松平広忠【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
松平広忠とは戦国時代の武将。
三河岡崎城主。
松平清康の子であり、徳川家康の父親です。
今回はそんな松平広忠を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での松平広忠
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 73 |
武勇 | 56 |
知略 | 59 |
内政 | 72 |
外政 | 67 |
統率と内政がそれぞれ70以上ありますので、軍事、内政共にそこそこの働きはできそうな能力です。
良将、もしくは一歩手前、といったところでしょうか。
とはいえ子の徳川家康に比べるとずいぶん見劣りする能力ではありますが、比較対象が悪いので、やむを得ないところですね。
ちなみに広忠の父親で家康のお爺ちゃんにあたる松平清康も、ゲーム的にはけっこう優秀な能力の持ち主だったりします。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
69 | 57 | 56 | 78 |
新生での松平広忠は、政務こそ上がったものの、統率が下がったことで、だんだんと平凡な能力になってきた印象です。
政務78は十分に高いのですが、なんといってもあの徳川家康の父親ですからね。
そう考えると残念な能力かもしれません。
広忠の父・清康なんかは優秀なんですけれどね。
芸の無い二代目、といったところでしょうか。
松平広忠とは
松平広忠とえいば、戦国時代を乗り切って天下人となった、徳川家康の父親として知られています。
広忠は松平清康の子として1526年(大永6年4月29日)に誕生しました。
徳川家康は今更説明するまでもないほど有名ですが、その父親は何をしていたんだろうと思うものの、ドラマでは意外に露出がなく、あまり馴染のない人物だったりします。
これは語り様が無い、という事情があるからなのですが、例えば大河ドラマ『麒麟がくる』でもそうだったのですが、登場したと思った瞬間、退場してしまうような天命しか持ち合わせていなかったからなのです。
広忠は1549年(天文18年3月6日)に死去しており、この時24歳でした。
松平広忠の死の原因については諸説あり、
- まず単純に病死だった、というもの。
- また岩松八弥によって殺害された、というもの。
- 他には一揆によって殺害された、というもの。
など、様々です。
天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康がいわゆる森山崩れによって死去します。
森山崩れとは?
天文4年12月5日(1535年12月29日)早朝に、三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された事件をいいます。
この時、大叔父の松平信定は今が好機とばかりに、岡崎の押領を行い、更には広忠を殺害しようとしました。
この時は阿部定吉の働きに救われ、吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れるのですが、持広の死後、庇護を失って三河へと戻り、更には駿河の今川義元を頼って、岡崎帰参を願います。
天文11年5月31日、松平信孝・松平康孝の協力を得て岡崎へ帰城を果たしました。
その後、隣国尾張の織田信秀との抗争が激化。
いくどかの合戦に勝利しつつも、再度侵攻を図る織田家に対し、広忠は嫡男・竹千代を今川家に人質として送ることで、救援を要請します。
ところがその途中、竹千代は織田方の手に渡ってしまい、のちの織田家との合戦に今川家の太原雪斎率いる援軍を得て勝利し、信秀庶子の織田信広を捕虜とすると、これと竹千代を交換し、今度こそ人質として今川義元の駿府へと送ったのでした。
そして天文18年(1549年)3月6日。
24歳で死去しました。
広忠の父・清康も25歳という若さで横死しており、歴代当主の早すぎる死が松平家を衰退させ、幼少の家康に忍従を強いることになったのです。