築山殿(瀬名姫)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

築山殿とは戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。
徳川家康の正室として知られている人物です。
一般的には築山殿や瀬名姫の名が通称として通っており、他に駿河御前とも呼ばれていました。
今回はそんな築山殿を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での築山殿
信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 72 |
武勇 | 63 |
知略 | 60 |
内政 | 53 |
外政 | 65 |

全体的には平均値60越えと、平凡な能力。
ただ統率が70ありますので、戦場では良将の類としてある程度は使えそうな感じですね。
徳川家臣団としてみると、他にも優秀な人材がたくさんいるのでかすみがちですが、今川家臣団としてみれば、案外使える人材かもです。
信長の野望・新生での能力値

統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
75 | 45 | 55 | 49 |
新生での瀬名姫は、統率こそ微増したものの、あとは評価が下がったようです。
特に武勇が60台から40台へと大きくダウン。
実に20近くも下がってしまっています。
築山殿の来歴
徳川家康正室として
築山殿の生年は分かっていません。
父親は今川氏の有力家臣であった関口親永。
母親に関してははっきりしておらず、今川家当主であった今川義元の伯母、もしくは妹であったともいわれています。
生年は不詳ながら、家康とほぼ同年代、もしくは一回りほどの歳の差があったのではなかなど、諸説あるようです。
そんな築山殿は弘治3年(1557年)正月15日、今川家の人質として駿府にあった松平元信(後の徳川家康)と結婚することになります。
そして永禄2年(1559年)に長男松平信康を、同3年(1560年)に亀姫を出産しました。
桶狭間の戦い以降
永禄3年(1560年)5月19日、今川義元は尾張へと侵攻を開始し、織田信長との間で桶狭間の戦いが勃発しました。
この時義元は戦死し、出陣していた夫の松平元康(元信から改名)は岡崎に帰還。
この今川家の敗北を契機にして、それまで敵対していた織田信長と結び、元康は独立を目論むようになります。
このことが新たに今川家の当主となった今川氏真の怒りを買い、父・親永が自害。
築山殿も窮地に立たされますが、家康(元康から改名)の家臣・石川数正が駿河に来て今川氏真を説得したことで、鵜殿氏長・鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換を成立させ、岡崎に難を逃れました。
ただこの際、家康は今川家と手切れとなったことで、築山殿とは離縁した可能性も指摘されているようです。
そんな中の永禄10年(1567年)、息子の信康と織田信長の長女・徳姫が9歳同士で結婚しました。
こうして信康が嫡子として岡崎城に入ると、その生母として築山殿もまた、岡崎城に入ったのです。
最期
築山殿が岡崎城に入る一方で、家康は浜松城へと移ります。
信康正室の徳姫は、天正4年(1576年)には登久姫を、天正5年(1577年)には熊姫を出産したものの、嫡男に恵まれることはありませんでした。
これを心配した築山殿は、浅原昌時の娘や日向大和守時昌の娘を側室として迎えさせます。
このような中、築山殿との折り合いが悪かった徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたことや、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送ります。
これを知った信長は使者である酒井忠次に問い質し、しかし忠次は信康を一切かばいませんでした。
その結果、信長は家康に対して信康の切腹を命じることになるのです。
築山殿もまた処分せざるを得なくなり、家康の意思により自害を迫られ、これを拒否したことで、岡本時仲や野中重政によって殺害されます。天正7年8月29日(1579年9月19日)のことでした。
そして信康もまた、9月15日に二俣城で自害することになるのです。
死の謎と人物像
上記のことは通説ではありますが、その死に関しては謎が多いことも事実です。
徳姫が信長に送った12か条からなる訴状にあったような内容に関しては、確かな文献で確認することができず、冤罪であった可能性も指摘されています。
とはいえ築山殿に対する後世の評価はすこぶる悪く、
「生得悪質、嫉妬深き御人也」
「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」
「凶悍にてもの妬み深くましまし」
などと、散々な言われようとなっています。