信長の野望:武将能力列伝

小田氏治【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

小田氏治能力【信長の野望大志】

 小田氏治とは戦国時代から安土桃山時代にかけての、常陸国の戦国大名。
 その志や不死鳥の如く、戦国最弱の大名として知られています。

 今回はそんな小田氏治を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

信長の野望での小田氏治

信長の野望・大志での能力値

小田氏治能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
小田氏治(おだ うじはる)
統率 51
武勇 47
知略 45
内政 46
外政 42


 さすがに「戦国最弱」の異名を奉られているだけあって、平凡以下の能力です。

 が、その二つ名からすれば、そこまで酷い能力とも思えません。

 また、確かに氏治はよく負けましたが、勝利することも少なくなく、周囲の者もそれを認めているような記録が残っています。
 しかしどうも、連戦連敗という評価のみが独り歩きしてしまっているようです。

 というか、弱いのか強いのか分からない人物ですね。

 またやけに領民やら家臣やらに慕われていたという点から、それが善政によるものであるのならば、内政値はもっと高くても良かったような気もしますし、外交を駆使して佐竹と戦い続けたことからも、外政能力はもう少しあっても良かったのではないでしょうか。

 ただしこの氏治の謎の人気についてはミステリーの一つであり、そういった謎を踏まえれば、なかなか評価の難しい人物だと言えるでしょう。

 魅力という能力があれば、絶対に織田信長と上回ると思うのは管理人だけではないはずです。

 ちなみに余談ですが、同じ「おだ」の名字を持つ織田信長とは天文3年(1534年)生まれということで、同い年だったりします。

 さてそんな小田氏治の連戦連敗の華麗なる記憶を見返してみることにしましょう。

小田氏治とは

小田氏治像(法雲寺蔵)小田氏治像(法雲寺蔵)

 その出自である小田氏は、本姓は藤原氏であり、その家系は宇都宮氏の一門・八田知家を祖とする関東の名族小田氏です。

 これは宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏と共に、関東八屋形の一家でした。

 そんな小田氏に生まれた氏治は、相模の北条氏と結んで常陸の佐竹義昭・義重父子や下総の結城政勝・晴朝父子、越後の上杉謙信といった並みいる強敵と戦い、自らの居城である小田城を巡っての激しい争奪戦を繰り広げ、あるいは勝利し、あるいは敗北しながらも戦い続け、最終的には豊臣秀吉に所領を没収されて。大名家としての小田家は滅亡しました。

 しかしその家系は、結城秀康に仕えたことで続いていくことになるのです。

 これだけみると、ありがちな地方の攻防によるかつては名門であった一族の凋落のようにもみえるのですが、その戦歴と内容に特筆すべき点があり、密かな人気のある人物だったりします。

戦国最弱たる所以の生涯

 天文17年(1548年)7月22日に父・政治が死去したことで、氏治はその家督を継承します。

 当時の小田家は、河越夜戦などで関東管領上杉・古河公方足利連合軍に味方していたこともあり、これに敗れたことで、その勢力が衰え始めていた頃でした。

 そんな氏治の当面の敵は、下総の結城城主・結城政勝であったといわれています。

敵は結城政勝

 結城政勝は小田家中の切り崩しを狙い、真壁城主・真壁久幹が寝返るなどし、また相模の北条氏康と組んでその勢力を拡大しつつありました。

 そうした中の弘治元年(1555年)、小田氏治は常陸太田城主・佐竹義昭と共に出兵し、相模の北条氏康と通じた結城政勝を攻めることになります。

 これに対し政勝は翌・弘治2年(1556年)、北条氏の助力を得て、逆に小田領へと侵攻。
 氏治はこれを迎撃し、海老ヶ島の戦いで敗北すると、海老ヶ島城どころか居城であった小田城をも失陥し、土浦城へと逃れました。

 ところが敵だった北条氏康は、常陸の佐竹義昭と戦うために、氏治と和解。
 これにより北条の助力を失った結城勢に対し、逆襲を敢行。

 見事追い払い、小田城奪還を果たしました。(;´∀`)フウ

敵は佐竹義昭

 弘治3年(1557年)2月、佐竹氏が動きます。

 佐竹義昭は下妻城主・多賀谷政経と共に、小田家家臣である平塚自省が立て篭もる海老ヶ島城を攻撃。

 これに対し、氏治はただちに軍勢を挙げ、攻め込んできた多賀谷政経の居城・下妻城攻撃に向かいます。
 
 佐竹義昭もこれを救援し、黒子の戦いにて氏治は敗北
 またもや小田城失陥してしまい、土浦城へと逃亡しました。

 しかし逃れた先の土浦城主・菅谷政貞は氏治に忠誠を誓う忠臣であり、主君のために働いてこれを奪還することに成功します。(;´∀`)フウ

 そうこうしているうちに、宿的の一人であった結城政勝が死去。
 さらにはその子である明朝は痘を患ってることを知り、これぞ好機到来とばかりに軍を挙げ、結城城に攻めこみます。

