信長の野望:武将能力列伝

今川義元【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

今川義元能力【信長の野望大志】

 今川義元とは戦国時代の駿河国・遠江国を治めた戦国大名であり、今川家の第11代当主です。
 同時期の戦国大名である武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたり、内政・外交・軍事に手腕を発揮して、守護大名であった今川家を戦国大名に転進させ、今川家の最盛期を築きました。
 しかし尾張侵攻に際し、織田信長との戦いである桶狭間の戦いに敗れ、討死した人物として知られています。
 また後に天下をとった徳川家康と共に、「海道一の弓取り」という異名を持っていました。

 今回はそんな今川義元を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

今川義元(いまがわ よしもと)
足利二つ引両
生年 1519年(永正16年)
没年 1560年(永禄3年5月19日)
改名 芳菊丸⇒梅岳承芳⇒義元
別名 治部大輔
家紋 足利二つ引両(あしかがふたつひきりょう)
主君 足利義晴⇒足利義輝
父:今川氏親
母:寿桂尼
兄弟 氏輝 彦五郎 玄広恵探 象耳泉奘 義元 氏豊 瑞渓院(北条氏康室) 松平親善妻(のちに鵜殿長持室) 中御門宣綱室 関口親永室
正室:定恵院(武田信虎の娘)
側室:井伊直平娘?
氏真 一月長得 嶺松院(武田義信室) 隆福院 女(牟礼勝重室)


信長の野望での今川義元

信長の野望・大志での能力値

今川義元能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
今川義元(いまがわ よしもと)
統率 91
武勇 73
知略 89
内政 99
外政 95


 以前は評価が低かった、といわれながらも、『信長の野望』ではシリーズを通して優秀です。

 それでも桶狭間のイメージもあっれ、武勇のみは相対的に低いものの、それでも73。
 そこらの武将に比べれば、十分に良将といえる能力値です。

 それ以外の能力値となると、どれもがトップレベル。

 特に内政値は100一歩手前の99と、その手腕を最大限に評価された値となっていますね。

 こんな今川義元率いる今川家は、義元存命中であるならば、文句なしで強いです。

 特にこの頃は家康を始めとするのちの徳川家の面々も配下にいますので、人材的にも申し分なし。

 北の武田、東の北条は強国ながら、三国同盟のおかげでその利点を最大限に享受しており、あとはただひたすら上洛を目指すのみ。

 西の織田家はご丁寧に史実に忠実に、分裂状態となっていますので、敵にもなりません。
 むしろ人材の狩場と化しており、例のイベントが発生しない限りはまず義元を止めることは不可能でしょう。

 ゲーム中では急拡大する勢力の一つですので、周辺勢力はのんびりプレイしているわけにはいかず、早急な対応が求められるわけです。

 さらに義元の持つ大命が鬼畜。

 「雪斎の教え」なる即時強制訂正は、とにかく今川家と戦っていると乱発してくるため、一気に勢力を侵食できず、手間取ることになってしまいます。

 そのためとてもしぶとい勢力なのです。

今川義元とは

今川義元像今川義元像

 今川義元といえば、織田信長に負けた人、っていう印象が強いです。

 圧倒的優勢にあり、イキって尾張に侵攻しておきながら、油断してあっさり敗死。

 しかも義元本人は戦国武将というよりは公家のようで、輿に乗って馬にも乗れない暗愚な人物、みたいなイメージが以前は大きかったですね。

 ですが今ではずいぶん再評価されて、決して暗愚ではなく、内政・外交・軍事面に優れた才能を持った決して信長に引けを取らない人物だったとされています。

 ただ桶狭間で負けたことは事実。

 そのため義元のことは、時の運に見放された、悲劇の名将である、とも言われているのです。

家督相続と花倉の乱

義元の出生と出家

 今川義元は1519年(永正16年)に、今川氏親の五男として誕生しました。
 母親は氏親の正室・寿桂尼。

 五男ということもあり、またすでに跡継ぎである兄の今川氏輝がいたため、義元に家督継承の可能性はほとんどなく、わずか4歳にして仏門に出されることになったといわれています。

