不死身の鬼美濃とも評されました。
また戦上手として知られている他に、深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城といった支城を築城したことでも知られており、築城の名手ともされています。
そしてこの築城技術は、山本勘助より教授されたとも伝わっているそうです。