信長の野望:武将能力列伝

今川良真(玄広恵探)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

今川良真能力【信長の野望大志】

 今川良真(玄広恵探)とは戦国時代の武将であり、花倉の乱で弟である今川義元と争い、敗れた人物です。
 今川良真を名乗ったともいわれています。

 今回はそんな今川良真を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

玄広恵探(げんこうえたん)/今川良真(いまがわ ながさね)
足利二つ引両
生年 1517年(永正14年)
没年 1536年(天文5年6月10日)
改名 玄広恵探⇒良真?
家紋 足利二つ引両(あしかがふたつひきりょう)
父:今川氏親
母:福島正成の娘
兄弟 氏輝 彦五郎 玄広恵探 義元 氏豊
瑞渓院(北条氏康正室) 松平親善室(後鵜殿長持室) 中御門宣綱室 関口親永室 瀬名氏俊室


信長の野望での今川良真

信長の野望・大志での能力値

今川良真能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
今川良真(いまがわ よしざね)
統率 53
武勇 66
知略 44
内政 42
外政 40


 義元の兄弟としてみてみれば、かなり物足りない能力です。

 武勇が少しだけ高く、その他は並以下と、ありがちな戦国武将の能力値ですね。

 これでは義元に敵うはずもありません。

 『信長の野望』シリーズではずっと日の目をみる機会は無かったのですが、「天道」より初登場。
 初登場時はなんと武勇78を誇っており、同じタイトルの時の義元の武勇70を上回っています。

 次作「創造」でも僅差ではあったものの、これを凌駕していたのですが、「大志」に至ってとうとう逆転されてしまいました。無念。

玄広恵探とは

 今川良真、すなわち玄広恵探というと、今川義元の兄として知られています。
 義元を語る上で、その家督継承の際に必ず出て来る人物です。

 玄広恵探という名は出家していた時の名前であり、ドラマなどではこちらの名を使われることがほとんどです。

 今川良真の名はむしろはっきりしておらず、そういう名乗りもあったんじゃないかな、という程度のものですね。

 とはいえ、今川一門の武将の名としては、こちらの方がしっくりくるでしょう。

花倉の乱

 玄広恵探は1517年(永正14年)に今川氏親の三男として生まれました。

 今川義元とは母親が違い、今川氏の有力家臣であった福島正成の娘を母としており、義元の異母兄にあたります。

 氏親には長男である氏輝が嫡男としてあり、次男である彦五郎もあったため、三男であった良真は弟の梅岳承芳(今川義元)や象耳泉奘と共に早くに出家し、玄広恵探と名乗りました。

 ところが1536年(天文5年)に、父の跡を継いで当主となっていた兄・今川氏輝と次男・彦五郎が相次いで急死する事態が起こります。

 氏輝はもともと病弱であったとされているのですが、だからといって二人の兄弟が同日に死去することは考えにくく、毒殺や自殺説など、二人の死には謎とされているようです。

 ともあれこのような事態に際し、氏親の正室であった寿桂尼が自身の子である梅岳承芳を還俗させて今川義元と名乗らせ、家督を継がせようとしました。

 義元は五男だったこともあり、まだ健在な兄が玄広恵探を含めて二人もいましたが、寿桂尼にしてみれば当然自身の子を継がせようと思うところです。

 寿桂尼は正室でしたので、当然といえば当然の流れでもありました。

 ところがこの動きに反対したのが母方の福島氏であり、この福島氏に擁されて玄広恵探は挙兵し、花倉城や方ノ上城に拠ってしまいます。

 この時に、一説では名を玄広恵探から今川良真に改めたとされているようです。

 こうしていわゆる花倉の乱が勃発。

 しかし対する義元は相模の後北条家の支援を受け、今川家臣である岡部親綱が方ノ上城を攻撃し、これを攻略します。

 そして良真の篭る花倉城へと攻めかけ、良真は必死の抵抗をするも多勢に無勢で支えきれずに逃亡し、瀬戸谷の普門寺で自刃して果てました。

 これにより今川義元の家督相続が確定し、今川家はさらにその勢力を拡大させていくことになるのです。