武田勝頼【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

土岐 無理之介

 武田勝頼とは戦国時代の甲斐国の戦国大名であり、甲斐武田氏の第20代当主です。
 武田信玄の四男であったことから、当初は諏訪氏の家督を継ぎ、諏訪勝頼と名乗りました。

 今回はそんな武田勝頼を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

武田勝頼 (たけだ かつより)/諏訪勝頼(すわ かつより)
武田菱
生年1546年(天文15年)
没年1582年(天正10年3月11日)
改名諏訪勝頼⇒武田勝頼
別名伊奈勝頼
通称:四郎
主君武田信玄
家紋武田菱(たけだびし)
父:武田信玄
母:諏訪御料人
兄弟義信 海野信親 信之 勝頼 仁科盛信 葛山信貞 信清 黄梅院 菊姫他
正室:龍勝院(遠山直廉の娘、織田信長養女)
継室:北条夫人(北条氏康六女)
信勝 男(周哲大童子) 勝親 他

信長の野望での武田勝頼

信長の野望・大志での能力値

武田勝頼能力【信長の野望大志】
©コーエーテクモゲームス

信長の野望 大志
武田信玄(たけだ しんげん)
統率85
武勇87
知略72
内政55
外政60

 父・信玄や、武田四名臣、真田一族などと比べてしまうと、どうしても見劣りしてしまう能力ではありますが、それは比較対象がおかしいだけで、必要十分な能力を備えており、信玄の後継ぎとしては申し分ないでしょう。

信長の野望・新生での能力値

武田勝頼【信長の野望】
©コーエーテクモゲームス
統率武勇知略政務
86887156
信長の野望 新生 能力値
武田勝頼能力【信長の野望新生】
©コーエーテクモゲームス

 新生でも能力は前作とほぼ変わらず、ですね。

 勝頼はどうしても、あの精強な武田軍団をお家もろとも滅ぼしてしまった張本人であり、以前のシリーズでは軍事関連はともかくとして、内向きの内政関係はからきし、という低い評価が続いてきました。

 知略や政治は20台30台という悲惨なものであり、完全に脳筋設定だったのですが、最近では評価が見直されたようで、まともな脳みそがあったことにしてもらえているようです。

 果たしてこのような評価は妥当なのか否か、武田勝頼の人生から紐解いていきましょう。

来歴

武田勝頼像(高野山持明院蔵)
武田勝頼像(高野山持明院蔵)

 甲斐の戦国大名・武田信玄の四男として生まれ、諏訪氏の名跡を継いで高遠城主となります。

 しかし信玄の嫡男であった武田義信が義信事件を契機に廃嫡され、その後死去すると、勝頼は武田氏の家督を相続することになりました。

 信玄死後、1575年(天正3年)に行われた長篠の戦いにて織田・徳川連合軍を相手に惨敗を喫し、武田領国が衰退。

 その後、織田信長の甲州征伐によって天目山に追い詰められて、嫡男・信勝と共に自害。

 ここに甲斐武田氏は滅亡することになります

勝頼と諏訪氏

諏訪侵攻

 勝頼は1546年(天文15年)に、武田信玄の庶子として誕生しました。

 母は祖父・武田信虎時代から同盟関係にあった信濃国諏訪氏当主・諏訪頼重の娘の諏訪御料人であるとされています。

 武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったものの、父・信玄が祖父・信虎を追放して家督を継承したのち、諏訪氏と手切れとなってしまいます。

 そして1542年(天文11年)に、信玄は諏訪侵攻を開始。
 これにより諏訪頼重、頼高ら諏訪一族は滅亡しました。。

 ただ諏訪には残党であった高遠頼継がおり、これの反乱に対するために頼重の遺児であった千代宮丸を奉じて諏訪遺臣を糾合。高遠頼継を制圧します。

 また信玄は諏訪御料人を側室として甲府に迎え、1546年(天文15年)に勝頼が誕生しました。

 千代宮丸を擁立していた諏訪満隆は同年に切腹させられており、千代宮丸は諏訪家を継ぐことなく廃嫡させられています。

 生まれた勝頼の幼年期については詳細は分からず、同じ兄弟であった嫡男・義信や次男・信親などは史料が残る一方、勝頼について書かれている史料は見当たらず、当時の武田家中において、信玄が諏訪御料人を側室に迎えることに対し、反対があったのではないかと推測されているようです。

