関口親永(関口氏純)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
関口親永とは、戦国時代の武将。
今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣です。
主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改めましたが、現存している文書の署名は氏純となってることもあって、関口氏純の名でも知られています。
妻は今川義元の妹(養妹とも)とされていますが、実兄の瀬名氏俊の話の誤伝とする説もあるようです。
信長の野望での関口親永(関口氏純)
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
33 | 47 | 65 | 60 |
今川家の重臣という地位ではありましたが、能力としては物足りないのも否めず、といったところ。
内政方面では辛うじて活躍できそうですが、戦働きは期待できなさそうですね。
関口親永(関口氏純)の来歴
関口親永は今川一門の瀬名氏貞の次男として誕生しました。
生年は不詳ですが、兄・氏俊(貞綱)が永正17年(1520年)に誕生していますので、その2・3年後と推定されます。
親永は一族の関口氏禄の養子となり、関口家の家督を相続しました。
異説によると奉公衆である関口政興(刑部大輔)の弟である氏兼(刑部少輔)が駿河に下り、今川氏に仕えて堀越貞延の娘を娶ったものの大永5年(1525年)に死去し、後を継いだ嫡子の刑部(幼名:慶王)も程なく没したために、瀬名氏貞の子である助五郎(親永・氏純)が関口氏の婿養子になって相続したといもいわれています。
永禄3年(1560年)、今川氏と織田氏の間で桶狭間の戦いが勃発します。
今川義元が織田信長によって桶狭間で討たれ、その後衰退していく今川家を親永は支えました。
ところが娘婿であった家康が今川氏から独立。
義元の嫡男であり今川氏当主であった氏真からその去就を疑われた結果、永禄5年(1562年)、駿府屋形町の屋敷にて切腹を命じられて死去したと『松平記』に記載されています。
しかし永禄7年(1564年)5月や永禄9年(1566年)9月に氏真が記した文書によると、「関口伊豆守」の知行についての記載があることから、実はこの頃まで生存していたとも考えられているようです。