高坂昌信とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。
武田信玄・武田勝頼に仕え、武田四天王(武田四名臣)の一人として称された。
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生年 | 1527年(大永7年) |
没年 | 1578年(天正6年6月12日) |
改名 | 春日虎綱⇒香坂虎綱⇒高坂昌信 |
別名 | 虎綱 昌宣 昌忠 晴昌 晴久 通称:源五郎 弾正 |
家紋 | 九曜紋(くようもん) |
主君 | 武田信玄⇒武田勝頼 |
親 | 父:春日大隅 養父:香坂宗重 |
兄弟 | 熊麿 虎綱 |
妻 | 正室:香坂宗重の娘 |
子 | 昌澄(源五郎) 信達(惣次郎) 昌定(惣五郎) |
高坂昌信とは




















百姓の子として
1527年(大永7年)に、甲斐国八代郡石和郷の百姓であった春日大隅の子として誕生した。
1542年(天文11年)に父・大隅が死去し、身寄りを無くした後、武田信玄の奥近習として召抱えられることとなる。
当初昌信は、戦場において伝令や監察を担う使番として働き、1552年(天文2年)には足軽大将に出世して、春日弾正忠を名乗ったという。
1553年(天文22年)には、武田氏の村上氏に対する攻略が本格化し、昌信はこの頃に信濃佐久郡小諸城の城代になっている。
























海津城
その後、昌信は海津城の守将に任命。
海津城は越後上杉氏に対する最前線であり、地理的にも重要な要地を任されることになった。




実際、上杉氏と武田氏との間には度々戦が勃発しており、1561年(永禄4年)には上杉謙信の侵攻に対して、昌信は海津城に籠城。この年にいわゆる第4次川中島の戦いが勃発することになる。
この熾烈な激戦であった第4次川中島の戦いにおいて、昌信は妻女山に拠る上杉氏攻撃の別働隊と任を受け、戦功を挙げて北信濃の治世をその後も担った。
その後、武田信玄が西上作戦を開始すると、昌信もこれに従い、1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いなどにも参加し、活躍したとされている。
信玄死後の勝頼期において
1573年(元亀4年)に信玄が死去し、その後も引き続き海津城代として北信濃を守り、対上杉最前線を任されることになった。
1575年(天正3年)には長篠の戦いが、織田・徳川連合軍との間に勃発。
昌信はこれに参加しなかったが、嫡男・昌澄が参戦し、戦死することになる。




この頃には武田氏一門である武田信豊や穴山信君、また譜代家臣であった跡部勝資、長坂光堅らが台頭しており、昌信といった信玄期からの老臣は疎まれ、遠ざけられていたという。
長篠の戦いで武田軍は大敗し、その有力家臣の多くを失って、武田氏の衰退の最大の要因となった負け戦であったといえる。
武田勝頼は敗北後、信濃に逃れ、それを昌信が出迎えると、衣服や武具を整えさせて敗戦の見苦しさを見せぬよう体面を配慮させ、更には献策を行ったとされている。






1578年(天正6年)には越後の上杉謙信が死去し、御館の乱が勃発。
この時に昌信は武田信豊と共に上杉景勝への取次ぎを行い、甲越同盟の締結に携わったという。
この頃を最後に史料から昌信の名が消え、子の信達の名が登場することから、同年中に死去したであろうことが窺える。




昌信の子孫
家督は次男であった高坂昌元(春日信達)が継承。
海津城代も引き継ぐことになる。
しかし1582年(天正10年)には武田氏は滅亡し、織田氏の森長可の支配下となった。
同年に本能寺の変が勃発して織田信長が横死すると、信達は越後の上杉景勝に属することになる。
ところが北信濃で自立を画策していた真田昌幸や、北条氏直との内通が発覚すると景勝によって誅殺され、高坂氏は滅亡した。




昌信の名
一般的に昌信についての名称は、高坂昌信、の名が知られている。
高坂の姓を名乗ったのは、信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承したためであるが、昌信が高坂氏に養子に入ったためであり、高坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮された点が考えらている。
名の昌信に関しては、出家名であるともされ、史料による確実な名前は虎綱であるともいわれている。
高坂昌信画像
