馬場信春 ~馬場美濃守手前の働き、比類なし

馬場信春 ~馬場美濃守手前の働き、比類なし

 馬場信春とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。
 武田信虎・武田信玄・武田勝頼と武田三代に仕え、後代の武田四天王(武田四名臣)の一人として名を残した。
 長篠の戦いにて織田軍と戦い、戦死。

馬場信春 (ばば のぶはる)
花菱
生年1515年(永正11年)
没年1575年(天正3年6月29日)
改名教来石景政⇒馬場信房⇒信春
別名信政 信武 氏勝
家紋花菱
主君武田信虎武田信玄武田勝頼
父:教来石信保
兄弟信春 信頼
昌房 娘(鳥居元忠室) 娘(真田信尹室)

馬場信春とは

由羅
由羅
出た! 不死身の鬼美濃!
そうだよ。武田四天王、もしくは武田四名臣の一人だね
イリス
イリス
由羅
由羅
活躍した40年間で、70回もの戦に出たけれど、一度もかすり傷さえ負わなかったっていうひとだものね
うん。長篠の戦いで討死するまではそうだったっていうよ
イリス
イリス
由羅
由羅
本当なら凄いよね。でもそういう逸話の戦国武将って、他にもいたような?
イリス
イリス
由羅
由羅
そうそう! 「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」っていう、あのひとも、だね
とにかく戦で活躍したことは間違いのない人物だよ
イリス
イリス

馬場氏

 信春の生年は、1514年(永正11年)もしくは1515年(永正12年)といわれている。

 馬場氏は摂津源氏の流れをくみ、美濃土岐郡に土着した一族だったが、のちに甲斐国教来石村に移り住み、教来石氏を名乗った。

 信春ももとは教来石景政と名乗り、のちに馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名し、さらに名を改めて馬場信春と名乗ったとされている。

由羅
由羅
教来石って、また変わった名字だね。なんて読むの?
「きょうらいし」だよ
イリス
イリス

武田信虎時代

 信春は武田信虎の代より、武田氏に仕えた。

 信虎の子・武田晴信の初陣の際には信春も参戦し、海ノ口城攻めにて敵将・平賀源心を討ちとる功を挙げている。

 また1541年(天文10年)に行われた、信虎追放計画にも参加し、信玄の家督継承に尽力したという。

武田信玄時代

 武田信玄が甲斐武田氏国主となると、信玄は積極的に信濃攻めを行い、信春もこれに従って武功を挙げていく。

 これらの功により、1546年(天文15年)に馬場虎貞が武田信虎に殺害されて途絶えていた甲斐武田氏譜代の馬場氏の名跡を継ぐことを命じられ、改称。
 この時に侍大将に出世している。

由羅
由羅
馬場氏って?
馬場氏というのは源頼光の摂津源氏の後裔で、美濃源氏の土岐氏の祖となる源光信(土岐光信)の孫にあたる、美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族のことだよ。その後色々あって、当時の馬場氏当主だった馬場虎貞が武田信虎に手打ちされているの
イリス
イリス
由羅
由羅
……武田信玄の父親って、いっぱい家臣を手打ちにしているよね
享禄2年に信虎が一族の加賀美虎光を討った事を諌めたことが原因だよ。この時手打ちにされたのは、内藤虎資、山県虎清、工藤虎豊そして馬場虎貞だったから
イリス
イリス
由羅
由羅
うわあ……。でもなんか、みんな聞いたことのある名前ばかりだよね? 名字が、ってことだけど
武田四名臣の内、三人がこの時手打ちになってお家の名跡を継いで、再興しているからだね。馬場信春もその一人だったというわけ
イリス
イリス
 その後も功を挙げ、1559年(永禄2年)には譜代家老衆の一人として列せられ、1561年(永禄4年)に起きた川中島の戦いにおいては、上杉軍の背後を襲うための別働隊の指揮を任されましたという。

 1562年(永禄5年)になると、鬼美濃と称された猛将である原虎胤の引退に伴い、美濃守を名乗ることを許され、馬場美濃守信春と改名したとされている。

由羅
由羅
ここで美濃守を称するようになって、鬼美濃って言われるようになったんだね
 1568年(永禄11年)には信玄による駿河攻めに参加。

 翌年の1569年(永禄12年)に起きた三増峠の戦いにおいては北条軍と戦い、武功を重ねていく。

 また西上作戦の最中、三方ヶ原の戦いに参戦して徳川軍を大敗せしめ、浜松城に追い込むなど功を挙げた。

武田勝頼時代

 西上作戦の途中において、主君であった武田信玄が病死。

 後を継いだ武田勝頼の補佐として、山県昌景と共に筆頭重臣としてこれを支えることになる。

 しかし勝頼は信玄以来の老臣を疎み、重用されることはなかったという。

由羅
由羅
三代に仕えていただけあって、この時の信春ってけっこう高齢だったんだよね
四名臣の中では一番早くに生まれていたからね
イリス
イリス
 そして1575年(天正3年)には武田氏の運命を決定づける長篠の戦いが勃発。

長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』

 信春は昌景らと共に撤退を勝頼に進言するものの受け入れられず、決戦を強行。

 いざ戦闘となると、信春は武田軍右翼に配置。
 しかし武田軍の突撃に対し、織田・徳川連合軍の防御を突破できず、数で劣る武田軍は次第に劣勢となり、やがて崩壊。

 大敗した武田軍は退却し、殿軍を務めて信春は勝頼の退却を見届けた上で反転し、織田軍と戦った上で討死した。享年61。

 この時の活躍ぶりは『信長公記』にも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されるものであったという。

馬場信春の最期
『馬場信春の最期』

人物評価

 経歴からも分かるように、信春は数多くの戦に出陣し、その数は70にも及んだとされている。

 そして最後の長篠の戦いに至るまで、かすり傷一つ負わなかったとされ、不死身の馬場美濃とも評されたという。

戦上手として知られている他に、深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城といった支城を築城したことでも知られているよ。だから築城の名手ともされているの
イリス
イリス
由羅
由羅
多才だったんだね
この築城に関しては、山本勘助より教授されたとも伝わっているよ
イリス
イリス

馬場信春像

馬場信春