蠣崎季広【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
蠣崎季広とは戦国時代の武将であり大名。
蝦夷を支配した蠣崎氏5代当主です。
今回はそんな蠣崎季広を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での蠣崎季広
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 65 |
武勇 | 54 |
知略 | 73 |
内政 | 84 |
外政 | 76 |
『信長の野望』をプレイしていると、ちらっとだけ見えている現在の北海道に南端に割拠している勢力。これが蠣崎氏です。
まず名前が読めませんね。蠣崎は「かきざき」と読みます。名は「すえひろ」。
こんな所に大名が、と思ってしまうところですが、実は蠣崎氏はあくまで安東氏に従属する勢力であり、独立していたわけではありません。
しかしゲームではそんなことは関係無し。
立派に戦国大名やっています。
ゲーム画面の右上に位置する地理的状況もあって、まるで『三国志』シリーズの公孫淵一族を彷彿とさせてくれます。
が、しかし公孫淵とは違って大名化に成功し、その血統を残したことからも、公孫淵とは一味違います。
そんな蠣崎季広の能力ですが、それなりに優秀です。
特に内政面。
かの地に引きこもっていたとはいえ、やることはしっかりやっていただけのことはありますし、のちの松前藩の礎を築いただけのことはあって、内政84はご立派。
知略、外政も70台と、それなりに優秀な能力です。
軍事関係の能力はやや寂しいものがありますが、無能というほどでもありませんし、引きこもっている分には問題無し。
とはいえ。
津軽海峡のおかげで守り易いとはいえ、迎え撃つには人員も兵力も不足気味。
攻め込むことも至難。
だからといって引きこもっていると、そのうちに勢力を拡大させた南部家に東北を統一されて、ついでとばかりに攻め込まれてしまうともはや滅亡必至なので、なかなかゲーム攻略自体は難しいかもしれません。
蠣崎一族は、意外にみんな優秀なのですが、それでも人員不足が如何ともし難いですね。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
66 | 57 | 78 | 85 |
新生でも季広の評価はほぼ同じ。
相変わらず文官としては優秀です。
蠣崎季広の来歴
蠣崎季広は蠣崎義広の子として永正4年(1507年)に誕生しました。
その家督を継いだのは天文14年(1545年)で、父・義広の死去に伴うものでした。
しかし家督相続の際に、季広が当主となることに不満を持った従兄弟・蠣崎基広が謀反。
この反乱は家臣・長門広益によって鎮圧されました。
季広が治めた蝦夷においては、父の代よりアイヌと対立し、抗争を繰り返していました。
しかし季広が後を継ぐと方針を転換し、天文18年(1549年)にアイヌの首長である東地のチコモタイン及び西地のハシタインと和睦を成立。
道南地方の支配権を確立することに成功します。
これによってアイヌとの交易権の独占などより、蠣崎氏の強化を図っていきました。
この頃の蠣崎氏は戦国大名とはいえず、あくまで安東氏の支配下にあったのですが、季広は13名の娘を奥州の諸大名に娶らせて婚姻関係を作り、主家である安東氏に並ぶ関係構築を進めていきます。
天正11年(1583年)、三男・慶広に家督を譲って隠居。
慶広はのちに豊臣家の直臣となり、独立大名としての地位を得ることになったのですが、その下地を作り上げたのは紛れも無く季広の手腕によるところであったといえるでしょう。
そして文禄4年(1595年)に死去。
享年89でした。