 義元は臨済宗の善得寺に預けられ、梅岳承芳(ばいがくしょうほう)もしくは栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称していました。

 この義元の教育係を務めたのが僧の太原雪斎であり、彼と共に京へと上り、五山に学びます。

 跡目争い避けるため、最初から仏門に入っていた義元。
 これはこの時代にはよくあることで、足利義昭などもそうでした。

 もっとも、それでも跡目争いに巻き込まれてしまうのですから、やはり人の世はままならぬ、といったところでしょうか。

兄の急死と家督継承

 京にいた義元でしたが、主君であり兄の今川氏輝の命を受け、駿河に帰還。

 しかし直後、1536年(天文5年)に氏輝が急死してしまいます。

 とはいえこの時点でも義元にはまだ同母兄である彦五郎がいましたので、家督の継承権はありませんでした。

 なんといっても五男だったらです。

 ところが次いで次兄である今川彦五郎まで同日に死去(彦五郎の死については謎が多く、詳細は不明)するという異常事態が発生し、義元に今川家の家督継承権が巡ってくることになってしまいます。

 義元は氏親の五男ではあったものの、兄・氏輝、彦五郎と共に母親が正室の寿桂尼であったことから、それが後押しとなって還俗し、当時の征夷大将軍であった足利義晴の名前から一字を賜って義元と名乗るようになりました。

兄・玄広恵探と花倉の乱

 しかし家督継承は順調にはいきませんでした。

 義元の家督継承に反対する今川家家臣である福島(くしま)氏により、義元の異母兄である玄広恵探が擁立されることになったからです。

 玄広恵探(げんこう えたん)とは、今川氏親の三男で、母は福島正成の娘とされる人物の間に生まれた人物です。
 つまり義元の庶兄ですね。

 その名前から分かるように、義元や四男の象耳泉奘(しょうじ せんじょう)同様、早くに出家していました。

 ところが福島氏は自身の血を引く玄広恵探に今川家の家督を継がせることを目論み、義元に対して反旗を翻すと今川館に攻め寄せ、いわゆる花倉の乱が勃発するのです。

 最初に攻勢をかけた玄広恵探側でしたが、太原雪斎ら義元側の家臣らの奮戦もあって、苦戦。

 さらに義元は北条家の支援を得ることに成功し、恵探側の不利は明白となります。

 そして恵探側が立て篭もった花倉城が陥落すると、玄広恵探は逃亡し、瀬戸谷の普門寺で自刃。

 これにより内乱は終結し、名実共に義元は今川家当主となって、支配体制を強化していくことになるのです。

甲駿同盟の成立と駿相同盟の破綻

 花倉の乱の翌年である1537年(天文6年)に、義元は隣国である甲斐国の武田氏と同盟を結びました。

 これは今川家領国の周囲を固めるために行われたもので、武田家当主・武田信虎の娘である定恵院を、義元は正室として迎えたとされています。

 これにより両家は縁戚となり、いわゆる甲駿同盟が成立しました。

 ところがこの同盟成立は裏目に出ることになったのです。

 今川家はすでに相模の北条氏と駿相同盟を結び、義元の家督継承の際にも助力を受けていたのですが、この北条氏は武田氏と抗争してきた経緯があり、にも関わらず義元が武田家と結んだことで、北条家当主の北条氏綱は激怒してしまいました。

 これにより駿相同盟は破綻。
 北条家は駿河に侵攻し、第1次河東一乱が勃発します。
 
 この戦いに臨んだ今川方では未だ花倉の乱の内部対立を引きずっており、家臣の統制が取ることができないまま今川軍は北条軍に反撃できず、河東地域は北条氏に占領されることになってしまいました。