信濃支配

 その後、父・信玄は信濃侵攻を本格化させました。

 その結果として信玄は越後の上杉謙信との対決に至り、数度に渡って川中島の戦いが行われることになります。
 これによって、信濃平定はほぼなされ、その支配へと移っていきました。

 信玄は一門の人材を平定した旧族の名跡を継がせることで懐柔する、という方針をとっており、例えば勝頼の異母弟であった盛信は仁科氏を継承し、勝頼もまた諏訪氏の名跡を継いで、諏訪四郎勝頼と名乗ることになります。

 この時名乗った「勝頼」の「頼」の字は、諏訪氏の通字であり、武田氏の通字である「信」の字を名乗っていない点が、注目されています。

 勝頼は跡部右衛門尉といった8名の家臣団をもって、信玄の弟・武田信繁の次男・武田信豊らと共に、親族衆に列せられました。

諏訪氏とは?
 信濃国にある諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄のこと。神官ではあったと同時に武士としても活躍しており、神職に就いていない庶子や親類を派兵したりしていました。そうやって勢力を強めていったとされています。

高遠城と初陣

 信濃国の高遠城は、これまで秋山虎繁(信友)が城代として入っていたのですが、代わって勝頼が城主として入城しました。

 この際に、馬場信春が城の改修を行ったとされています。

 1563年(永禄6年)、勝頼は上野箕輪城攻めにおいて、初陣を果たします。
 その際、長野氏家臣であった藤井豊後を討ち取るなどの功を挙げたようです。

 その後勝頼は、信玄による戦の大半に従軍し、武蔵滝山城攻め、小田原城攻めなどで活躍しました。

義信事件

 1565年(永禄8年)、信玄の嫡男で異母兄であった武田義信の家臣、飯富虎昌らが信玄暗殺の密談をし、発覚して処刑され、義信自身も幽閉されるという事件が発生します。

 この頃の信玄は、これまでの北進する戦略を変え、東海方面への進出を考えるようになっており、今川氏と敵対する織田氏と結ぶなど、対外戦略を変更しようとしていました。

 事実、この頃には勝頼と織田信長養女であった、龍勝院との婚礼が進められています。

 義信の正室は今川氏当主であった今川義元の娘であり、当然の流れとして義信は親今川派であったため、父・信玄との間に対立が生じた可能性があり、事件の背景になったとも考えられているようです。

 結果として、兄・義信は幽閉されたまま死去。

 次男の海野信親(武田竜芳)は盲目であったため僧籍に入っており、また三男の信之は夭折していたため、勝頼が武田氏の家督を継ぐ後継者となったのでした。

信玄の死

『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』 歌川芳虎画
『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』 歌川芳虎画

 義信の死を契機に武田氏と今川氏は手切れとなり、信玄は駿河に侵攻。
 今川氏を滅ぼします。

 そして1572年(元亀3年)には西上作戦を開始。

 この時勝頼も従軍して武田信豊や穴山信君らと大将を務め、二俣城の戦いや三方ヶ原の戦いにおいて徳川氏や織田氏と戦い、勝利を収めています。

 しかし1573年(元亀4年)、西上作戦の途上において発病した信玄は、そのまま病死。

 武田軍は撤退し、その後勝頼は武田姓に復姓した上で、家督を相続しました。

 こうして甲斐武田氏第20代当主となったのです。

 もっともこの時信玄の死は隠されていたようで、信玄は隠居して勝頼が跡を継いだ、と対外的には報じられていたとされています。

長篠の戦い

徳川氏の反撃

 西上作戦により、織田信長は窮地に陥っていました。

 しかし信玄の死により武田軍は撤退し、包囲網の一角が崩れたことで信長は窮地を脱して反撃し、まず足利義昭を追放。

 さらには朝倉義景浅井長政を滅ぼし、逆に勢力を拡大します。

 徳川家康も三河山間部の奥平貞能、貞昌親子を寝返らせるなどして反撃を開始。

 これに対して勝頼は、守りではなく攻めによって対応し、外征を開始しました。

 1574年(天正2年)には東美濃の明知城を陥落させ、織田領に侵攻。

 一方で遠江の徳川領にも進出し、高天神城を落として東遠江を平定。
 家康の本拠であった浜松城に迫ったとされています。

長篠の戦い

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)


 1575年(天正3年)、家康へと寝返った奥平親子を討伐するために、勝頼は15,000の兵を率いて三河国を侵し、奥平氏のこもる長篠城を包囲。

 しかし奥平氏は徹底抗戦し、武田勢はこれを落とせず時間をかけてしまったことで、その間に織田・徳川連合軍38.000が援軍として到着。勝頼はこれと対峙することになってしまいます。

