大谷吉継【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
大谷吉継とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
豊臣秀吉の家臣であり、越前敦賀城主を務めました。
その人生の最期において臨んだ関ヶ原の戦いでは、眼疾のために失明していたにも関わらず輿に乗って指揮を執り、奮戦したものの、小早川秀秋をはじめとする諸将の裏切りにあって敗戦し、ついには自刃して果てました。
また、その関ヶ原の戦いにおける、西軍の事実上の指揮官であった石田三成との友誼も有名ですね。
今回はそんな大谷吉継を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での大谷吉継
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 90 |
武勇 | 70 |
知略 | 89 |
内政 | 78 |
外政 | 81 |
関ヶ原の戦いでの敗軍の将であるにも関わらず、その評価は非常に高く、またバランスもいい能力となっています。
軍事も政治も謀略も何を任せてもOK。
一番低い能力も、武力70とご立派。
後年、病により身体が不自由であったことからやや差し引かれたのかもしれませんが、それでも高い能力値。
病がなければもっと評価が高かったかもしれませんね。
ともあれ西軍にとって、なくてはならない存在であることには違いないでしょう。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
89 | 68 | 90 | 80 |
新生での大谷吉継は、90台や70台から陥落してしまった能力があるものの、十分に優秀といえる能力です。
大谷吉継の来歴
吉継の出自
大谷吉継は、永禄8年(1565年)もしくは永禄2年(1559年)に、近江国にて誕生したとされています。
生年には諸説あり、もし若い方が正しかったとすれば、最期の関ヶ原の戦いでは30代ということになり、イメージよりも若かった印象になりますね。
吉継の父親についても諸説あり、大友氏の家臣・大谷盛治もしくは六角氏の家臣・大谷吉房のどちらかと考えられているものの、近年では大谷吉房の方が有力なようです。
秀吉家臣時代
吉継は天正年間の初め頃に、羽柴秀吉の小姓となって、これに仕えたとされています。
秀吉が織田信長の命によって播磨攻略に向かう天正5年(1577年)10月にはすでにその名前が見えており、従軍していたことがうかがえます。
その後の天正10年(1582年)4月の備中高松城攻めにおいては、秀吉の馬廻衆として参加していたともされますが、吉継がその頭角を現すのはやはり、信長死後の秀吉が天下取りを目指す過程においてでしょう。
同年の6月2日。
いわゆる本能寺の変が勃発し、織田信長は家臣・明智光秀に討たれて横死します。
その光秀を討った秀吉は、その後、織田家重臣であった柴田勝家と対立。
ついには天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが勃発します。
この時吉継は、柴田方の長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させるなど、その知略の片鱗を見せ始めます。
また天正13年(1585年)、紀州征伐において、増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍。
この時吉継は、敵方の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取ったという武功を残しており、その武勇の高さをうかがせることのできるエピソードといえるでしょう。
こうして天下統一を果たしていく主・秀吉は、ついには近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任されます。
この時吉継も同じくして従五位下刑部少輔に叙任されました。
これにより、吉継は「大谷刑部」と呼ばれるようになったわけですね。
吉継はその後の天正14年(1586年)の九州征伐においても参陣し、兵站奉行・石田三成の下で功績を挙げていきます。
そして三成が境奉行となると、その配下として働くようになります。
こに辺りから、吉継と三成の接点が見え始めるわけですね。
天正17年(1589年)には越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となりました。
敦賀統治
吉継が与えられた越前敦賀の地は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港があり、非常に重要な地でした。
そのため秀吉は直臣である家臣にこれを統治させる必要を感じ、吉継がこれに選ばれたといえます。
敦賀を任された吉継はその統治にも力を入れ、産業を発展させると同時に水軍なども編成して軍備も整え、これはのちの関ヶ原において、水軍による金沢攻撃の虚報により前田利長を撤退させるに及ぶなど、効果を発揮することになります。
吉継の統治は行き届き、
「蓋し、吉隆(吉継のこと)、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」
「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」
といわれたほどでした。
関ヶ原の戦い
そんな大谷吉継でしたが、その未来に徐々に暗雲が立ち込めていくことになります。
まずは自身が病を得たこと。
文禄3年(1594年)には草津に湯治に赴き、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っています。
また慶長3年8月18日(1598年9月18日)には主君・豊臣秀吉が死去。
その後、徳川家康が台頭し、豊臣家中は内紛状態となっていくのです。
そして慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張し、いわゆる会津征伐を開始します。
この頃の吉継は家康とも懇意であり、その討伐軍に参加すべく、従軍するために手勢を率い、その途中にあった佐和山城へと立ち寄りました。
この佐和山城は石田三成の居城であり、その三成は家康との対立の結果、すでに豊臣家の政権中枢から失脚しており、三成自身も隠居の身の上でした。
そんな三成は吉継にとっては親友であり、家康との不仲を憂いていたこともあって、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させることにより、家康の心証を良くして両者を仲直りさせようとします。
ところが案に反し、三成は今こそ徳川家康を討つ好機であると、吉継に対して挙兵を持ち掛けます。