 そして問題は東の北条氏だけではありません。
 西の織田氏もちょっかいをかけてきていたからです。

織田信秀の侵攻

 東側の問題が解決しないまま、今度は西側で問題が発生することになります。

 1540年(天文9年)に、尾張国の織田信秀が三河国に侵攻。

 義元は三河に援軍を送り、織田軍を相手に決戦に挑みました。

 これがいわゆる第一次小豆坂の戦いと呼ばれるもので、織田軍の前に今川軍は敗北を喫します。

 ただこの戦いについては史実ではなく、虚構であるという可能性も指摘されているようです。

第二次河東一乱

 1541年(天文10年)、相模では北条氏綱が死去。
 北条家の家督は北条氏康が継ぐことになります。

 一方甲斐では武田晴信(信玄)によるクーデターが発生し、武田信虎が甲斐に帰国できず、今川家で預かるという事態が発生しました。

 この状況下でも甲駿同盟は維持され、甲斐の武田晴信と信濃の高遠頼継が戦った高遠合戦では、武田家に援軍を派遣するなど関係を保っていたようです。

 このような情勢の中、義元は北条氏康と敵対する上杉憲政と同盟を締結し、北条氏を挟み撃ちにする戦略を立てます。

 これがいわゆる第二次河東一乱と呼ばれるもので、義元は武田家の援軍を得つつ、河東に侵攻。
 呼応する形で上杉憲政らが古河公方である足利晴氏と結び、8万もの大軍で河越城を包囲しました。

 河東において、今川軍は北条軍を撃破。
 また関東では上杉軍が河越城を包囲し、挟撃された北条家は窮地に立たされることになります。

 義元の戦略が成功した形となり、進退窮まった氏康は武田家を通じ、今川家と和睦する道を選ぶことになったのです。

 これはかつて占領した河東の地を今川家に返還する、という条件の上に為されたもので、北条家に対する実質的な勝利でした。

 戦術的に敵わないのなら、戦略的に勝利する、という発想の転換であり、義元の外交能力の高さを伺うことができるエピソードです。

 一方の北条氏康も食えない人物で、今川と和を結んだことで関東に集中できるようになり、河越城の戦いにて勝利を収めました。
 これがかの有名な河越夜戦ですね。

三河侵出

 東の北条との関係が落ち着いてきたこともあって、西の隣国・三河において、今川家はその従属化に努めていくことになります。

 その従属化にあたり、義元は松平広忠の帰順を受け入れ、その嫡男である竹千代(徳川家康)を人質として受け入れました。

 ところがこの竹千代の護送を請け負った戸田康光が、裏切って織田家に送り届けてしまうという事件が発生してしまいます。

 これは義元が戸田氏一族であった戸田宣成、戸田吉光らを滅ぼした経緯があったため、その宗家当主であった戸田康光が謀反を起こしたからでした。

 これに対し、義元は武力で戸田家を滅ぼします。

 このような情勢に尾張の織田信秀は危機感を覚え、再び三河に侵攻。

 これが第二次小豆坂の戦いで、太原雪斎や朝比奈泰能を将とした今川軍は、織田軍を相手に勝利し、雪辱を晴らしました。

 以前とは違い、今川家の力が徐々に充実してきて、織田信秀でも御せない相手になりつつあったのです。

三河の領国化

 1549年(天文18年)、松平広忠が死去します。

 この死は病死とも岩松八弥により刺殺されたともいわれていて、諸説あるようです。
 ともあれ嫡男であった竹千代が織田家に人質としてあったから、これにより西三河は領主不在となってしまったことだけは事実でした。