 これに対し、信玄より仕えていた重臣達は、撤退を進言。
 しかし勝頼は決戦を選び、開戦に至ったのでした。

 結果として数で劣る武田軍はやがて総崩れとなり、馬場信春、山県昌景内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟といった武田家中でも有力家臣を次々に失い、また先立って行われていた鳶ノ巣砦の攻防戦においては河窪信実や三枝昌貞、高坂昌澄らが戦死。

 勝頼は菅沼定忠に助けられて武節城にこもり、のちに退却することになります。

 これは武田軍の大敗であり、この結果がのちの武田氏の衰亡へと繋がっていくことになるのでした。

武田領侵攻

 長篠の戦いの勝利により、織田・徳川軍は勢いに乗じて反攻に出ます。

 家康は奥三河の田峰城・武節城・作手城を奪還し、二俣城を包囲。

 さらには諏訪原城を攻略。

 これらにより武田勢は三河より締め出されることになり、一方では織田軍も侵攻。

 東美濃の岩村城が陥落し、城代であった秋山虎繁は処刑されています。

 さらには包囲されていた二俣城がついに開城。
 高天神城が孤立してしまいます。

 勝頼は高天神城救援のために出陣し、その後徳川軍との間で断続的に戦闘が続きました。

外交政略

 長篠の戦いにより弱体化した武田の領国を立て直すために、勝頼は対外的な政略として、越後の上杉氏や相模の北条氏との同盟強化に努めることになります。

 北条氏とは駿河侵攻においていったん手切れとなっていたものの、北条氏康の死を契機に甲相同盟が復活し、上杉氏とは川中島の戦い以降、軍事的衝突はなかったものの、緊張関係は継続されていました。

 1576年(天正4年)、毛利氏のもとに亡命していた足利義昭により、武田氏と上杉氏、北条氏の和睦を提唱。

 勝頼はこれを受け入れ、上杉氏とは和睦交渉を続けつつ、北条氏とは北条氏政の妹を後室に迎えるなどして、関係強化に努める一方、上杉氏と北条氏の間では和睦はならず、険悪な関係が続いていました。

 1578年(天正6年)、上杉謙信が死去。

 これにより、上杉景虎と上杉景勝との間で家督を巡り、御館の乱が勃発。

 北条氏政より景虎支援(景虎は氏政の弟)を要請された勝頼は、武田信豊を派遣し、自らも越後へと出兵し、調停を試みることになります。

 この際、景勝から和睦を持ちかけられて、受け入れたといわれています。

 勝頼はいったん、両者の和睦を成立させるも、すぐにも破綻し、結果として景勝の勝利で御館の乱は終結しました。

 これにより、今度は武田と北条との間が険悪化し、両者は手切れに至り、抗争状態へと突入。

 北条氏は徳川氏と結び、駿河において武田氏は挟撃されるという窮地に陥ることになります。

 一方で上杉氏との間には甲越同盟を成立させるも、家督相続を巡る内乱により上杉氏は力を失い、対外的な影響力を失っていました。

 そこで勝頼は常陸国の佐竹義重と結び、甲佐同盟を成立。
 さらには里見氏や小弓公方らと結んで、北条氏に対抗しました。

 北条氏との直接的な抗争においては、上野戦線において真田昌幸の活躍もあり、北条氏を圧倒するなど戦果を挙げる。

 またしばらく小康状態が続いていた織田氏との関係改善も図り、信長との和睦も模索しています。

新府城築城

 1581年(天正9年)、勝頼は新たに新府城を築城。

 これまでの躑躅ヶ崎館・要害山城から本拠を移転します。

 同年には里見義頼とも同盟を成立させた。

 この頃、徳川軍により孤立していた高天神城が窮地に陥っていたものの、織田氏との関係改善を試みていた勝頼は信長を刺激するのを恐れ、援軍派遣を見送り、結果として高天神城は陥落。

 この時、高天神城を見殺しにしてしまったことは、勝頼にとって致命的でした。
 というのも武田の威信を失墜させ、武田に家臣や国人衆に動揺を与えてしまい、それをみた織田・徳川氏は武田方への調略を仕掛け始めたからです。

