築山殿とは戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。
徳川家康の正室としても知られている。
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生年 | 不詳 |
没年 | 1579年(天正7年8月29日) |
別名 | 築山御前 駿河御前 |
氏族 | 徳川氏 |
家紋 | 徳川葵 |
親 | 父:関口親永 母:今川義元の妹(養妹で井伊直平の娘とも)? |
子 | 信康 亀姫 |
築山殿とは






来歴
出自
築山殿の生年は分かっていない。
父親は今川刑部少輔家であった関口親永で、駿河今川氏の有力家臣であった。
母親は主君・今川義元の妹、もしくは養妹であるとされ、築山殿は義元の姪に当たることになる。




徳川家康との結婚
1557年(弘治3年)に、当時今川氏の人質となっていた松平元信(徳川家康)と結婚。
1559年(永禄2年)には長男・松平信康を、1560年(永禄3年)には長女・亀姫を出産している。
桶狭間の戦い
1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いが今川氏と織田氏の間で勃発し、今川義元は討死した。
これにより家康は今川からの独立を期して岡崎に帰還。
その上で織田信長と清洲同盟の締結に至る。
このことが義元の跡を継いだ今川氏真の怒りを買うことになり、築山殿の父・親永は自害する憂き目に遭ったという。


築山殿は家康配下の石川数正が駿河に赴き氏真を説得。
鵜殿氏長、鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換を申し入れ、駿府より岡崎へと移り、難を逃れたという。






1567年(永禄10年)に織田信長の長女・徳姫と、築山殿の長男・信康が9歳同士で結婚。
1570年(元亀元年)には信康が嫡子となって岡崎城へと移ったことから、築山殿も岡崎城に入ったという。
暗殺
その後家康は、本拠を遠江国の浜松に移しましたが、築山殿は信康と共に岡崎に残ることになる。
信康と徳姫の間には、登久姫や熊姫といった姫が誕生たが、息子は生まれず、築山殿は心配して元武田家臣で浅原昌時の娘や日向時昌の娘などを側室として迎えさせている。
1579年(天正7年)、徳姫に関する讒言を築山殿が信康に対してしたことや、築山殿と唐人医師・減敬との密通、また武田家との内通があったなどして、徳姫は12ヶ条の訴状を信長に送付。
これを受けた信長は家康に対し、信康の処刑を命じた。
これにより築山殿は岡本時仲と野中重政によって暗殺され、信康もまた二俣城にて切腹するに至ったという。




冤罪か、それとも
通説ではこのように築山殿は最期を迎えたが、12ヶ条の訴訟にあるような疑惑に関し、確かな史料ではそのような記事は見当たらないとし、冤罪の可能性も指摘されている。
築山殿・信康と徳姫が不和や家康と信康の対立などから、信康をかついで叛意を抱くものや、信康のもとにいるが家康に忠実なもの、または信康の器量に対して危ぶんで反感を持つものなど、家中が混乱し、粛清のために件の通説は作り上げられたのではないか、という説もある。
築山殿の評価