 義元は三河の岡崎城に2万ともいわれる軍勢を送り込むと、松平家の領地を押領。

 更には三河にあった織田方の城である安祥城へ攻撃を仕掛けました。

 織田方も平手政秀を援軍として派遣し、頑強に抵抗します。

 しかし今川家の猛攻の前に、ついには落城。
 そして城主であった織田信広を捕縛することに成功したのです。

 信広は織田信秀の庶子で、信長の庶兄でした。
 義元は信広と竹千代を人質交換して取り戻し、実質の配下としたのです。

 名実共に三河は今川家が領有することとなり、次の目標は織田氏の支配する尾張と定めました。

今川家の戦国大名化

 義元は1553年(天文22年)に、かつて父が制定した今川仮名目録に追加法を加え、室町幕府が定めた守護使不入(しゅごしふにゅう)を廃止し、幕府との関係を断ち切ります。

 これにより、今川家は守護大名から戦国大名に転進することになったとされました。

 これは幕府の権威によって領国を支配しているのではなく、あくまで自分の実力によって領国を支配していると、そう宣言したことになるそうです。

甲相駿三国同盟

 1554年(天文23年)、善徳寺において歴史的な会見(善徳寺の会盟)が開かれ、甲相駿三国同盟を甲斐の武田家、相模の北条家と締結。

 義元の嫡子・今川氏真に北条氏康の娘である早川殿が嫁ぐことで、今川、北条は縁戚となり、成立しました。

 この三国同盟により、今川家は後顧の憂いが無くなることになるのです。

 1558年(永禄元年)、義元は隠居し、家督を嫡男・氏真に譲ります。

 領国の経営は氏真に任せ、義元は西への侵攻に力を注いでいくことになったのです。

 いよいよ尾張侵攻が間近に迫っていました。

桶狭間の戦いと義元の死

『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣画『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣画

 1560年(永禄3年)、義元は織田家の那古野城を目指し、2万ともいわれる大軍を率い、尾張への侵攻を開始。

 圧倒的な兵力差であり、どこからどうみても負けるはずがありませんでした。

 侵攻は順調に進んでいましたが、進軍途中、桶狭間にて休息中に織田信長の急襲を受け、奮戦するも及ばすに義元は討死しました。

 負けてしまうのです。

 信じられるでしょうか。
 現代で例えるならば、最強帝国米国が、意気揚々とどこぞの半島に攻め込んで壊滅するようなものです。
 総指揮官もろともに。

 これが世に言う桶狭間の戦いだったのです。

 この時、義元の首をとったのは織田家家臣・毛利良勝であり、義元の愛刀であった左文字の太刀も奪われたといわれています。享年42でした。

『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣画
桶狭間の戦い【織田・今川の命運を分けた、日本三大奇襲の一つ】桶狭間の戦いとは、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に尾張桶狭間にて行われた合戦です。尾張の戦国大名である織田信長が、駿河の戦国大名である今川義元の大軍を破った戦いとして知られています。戦後、今川家の勢力は衰退し、代わって織田家の勢力が急伸する転機となった合戦でした。...

義元の首

 首を奪われた義元の遺体は今川兵により、駿府まで持ち帰ろうと試みられたのですが、腐敗が激しく、三河国にて埋葬されることになりました。

 奪われた首級は、今川家重臣・岡部元信が鳴海城で奮戦して、開城と引き換えに信長から返還され、駿河に戻っています。

 義元の時代に最盛期を迎えた今川家でしたが、その死後、急速に衰退していくことになりました。

 死の9年後、1569年(永禄12年)に、大名家としての今川家は滅亡。

 残された嫡男の今川氏真は暗愚でお家を滅ぼしたと言われてはいるのですが、のちに武田家や北条家、織田家が滅んでいく中にあって、今川家は徳川家の家臣となって生き残り、江戸時代を存続しています。

 最後まで生き残ったものが勝ち、という論理ならば、今川家も負けたとは言えなかったのかもしれません。

今川義元の人物像

 戦国時代史上最も有名であろう織田信長が、その名を知らしめたのが桶狭間の戦いであり、その敗将となった今川義元の知名度も高い一方で、その評価は相対的に低いものになってしまった感は否めません。