 そしてこれが、後の身内の裏切りに繋がっていってしまいます。

 勝頼は織田氏との和睦交渉を続け、信長の五男であった織田勝長を返還するなどしましたが、信長はこれを黙殺し、朝廷に働きかけて勝頼を朝敵と認定させ、1582年(天正10年)に甲州征伐を開始しました。

甲州征伐

『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)
『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)

 1582年(天正10年)、信玄の娘婿で木曽口の防衛を担っていた木曾義昌が造反し、織田信忠についてしまいます。

 これに対し勝頼は、武田信豊を大将として木曾討伐軍を発しました。

 しかし積雪により進軍できず、その間に義昌は弁解して武田氏への忠義を約束し、それを時間稼ぎとしている間に織田信忠、金森長近、徳川家康、北条氏直が武田領に侵攻を開始。
 いわゆる甲州征伐が開始されてしまいます。

 さらにはこの時、浅間山が噴火するなどし、武田軍は動揺を余儀無くされました。

 結果として武田領への侵攻に対し、武田方は組織だった抵抗はできず、次々に寝返りが発生。

 下条信氏は寝返って三河に逃亡し、小笠原信嶺は織田軍の侵攻を手引き、保科昌直は高遠城へ逃亡、叔父の武田信廉は防衛の要であった大島城を放棄して甲斐へと敗走。
 また穴山信君は内応するなどしたとされている。

 こういった情勢に武田軍は次々に逃亡し、勝頼を見捨てていきました。

 ただ勝頼の弟であった仁科盛信のみが高遠城にこもって徹底抗戦し、玉砕。

 また勝頼に冷遇されていたとされる諏訪頼豊は、家臣に武田を見限って諏訪氏再興を図るべしと進言されるもそれを拒み、鳥居峠の戦いで捕らえられ、処刑されました。

 敗色濃厚な勝頼は、未完であった新府城に火を放ち、逃亡。

 小山田信茂の居城である岩殿城へと逃亡を試みるものの、信茂はすでに織田方への投降を決心しており、勝頼は道を塞がれ、背後から滝川一益の追手もあって進退窮まり、武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指す最中、ついには補足されて交戦に及び、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害して果てたのでした。享年37。

自刃する勝頼主従(月岡芳年画)
自刃する勝頼主従(月岡芳年画)

 この天目山の戦いをもって、甲斐武田氏は滅亡します。

 おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは

 辞世の句として残されているものです。

 勝頼の死後、勝頼と信勝の首級は京に送られ、長谷川宗仁によって一条大路にて晒されたといわれています。

 また嫡男の信勝は未だ元服していなかったため、死を前に陣中で源氏八領のうちのひとつで武田氏代々に伝わってきた家督の証であった「楯無」を着せた上で、自刃したともいわれているようです。

武田勝頼の評価

 織田信長や上杉謙信は、勝頼のことを武勇に優れた武将として、評価していました。

 一方で江戸時代初期には、慎重さに欠けて跡部、長坂といった特定の家臣のみを取り立て、滅亡の原因を作った、ともされています。

 お家を滅亡させた当主の評価は難しい、といったところでしょうか。

甲斐武田家(甲斐源氏)歴代当主

 第1代  源義光  1045年~1127年
 第2代  源義清  1075年~1149年
 第3代  源清光  1110年~1168年
 第4代  武田信義 1128年~1186年
 第5代  武田信光 1162年~1248年
 第6代  武田信政 1196年~1265年
 第7代  武田信時 1220年~1289年
 第8代  武田時綱 1245年~1307年
 第9代  武田信宗 1269年~1330年
 第10代  武田信武 1292年~1359年
 第11代  武田信成 生年不詳~1394年
 第12代  武田信春 生年不詳~1413年
 第13代  武田信満 生年不詳~1417年
 第14代  武田信重 1386年~1450年
 第15代  武田信守 生年不詳~1455年
 第16代  武田信昌 1447年~1505年
 第17代  武田信縄 1471年~1507年
 第18代  武田信虎 1494年~1574年
 第19代  武田信玄 1521年~1573年
 第20代  武田勝頼 1546年~1582年
 第21代  武田信勝 1567年~1582年
 第22代  武田信治 1572年~1587年
 第23代  武田信吉 1583年~1603年

武田勝頼画像

武田勝頼・北条夫人・武田信勝画像(持明院所蔵)
武田勝頼・北条夫人・武田信勝画像(持明院所蔵)
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土岐無理之介
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歴史好き。主に戦国時代。
旅ついでに城郭神社仏閣を巡りなどやってます。

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たまにはイラストなども描いてみたり。
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