 しかし結城方の防戦は激しく、敗退
 その上逆襲されて北条城を失陥し、さらには海老ヶ島城も佐竹・多賀谷連合軍に攻められ城将・平塚自省が討死するなどして、ついには落城しました。

 そのような逆境の中の永禄3年(1560年)、越後の上杉謙信が動きます。
 これは北条氏康に敵対する関東の諸将からの要請に応えたもので、氏治は当然のごとく謙信に与します。

 そして永禄4年(1561年)1月、氏治は佐竹義昭らと結んで、北条方の結城氏の籠る結城城へと攻め込みました。

 この戦いに氏治は勝利します。(`^´) ドヤッ!

 さらには上杉勢と共に北条氏の本拠地である小田原城を攻めるもこれを落とすことは叶わず、謙信は越後へと帰還してしまいます。

 氏治は奪われていた海老ヶ島城奪回のため宍戸入道に攻めさせていたのですが、北条氏康の誘いにのって上杉方から北条方に寝返るなどして、情勢は目まぐるしくかわっていきます。

 このような流れから、氏治はまた佐竹氏と敵対することとなり、敵対していた府中城主・大掾貞国を三村の戦いで破り、勝利を収めました。(`^´) ドヤッ!

敵は上杉謙信

 そしてとうとう、戦国時代の軍神である上杉謙信と矛を交えることになります。

 氏治が裏切ったことを訴えた佐竹義昭・宇都宮広綱・真壁氏幹などの要請により、小田氏は上杉勢の標的となってしまったのです。

 謙信は一気に兵を進め、油断していた氏治は山王堂の戦いで大敗

 またもや小田城を失って、今度は藤沢城へと逃れました。
 これにて小田城、三度目の落城です。

 しかし転んだらひとは起き上がるもの。
 氏治とて同じであり、翌永禄8年(1565年)12月、佐竹義昭死後の混乱を突いて小田城を守る佐竹義廉を追っ払い、見事奪還に成功しました。(;´∀`)フウ

 しかし喜んだのも束の間。
 再び軍神がやってきて、小田城から追い払われてしまいます。
 またもや失陥する小田城
 四度目です。

 さすがの氏治も軍事力では謙信に敵わないと思ったのか、永禄11年(1568年)には結城晴朝を通じて謙信に降伏。

 壊れた城は直さないから、という条件のもと、小田城に戻ることが許されたのでした。

 やられたらやり返す。
 何としてでも小田城に返り咲く。

 この頃すでに、氏治には不死鳥の如き不屈の精神が宿っていたのです。

敵は佐竹義重

 こうした中、永禄12年(1569年)5月に佐竹義重が小田城攻略のために攻め寄せてきました。

 義重はかつて争った、佐竹義昭の子です。

 氏治「小童め。軽くひねってくれよう」

 と氏治が言ったかどうかはともかくとして、その勇猛さから「鬼義重」や「坂東太郎」の異名で恐れられた佐竹義重に対し、何と勝利を収めてします。(`^´) ドヤッ!

 が、ここで油断するのが氏治です。

 同年11月に行われた佐竹方・真壁氏幹軍との戦いで敗北してしまいます。

 そうこうしているうちに、氏治の敗退を好機とみた宿敵結城氏の結城晴朝が、ここぞとばかりに小田領へと侵攻開始。

 氏治は結城勢に対して兵力で劣っていたものの、ならばと夜討を決行し、これが見事に成功。
 この平塚原の戦いにより、改めて氏治の強さを内外に知らしめることとなったのです。(`^´) ドヤッ!