 また戦国大名でありながら、お歯黒や薄化粧など、公家のように振舞っていたというイメージもあり、貴族趣味に溺れた人物、として惰弱なイメージもついてまわりました。

 しかしこれは現代のイメージによるもので、公家のような化粧を施すことは家格の高さを示すものであり、惰弱である象徴とはいうことはできません。

 また桶狭間の戦いの際には為すすべなく討ち取られたわけではなく、最初に斬り付けてきた織田家家臣・服部春安を義元自身が抜刀してその膝を斬り、撃退もしています。

 続けて襲い掛かってきた毛利良勝に対しても数合ほど刃を交え、力及ばず首をとられる時には良勝の指を食い千切った上で絶命するなど、武士らしい最期であったともいえるでしょう。

 義元は幼いころから仏門に入っていたこともあって、武芸を学ぶ機会に恵まれず優れなかった、とまことしやかに伝えられてはいるのですが、実際には上記のように桶狭間では斬り合って戦果も出しつつ討ち取られていますので、武芸の素養がまるで無かった、ともいえないでしょう。

 残されている今川義元の画も、けっこう勇ましいものばかりです。

 武士としての素養はあった一方で、和歌は苦手であったといわれています。

 定期的に歌会などを開く一方で、和歌については義元自身不得手だったのか、指導をしていた冷泉為和に厳しく指導されていたとされます。
 これは意外な事実かもしれません。

 桶狭間の戦いでの失策は間違いないにしろ、勝敗は兵家の常であり、義元に勝利した信長でさえも、生涯に何度も敗北を経験することになります。

 また内政面においての評価は高く、寄親寄子制度による家臣団の強化や、「今川仮名目録」の追加法を制定など、優れた行政手腕を発揮しました。

 また同時代に生きた朝倉家家臣である朝倉宗滴は、『朝倉宗滴話記』において武田晴信・織田信長・三好長慶・長尾景虎毛利元就といった人物らと同じく高い評価したといわれています。

今川家歴代当主

 第1代 今川国氏 1243年~1282年
 第2代 今川基氏 1259年~1323年
 第3代 今川範国 1295年~1384年
 第4代 今川範氏 1316年~1365年
 第5代 今川泰範 1334年~1409年
 第6代 今川範政 1364年~1433年
 第7代 今川範忠 1408年~1461年
 第8代 今川義忠 1436年~1476年
 第9代 今川氏親 1471年~1526年
 第10代 今川氏輝 1513年~1536年
 第11代 今川義元 1519年~1560年
 第12代 今川氏真 1538年~1615年

今川義元 関係年表

 1519年 今川氏親の五男として誕生。
 1526年 父・氏親死去。
 1536年 兄・氏輝死去。
     花倉の乱。異母兄・玄広恵探死去。
     第一次河東一乱。
 1537年 定恵院を正室に迎える。
     甲駿同盟成立。
 1540年 織田信秀の三河侵攻。
 1542年 第一次小豆坂の戦いに敗北。
     北条氏綱死去。
 1545年 第二次河東一乱。
 1548年 第二次小豆坂の戦いに勝利。
 1549年 三河安祥城を攻略。
     松平竹千代奪還。
 1551年 織田信秀死去。
 1553年 今川仮名目録に追加法を制定。
 1554年 嫡男・氏真と北条氏康の娘・早川殿との縁組。
     甲相駿三国同盟の成立。
 1555年 第二次川中島の戦いの仲介を行い、和睦させる。
 1558年 松平元康に三河加茂郡寺部城を攻略させる。
     義元、隠居。
     家督を氏真に譲る。
 1560年 桶狭間の戦い。
     義元討死。享年42。

今川義元画像

今川義元像(歌川国芳画)今川義元像(歌川国芳画)
今川治部大輔義元『太平記英勇伝三』(落合芳幾画)今川治部大輔義元『太平記英勇伝三』(落合芳幾画)