片倉景綱(片倉小十郎)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
片倉景綱とは戦国時代から江戸時代にかけての武将です。
伊達家の家臣であり、伊達政宗の側近として信頼され、知略を振るいました。
通称である片倉小十郎の名でも知られ、これは後々まで代々の片倉氏の当主が踏襲して名乗るようになります。
今回はそんな片倉景綱を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での片倉景綱(片倉小十郎)
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 86 |
武勇 | 80 |
知略 | 92 |
内政 | 82 |
外政 | 87 |
さすがは天下人の豊臣秀吉に評価されただけのことはあって、優秀な能力値です。
全能力80以上はさすが。
しかしあの政宗を支えるとなれば、この程度の能力は当然要求されるわけですね。
突出しているのはやはり知略。
政宗の軍師的存在だっただけのことはあります。
秀吉の誘いを断ったことからも野心が低く、裏切りの可能性が低いのもいいですね。
信長の野望・新生での能力値
信長の野望 新生 | |
---|---|
統率 | 85 |
武勇 | 79 |
知略 | 93 |
政務 | 85 |
前作同様、優秀な能力です。
武勇が-1となったことで70台に下がり、ぱっと見た印象では知略の武将、という印象が際立った感じです。
もともと外交取次などで活躍したこともあって、大志では外政能力の方が内政能力よりも高く評価されていましたが、今作では一本化したこともあり、ちょうど足して二で割った数値に落ち着いていますね。
片倉景綱の来歴
片倉景綱は弘治3年(1557年)に誕生しました。
父親は現在の成島八幡神社とされる八幡宮の神職であった片倉景重であり、その次男であったとされています。
父親の異なる姉に、伊達政宗の乳母を務めた片倉喜多がいることでも知られています。
この異父姉である喜多とは年齢が二十ほども離れており、早くに両親を亡くした景綱にとって、喜多は母親代わりのような存在であり、養育されることになりました。
いったんは親戚であった藤田家に養子として出されることになるのですが、その藤田家に男子が生まれたことにより、再び喜多の元に戻ったとされています。
姉である喜多は文武両道の優秀な人物だったようで、政宗の人格形成にも影響を与え、当然ながら景綱もその影響を受けて育ったといえるでしょう。
永禄10年(1567年)、この年に主君であった伊達輝宗に嫡男・政宗が誕生します。
この時に姉の喜多は乳母を拝命。
景綱はその後、輝宗の徒小姓を経て、天正3年(1575年)に遠藤基信の推挙によって政宗の近侍となったことで、のちに重臣としての地位を築いていくことになります。
天正10年(1582年)には景綱は政宗の腹心として認識されていたようで、蘆名盛隆から景綱に宛てた書状からもそれを読み取ることができます。
主君である政宗は伊達家の勢力拡大に乗り出し、天正13年(1585年)の人取橋の戦いや天正16年(1588年)の郡山合戦、天正17年(1589年)の摺上原の戦いといった主要な合戦に参加し、その力を振るいました。
特に天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際しては、秀吉方に参陣するべく政宗を説得し、伊達家の危難を救って存続に成功してます。
その後天下の趨勢が移り変わり、関ヶ原の合戦を経て豊臣の天下から徳川家康の天下に移り変わっていく中の慶長7年(1602年)、主君・政宗が仙台藩主となる一方で、景綱は白石城1万3000石の城主を賜ります。
これは一国一城令のもとにおいては特例でありました。
そして慶長19年(1614年)、大坂の陣が勃発します。
この頃の景綱は病床に臥しており、参陣した政宗に従うことはできませんでした。
代わりに嫡子であった片倉重綱(片倉重長)を参陣させ、重綱は大坂夏の陣にて後藤基次を道明寺の戦いで討ち取る功をあげ、鬼の小十郎と称されました。
そして元和元年(1615年)、病のために死去。享年59でした。
片倉景綱の人物像
伊達政宗が当主としてあった伊達家臣の中にあって、「武の伊達成実」と並んで「智の片倉景綱」と称されたとされています。
また武勇にも優れており、政宗の剣術指南も務め、知勇兼備の武将でした。
この景綱の才は天下人であった豊臣秀吉からも高く評価されていたようで、秀吉は景綱を直臣として取り立てようとし、三春5万石を与えようとしましたが、景綱は政宗への忠義を優先させ、これを固辞しました。
このように活躍した景綱でしたが、晩年は恐らく糖尿病を患い、その体躯は肥満体であったとされています。
また政宗が幼少期に天然痘にかかった際に外科手術をする逸話として右目潰しが知られていますが、実際の政宗の遺骨を調査した結果、眼窩に異常がみられなかったことからも、景綱が政宗の眼球を摘出したという話は創作の可能性が高いでしょう。