 しかし元亀4年(1573年)元旦。
 大晦日と元旦という慶事に戦のことなど頭になかった氏治ら小田氏に対し、太田資正が佐竹軍を率いて小田城を奇襲。

 為すすべなく小田城を失陥してしまいます。

 奪われたら奪い返す。

 不屈の精神の持ち主である氏治は、へこたれません。

 ただちに約5千の兵を率いると、佐竹勢を打ち破って速やかに小田城を回復してしまいます。(;´∀`)フウ

 2月には小田方の大島城が佐竹勢によって落とされてしまうのですが、これもただちに氏治は夜襲を実行し、奪い返してしまうのです。
 
 しかし佐竹氏との抗争は続き、手這坂の戦いで義重・太田資正に敗れて居城の小田城を再び失陥
 また土浦城、そして藤沢城へと逃れました。

 小田城に入った太田資正は、氏治の逃げ込んだ藤沢城攻略のため兵を送り、氏治はこれを迎え撃って激戦を繰り広げます。

 序盤は敗れた小田勢でしたが、ならばと氏治自ら出陣し、佐竹勢を駆逐。
 その強さを見せつけます。(`^´) ドヤッ!

 しかし佐竹勢は4月には再侵攻するも、またもや氏治自ら出馬した小田勢の前に、佐竹勢など敵ではなく、これを撃退することに成功しました。(`^´) ドヤッ!

年貢の納め時か

 このように佐竹に対して奮戦していた氏治でしたが、7月に宍倉城が、8月には戸崎城が義重に次々に奪われていきます。

 氏治は徹底抗戦のため、守りの厚い土浦城へと移動し、攻め込んできた佐竹方の北条治高と真壁久幹を迎撃し、これを討ち破りました。

 この好機をとばかりに小田城奪還を試み、君島川の戦いで勝利してあと一歩のところまで迫るも果たせず、11月に逆襲に転じた佐竹勢に敗れ、藤沢城も落城してしまいます。

 残され追い詰められた土浦城に対し、佐竹氏は侵攻を開始。
 土浦城は攻めにくい要害であったこともあり、小田方は勇戦してこれを退けるも、衆寡敵せず。

 ついには支えきれず、氏治は土浦城を脱出。
 さしもの土浦城も落城してしまったのでう。

失地回復へ

 次々に城を失い、追い詰められていく氏治でしたが、まったく諦めていませんでした。

 この頃、氏治の庶長子・友治はその頃相模の北条氏政に仕えていたため、友治は氏治への援助を強く訴えていたといいます。

 そのため氏政は友治の要請に応えて北条氏房に土浦城を攻めさせ、佐竹に降っていた城将・菅谷政貞は氏治への忠義から戦うことなく降伏し、土浦城を奪還することに成功したのでした。

 北条氏と佐竹氏の戦いが激化するなか、その間隙を縫うかのようにして氏治は再起を図り、次々に城を奪還していくことになります。

 氏治は北条氏の後援のもと、佐竹氏と対抗。
 小田氏単独ではもはや佐竹氏には敵いませんでしたが、その粒ぞろいの家臣団の奮戦もあって、佐竹氏は小田氏に対し、息の音を止めることができなかったのです。

 そうしたなか、氏治は出家して法名「天庵」と称しています。

 天正13年(1585年)、氏治は藤沢城を佐竹方から奪回に成功。

 しかし翌・天正14年(1586年)には結城氏から独立し佐竹方となった下妻城主・多賀谷重経に小張城を落とされた、さらには足高城も攻められているものの、撃退しています。

 しかし悲願の小田城奪還は未だならず、でした。

大名家小田氏の滅亡

 何としても小田城奪還を目指す氏治は、ついには自ら出陣して小田城へと迫ります。

 迎え撃つ佐竹勢に対し、氏治は優勢に戦を進めるも、太田資正の援軍によりあと一歩及ばず、悲願果たせずに帰還しました。

 そこで氏治は北条氏政に救援を求めるのですが、この時にはすでに小田原征伐が開始されており、北条方に余力は一切無かったのです。

 そしてこの時、北条方にあったことが、氏治にとっての不幸でした。
 秀吉方の味方とならず、佐竹と争ったことを咎められ、所領は没収
 大名としての小田氏はここに滅亡することになったのです。

 氏治はその後、秀吉に対して謝罪。
 許されて、結城秀康の客分となり、300石を与えられたのでした。

最期

 秀康が転封されると、氏治も越前浅羽へと映る。
 そして慶長6年(1601年)閏11月13日に死去した。享年68。

 その遺体は越前国の永平寺に葬られ、後に常陸国の新善光寺に改葬されたという。

小田氏治の評価

 氏治のその戦歴から、戦国最弱の大名として低い評価を受けてきました。

 しかし敗北の数は多いものの、必ずそれらを奪還しており、また氏治に従う家臣団の結束も強固で、氏治本人に強い人望があることを示すものだったといえるでしょう。

 どれだけ敗れても家臣に見捨てられず、領民にも慕われていた氏治。

 まるで劉備のような人徳をもって戦国時代にあった、稀有な存在であったのです。