織田信広【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
織田信広とは戦国時代の武将にして織田家の家臣。
織田信秀の庶子で、織田信長の兄に当たる人物です。
今回はそんな織田信広を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での織田信広
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 58 |
武勇 | 58 |
知略 | 53 |
内政 | 40 |
外政 | 43 |
能力値は50~40台と、実に平凡。可もなく不可もなし。
いや、不可だらけか?
さすがに主人公・織田信長の一族だけあって、ゲーム中に織田の名の付く武将はそれなりに多く登場するも、その評価はみな今一つです。
信広もご多分に漏れず、低評価。
信長に対して謀反を起こしていることを考慮されてか、野心は9とやや高め。
信広には今川に負けて捕まった挙句、人質交換の材料にされたというマイナス評価材料があることもあって、高い評価はそもそも見込めないのかもしれません。
しかしいくら半分しか血がつながっていないとはいえ、ひどいものです。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
62 | 59 | 46 | 47 |
前作に比べると、やや武に傾いた評価になった模様。五十歩百歩ではありますが。
織田信広とは
織田信広といえば織田信長の兄弟の一人であり、その庶兄にあたります。
父・信秀と側室との子であり、長男ではあったものの家督相続権は無く、母親の出自や信広の生年についても不詳です。
信広は長男とはいっても庶子であり、初めから家督相続の権利は無く、扱いも信長の兄弟、というよりは織田家の一族、程度のものだったそうです。
扱いが雑なせいか、ドラマでもあまり登場してくれません。あの信長の兄であるし、謀反とかも起こしているのに。
弟・織田信勝と信長の争いはよく描かれているのに、やはり扱いが雑ですね。無念。
信広は生年こそ分かっていないものの、信長とは年齢差があったようで、早くから軍を率いて戦い、軍事的に重要な役回りをこなしていました。
例えば1548年(天文17年)に勃発した第二次小豆坂の戦いでは、先鋒を務めています。
1549年(天文18年)には安祥城の守備を任されている最中、今川義元の大軍が来襲。
迫り来るのは黒衣の宰相こと戦国屈指のチート坊主、太原雪斎。
信広ごときに敵うはずがありません。
が、この第三次安城合戦では苦戦しながらも、本多忠高を討ち取るなどの功を上げています。実は凄い?
ちなみに本多忠高とは、徳川四天王の一人、戦国最強の本多忠勝の父親です。
これはもっと評価してあげるべき点ではないでしょうか。
だが第四次安城合戦においては再び太原雪斎に攻められ、ついには城を失陥。
自身も捕らえられて、織田家の人質となっていた松平竹千代との人質交換により、織田家に送還されました。いや、多分信長でも雪斎には敵わなかったと思いますよ。
その後、信広は美濃の斎藤義龍と結んで信長に対して謀反するなどしたが許され、信広も心を入れ替えて忠誠を尽くし、その年長者としての立場から信長の兄弟たちのまとめ役のような立場になっていったそうです。
しかし1574年(天正2年)に長島一向一揆攻めに参加し、討死しました。
ちなみにこの長島一向一揆殲滅では、信長が執拗な殺戮を行ったため、窮鼠と化した一揆衆に逆襲された挙句、信広もその乱戦の中でに大木兼能との一騎討ちとなり、討ち取られたとされています。