奥平信昌【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
奥平信昌とは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。
上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主となっています。
最初は貞昌と名乗りました。
徳川家康の長女・亀姫を正室としており、家康に娘婿として重用され、亀姫との間に家昌など4男1女をもうけたことで知られています。
信長の野望での井伊直政
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
78 | 73 | 73 | 41 |
戦働きに必要な能力を備えた良将です。
苦手なのは政務能力だけなので、新生で城主をする場合は郡代をしっかりつけて、フォローしてもらえば問題なし。
さすがは長篠城を守り切っただけのことはあって、鉄壁や牢固などがちがちの防御型ですね。
前線の城主に向いていそうです。
奥平信昌の来歴
徳川家康に属すまで
奥平信昌は弘治元年(1555年)に、三河国作手の有力国人・奥平定能(貞能)の長男として誕生しました。
母は牧野成種の娘。
信昌の奥平氏は祖父・貞勝の代までは今川氏に属していたのですが、桶狭間の戦いによりに今川氏の影響力が三河国で後退したことを機に、徳川家康の傘下となって遠江掛川城攻めに加わるなどしていました。
元亀元年(1570年)12月、武田氏の重臣であった秋山虎繁が2500余騎を率いて東美濃の遠山氏の領地の一部を通って奥三河へ侵攻します。
この際、信昌と父の奥平定能は徳川方として参戦し、山家三方衆と三河衆2,500人と共に、同盟する遠山氏とともに武田方と対峙。
三河との国境の美濃国恵那郡上村にて戦となりました。
これがいわゆる上村合戦です。
この戦い、数の上で有利だったのは遠山・徳川連合軍だったのですが、遠山軍が惨敗した結果を受け、この時すでに武田方とも内通していた奥平定能親子ら山家三方衆と三河衆は、ほぼ戦わずして城へ逃げ帰っています。
そしてその後は武田氏に属することになりました。
このように武田方となった奥平氏に対し、元亀4年(1573年)ごろ徳川家康は、奥三河における武田氏の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平氏を味方に引き入れることを考えます。
そのため奥平氏に使者を送るのですが、奥平貞能の返答は「御厚意に感謝」という程度のつれないものでした。
しかしそこで諦める家康ではなく、織田信長に相談すると、「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるように」との意見を信長は伝えてきたのです。
これを是とした家康は信長の意見を入れることを決意。
貞能に対し、
- 亀姫と貞昌の婚約
- 領地加増
- 貞能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させる
などの条件を提示しました。
これにより元亀4年6月22日、貞能は家康に対し、
- 武田信玄の死は確実なこと
- 貞能・貞昌親子の徳川帰参の意向
を伝えます。
これによって亀姫との婚約を提案された貞昌は、武田家に人質として送っていた妻・おふうと離縁することを決断。
やがて徳川氏の家臣となりました。
こうして武田氏を裏切った奥平氏に対し、武田氏当主・武田勝頼は貞昌の妻おふう(この時16歳)・貞昌の弟仙千代(この時13歳)など奥平氏の人質3人を、天正元年(1573年)9月21日に処刑することになります。
その後天正3年(1575年)に、武田氏に備えて新城城を築城しています。
長篠の戦い
奥平氏の離反を許さなかった武田勝頼は、天正3年(1575年)5月に1万5,000の軍を率いて長篠城へと侵攻しました。
これに対し貞昌は長篠城に籠城。
家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させて、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきります。
その結果、同月21日に長篠の戦いが勃発。
織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることになったのです。
この時の戦いぶりは織田信長からも賞賛されたようで、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めています。
信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいますが、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられています。
とはいえ、近年の研究では、武田信玄こと晴信の偏諱「信」を与えられて信昌と称したものの、後世の奥平氏がこのような事情を憚って信長からの偏諱の話を創作したとする説もあるようですね。
信長だけでなく家康もまた、名刀・大般若長光を授けて信昌を賞賛しました。
家康はさらにそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して一人一人に労いの言葉をかけた上、彼らの知行地に関する約束事など子々孫々に至るまでその待遇を保障するという特異な御墨付きまで与えています。
この時の長篠の戦いの勝利がいかに大きなものであったかをうかがえる逸話ですね。
ともあれ戦後、信昌は父・貞能から正式に家督を譲られました。
後半生
本能寺の変で織田信長没後の天正10年(1582年)の天正壬午の乱において、酒井忠次と共に武田家遺領へ侵攻しています。
天正13年(1585年)、徳川氏の宿老・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔する事件が発生し、数正によって秀吉に自家の軍事機密が流出したことに対抗するため、家康は急遽三河以来の軍制を武田信玄の軍制に改めました。
この時後見したのが信昌で、かつて武田家に臣従していた頃の経験をもちいて軍制改革を行ったとされています。
天正18年(1590年)7月、関東へ国替えとなった家康と共に関東に移りました。
同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封しています。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは本戦に参加。
戦後は京都の治安維持のため、京都所司代を翌年まで務めています。
この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛しました。
恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、信昌が家康に献じた上で、改めて信昌に下賜されてうます。
ただ西軍方の大物であった宇喜多秀家には逃亡を許しました。
慶長6年(1601年)3月には、関ヶ原の戦いに関する一連の功として、上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封されます。
慶長7年(1602年)、加納で隠居し、三男・奥平忠政に藩主の座を譲りました。
慶長19年(1614年)には、忠政と下野国宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれ、しかし高齢を理由に、息子たちに代わる大坂の陣への参陣を免除されました。
代わって唯一参戦した末男・松平忠明の下へと、信昌は美濃加納の戦力だけは派兵します。
そして翌年3月に死去した。