信長の野望:武将能力列伝

平塚為広【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

 平塚為広とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
 豊臣秀吉に馬廻として仕えました。

 美濃国垂井城主となったのち、関ヶ原の戦いでは西軍として戦い、討ち死にすることになります。

 その寸前に、戦場にて大谷吉継と交わした辞世の句が有名ですね。

 今回はそんな平塚為広を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

信長の野望での平塚為広

信長の野望・大志での能力値

平塚為広能力【信長の野望大志】©コーエーテクモゲームス
信長の野望 大志
平塚為広(ひらつか ためひろ)
統率 69
武勇 79
知略 63
内政 35
外政 43


 大谷吉継や石田三成など、関ヶ原で西軍として戦った有名どころの武将と比べると、どうしても見劣りする能力ではありますが、それでも戦に秀でた能力……まであと一歩、というところでしょうか。

 武勇が80あれば、一気に雰囲気が変わったのでしょうが、まさにあと一歩。
 まあ「大志」ではすぐに能力が上がりますので、80台の武勇を披露してくれますけどね。

 気質はさすがの仁義。
 大谷吉継ともども、西軍の将はこういう武将がいていいですね。

平塚為広の来歴

秀吉家臣時代

平塚為広像平塚為広像

 平塚為広の生年は分かっていません。

 父親は平塚入道無心とされる人物で、そもそも平塚氏はもとは三浦氏の一族であったといい、平塚郷を賜ったことから平塚姓を名乗ったとされています。

 その前半生はよくわかっていませんが、羽柴秀吉に仕えていたものの勘気を被ってしまい、浪人。

 しかし天正5年(1577年)に秀吉が播磨国佐用城の福原氏攻めた際、黒田孝高に陣借りをして城攻めに加わったらしく、城から落ち延びようとした福原方の武将福原助就を討ち取る武功をたてたことで、再度秀吉に仕えるようになった、ともいわれています。

 ともあれ為広は秀吉の馬廻衆となり、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を重ねていきました。

 またのちの朝鮮出兵にも参陣。
 肥前名護屋城に駐屯したとされています。

 為広は長年をかけて秀吉に対して忠義を示し、秀吉もこれに応えて8000石の知行を与えることで報いました。

 慶長3年(1598年)に行われた、いわゆる醍醐の花見にも秀吉の護衛として参加しており、その信頼の高さをうかがわせます。

関ヶ原の戦い

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)

 そんな中、豊臣秀吉が死去。

 その後は秀吉嫡男であった豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられ垂井城城主となり、大名にまで出世しました。

 しかし秀吉死後の豊臣政権下では徳川家康が台頭し、石田三成や上杉景勝などと対立し、不穏な空気が蔓延していくことになります。

 そして同年、その対立は鮮明化し、関ヶ原の戦いが勃発しました。

 その寸前、家康に対して挙兵しようとする三成に対し、盟友であった大谷吉継が思いとどまるよう、説得を試みたことはよく知られています。

大谷吉継像大谷吉継像

 しかしの際、吉継だけでなく、為広もまた三成に対し、諫めました。

 その結果、三成はやはり翻意することなく、挙兵。
 吉継は敗戦を承知でこれに味方し、為広もまた同じくこれを見捨てず、三成に味方して西軍に与することになりました。

 吉継と同じく為広もまた、仁義の武将として知られている所以ですね。

 西軍となった為広は、まず伏見城攻めに加わり功を上げ、さらには大谷隊に属して北陸に入り、東軍の加賀前田家の前田利長の進軍に備えるべく、越前の北ノ庄城に入ります。

 その後、吉継と共に南進して美濃へと入り、関ヶ原へと着陣を果たしました。

 そしてこの頃、味方である西軍に属していた小早川秀秋の動向を怪しみ、危惧していた吉継は為広に密命を与えます。

 それは、秀秋に裏切りの気配があれば、ただちに暗殺すべしというもの。

 このような大任を任されるほど、為広は吉継にも信頼されていたのでしょう。

 しかし事を事前に察知していた秀秋の備えにより、暗殺が実行されることはありませんでした。

 そして関ヶ原本戦が開始されると、案の定、小早川秀秋は裏切り、大谷隊目指して攻撃をしかけてきます。

 その備えとしてあった平塚隊は、寡兵でありながらも大軍の小早川隊を数度にわたって押し返し、戦線の維持に努めました。

 しかし裏切りは続き、大谷隊は包囲されて壊滅。

 それでもなお一人戦い続ける為広でしたが、ついには山内一豊の家臣樫井太兵衛、もしくは小早川秀秋の家臣横田小半介に討ち果たされるのでした。

 このような激戦の中、最期を悟った為広は吉継に対し、

「名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」

 という辞世の句を送ったとされています。

 吉継も答え、

「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」

 と返歌したことで知られています。

 この戦で為広だけでなく、子の庄兵衛も討死しましたが、弟の平塚久賀は生け捕られて徳川家康の前に引き立てられたものの、赦免されたといわれています。

 これは家康が久賀に対し、家康は自分ではなく三成につくからこうなったのだと罵ったことに激怒した久賀が、かつて家康もまた人質であったことや、家康の不義理をさんざん詰った挙句、すぐにも首を刎ねろと言い返したことで、このまま挑発にのって処断すれば、それはそれで自身の恥と感じた家康により、赦免してしまった、というのが理由であったとされています。

 為広の嫡男であった平塚為景は豊臣家滅亡となった大坂の陣でも豊臣方として戦い、若江の戦いで戦死したといわれています。

平塚為広像

平塚為広像『関ヶ原合戦図屏風』平塚為広像『関ヶ原合戦図屏風』
平塚為広像平塚為広像