無謀であると、吉継は再三にわたって拒絶。
あまりに無謀であり、勝機などないと、逆に三成を思いとどまらせようと説得するも、ついにはその熱意に打たれ、敗北を承知の上で三成方に参じ、西軍に名を連ねたのでした。
このあたりの逸話も、吉継の仁義の厚さを知らしめるものとして、よく知られていますね。
ともあれ吉継は西軍に与すべく、敦賀に期間。
同じ北陸諸将の調略を開始し、その中で最大の敵となるであろう加賀の前田家を迎え撃つ準備を行います。
これは功を奏し、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として、前田利長の進軍を阻むことに成功しました。
北陸方面を抑えた吉継は、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進軍します。
そして9月15日、ついには関ヶ原本戦に至りました。
この頃すでに病も重かった吉継は、軍勢の指揮に専念し、東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に互角以上の戦いを演じます。
しかしついには運命の時が訪れてしまいます。
戦も午後に至り、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が突如東軍に寝返り、大谷隊を攻撃したのでした。
だが吉継は秀秋の裏切りを予測しており、動揺することなく小勢でありながら大軍の小早川隊を幾度も山へと追い返す奮戦ぶりをみせつけます。
これこそ吉継にとって、人生最大の激戦であったのですが、その手腕を遺憾なく発揮し、不利な状況に陥りつつあった西軍を、必死になって支えたのでした。
だが運命は東軍に傾いていくことになります。
吉継は小早川の裏切りに備えて配置していたた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊までもが東軍に寝返り、大谷隊を攻撃すべく反転攻勢をかけたのです。
完全包囲された上での猛攻にさしもの吉継も如何ともしがたく、ついには手勢は壊滅。
吉継は覚悟を決め、自害に及びました。
享年42もしくは36。
大谷隊の壊滅は、西軍が潰走するきっかけとなり、その通りに西軍は敗北しました。
この敗戦により、西軍の多くの将は戦場から離脱を図ったのですが、吉継はそれを良しとはしなかったようで、敢えて自害を選んだといわれています。
その首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍の手についに渡ることはありませんでした。
「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
吉継の辞世とされているもので、これはまさに戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」に対する返句となっているといわれています。
吉継の墓所は、居城のあった福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔があり、また岐阜県関ケ原町にも湯浅隆貞の墓と隣接して石塔が設けられています。
また異説によると、切腹した吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われていることから、その伝承に基づく首塚が滋賀県米原市下多良に残っています。
大谷吉継の人物像・逸話
吉継の病
吉継は当時の仏教観で先生の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされ、現在でもそのイメージが定着しています。
しかし江戸中期頃までの逸話集には、このような描写は存在していません。
『関ケ原合戦誌記』『関ケ原軍記大成』などの軍記によって、このイメージをが広がっていたっとされています。
ただし、目を病んでいたのは確かなようであり、病が重篤化したと推定される文禄3年10月朔日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べていることからも分かります。
徳川家康との関係
関ヶ原において、徳川家康を最大の敵として戦った大谷吉継でしたが、その関係はむしろ親しかったことが知られています。
家康が決行した会津征伐などでも、周囲の反対があった中、吉継は「まさに天下の主ともなる人だけのことはある」と評価したと、『改訂後三河風土記』には記されているようです。
また親友であった三成が決起を促した際も、家康の才を認め、三成では及ばないと飾ることなく諫めていることからも、その関係性がわかります。
石田三成との関係
大谷吉継と石田三成の深い友情に関しては、現代でもよく知られています。
二人は同世代であり、同郷であり、また秀吉によって同じ才を認められ、二人が一緒に行動することが多かったことも、あれほどの友情を生まれさせたのではないかと考えられています。
例えば有名なのが、茶会においての出来事です。
天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきました。
この時、病を患っていた吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったとされています。
ところが三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み、また一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちてしまい、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらってしまったのですが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたともいわれています。三成よ、なぜその気遣いを普段から周囲に面々に施せなかったのか。
ともあれそんな男気溢れる行動も目の当たりにした吉継は感激し、このことは後年の関ヶ原において共に決起する決意をしたとされているのです。
またその関ヶ原への決起においても、吉継は三成に対し、
「お前は人望が無いから決起しても誰もついてこん。だから前面には毛利輝元や宇喜多秀家を押し出し、お前は影に徹せよ」
などと、本人を目の前にしてはばかりなく伝え、三成も怒ることなくそれを受け入れたとのことですから、二人が何を憚ることなく物を言い合える関係であったことが分かりますね。
小早川秀秋への呪い
関ヶ原において敗戦に及び、いよいよ自害となった吉継は最後に、
「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」
と、小早川の陣に向かって怨嗟を発し、果たして秀秋は三年ももたず、二年後には狂い死にしたともいわれています。