上杉謙信(長尾景虎)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
上杉謙信とは戦国時代の越後国の戦国大名にして関東管領。
戦国時代最強とも称される戦での強さから、軍神や越後の龍などと称されました。
今回はそんな上杉謙信を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での上杉謙信
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 98 |
武勇 | 100 |
知略 | 83 |
内政 | 61 |
外政 | 73 |
『信長の野望』シリーズでは同じみの武勇100と、いつもながら安定した能力です。
統率も98とトップレベル。
相変わらずの強さです。
管理人は朝倉氏びいきなため、上杉家とは越中国を巡っていつも戦争になり、実に厄介な敵となってくれています。
こちらが先に越中平定したのも関わらず、その途端に敵視されて攻め込んできますからね。
謙信よ、お前の義とやらはどこへ行った!? と、問い詰めてやりたいくらいです。
そんなわけでしっかり備えておくのですが、これがまた強い。
朝倉家の弱小家臣団では、ちょっと兵数が勝っているくらいでは、容易に勝てません。というか決戦を自動で任せてしまうと、大抵負けてくれます。
この兵力差で!? っていうくらいのチートぶりです。
自分は毘沙門天の化身だの、現代でいえば中二病に罹患している痛い子なくせに、本気で強いからタチが悪いとはこのことです。
まあ越中さえとらなければ、後方を守ってくれる良き同盟相手なんですけどね。
知略は83と、必要十分な能力です。
内政関連は、60~70台と控え目。
他のオールマイティなチート大名連中に比べれば、個性がはっきりしていて好感ですね。
ただ謙信とで戦馬鹿であったわけではなく、内政に関しても力を入れ、産業を発展させて領国を豊かにしています。
同じように戦ばかりしていたライバル・武田信玄に比べても、越後と甲斐という領国の豊かさの差はあったものの、民の受けは、恐らく謙信の方に軍配があがることでしょう。
となると、内政61はちと物足りないような気もしますが、やはり何でもかんでも能力をあげるより、こちらの方が個性があっていいですよね。
信長の野望・新生での能力値
信長の野望 新生 | |
---|---|
統率 | 98 |
武勇 | 100 |
知略 | 84 |
政務 | 81 |
新生においての上杉謙信は、総合的にみれば大きく能力を向上させました。
軍事系の能力値は相変わらずの最強ぶり。
というか前作とまったく同じ能力です。
変化があったのがそれ以外。
知略は+1と微増で、このあたりは誤差の範囲でしょうが、政務能力は格段に向上しました。
何と80台を一気に突破。
上杉謙信といえば、戦闘系能力は最強ながらも、特に内政能力が低めに設定されることが多く、だいたい50~70の間で収まっている感じでした。
例外として初代『戦国群雄伝』などがあったりもしますが。
しかし今回は81と、高評価に。
一気に評価が見直された感じですね。
謙信はどうしも合戦の天才的なイメージがある一方、内政ははて何をやっていたのやら、といった印象もあったりしますが、ちゃんと領地経営もしていたわけです。
銭が無ければ戦ができぬのはいつの時代でも同じであり、それができていた、ということは、ちゃんと内政をやっていたか、もしくは圧政によりどうにかしていたか、といったところでしょう。
謙信のライバルであった武田信玄などは、あくまで管理人の印象では後者という気がしますが、謙信は前者であったように感じます。
とはいえ。
今回の能力上昇により、何となくこてれまであった謙信の個性のようなものがなくなってしまったかな、と思ったりもしないでもないですが、謙信ファンの方々にとっては喜ばしい評価であることには違いないですね。
さてそんな上杉謙信の人生を、簡単にみていきましょう。
上杉謙信 略歴
上杉謙信は越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として、享禄3年1月21日(1530年2月18日)に誕生しました。
初名は長尾景虎といい、この名もそれなりに有名です。
その後関東管領上杉憲政の養子となって山内上杉氏の家督を譲られ、上杉の姓と憲政の「政」の字を与えられて、上杉政虎と名乗るようになります。
この時に関東管領職をも引き継ぎました。
さらには室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱を受け、上杉輝虎と名乗り、そしてもっとも有名な上杉謙信の名は、さらにその後、出家した際の称した名前です。
謙信の生まれた越後国は内乱続きでしたが、これを統一。
その圧倒的強さを誇りつつも、内政にも力を入れ、国力を充実させていきます。
そして信濃では武田信玄、関東では北条氏康や小田氏治等、陸奥では蘆名盛氏、越中では越中一向一揆や神保長職、椎名康胤、能登では能登畠山氏、そして勢力拡大する織田信長とも激戦を繰り広げました。
特に宿敵であった、甲斐の武田信玄との五度に渡る川中島の戦いはよく知られています。
そして織田信長の台頭に対抗するために、足利将軍家からの要請を受けて上洛を敢行。
北陸を西に進み、越中国、能登国、加賀国へと勢力を拡大。
ついには織田家を手取川の戦いで破り、越前を目前にしたところで、49歳の生涯を終えました。
謙信の死後、実子のいなかった上杉家では養子の上杉景勝と上杉景虎が家督を巡って争い、内乱状態となる御館の乱が勃発し、その勢力を衰退させていくことになってしまうのです。
上杉謙信の人物像
上杉謙信といえば、義の戦争が有名であり、まさに謙信の大義名分のように思われています。
敵に塩を送る、なども、その一例として知られていますね。
もっともこういった逸話は決して美談ではなかったようですし、謙信が数多くおこなった救援要請に応える上での遠征なども、利害に無頓着だったわけではなく、状況を冷静に分析しつつ、勢力拡大に努めていたのではないかと考える意見も多くあるようです。
上杉謙信の辞世の句
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
謙信の死因と一つであるとも考えられている酒についてもうたわれており、よほど酒が好きだったことが分かる一句ですね。