津軽為信(大浦為信)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
津軽為信とは戦国時代の陸奥国の戦国大名。
陸奥国弘前藩初代藩主となりました。
今回はそんな津軽為信を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での津軽為信
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 88 |
武勇 | 77 |
知略 | 92 |
内政 | 80 |
外政 | 86 |
津軽為信といえば戦国時代の関羽、とでもいえるような人物でありますが、見た目と能力はともかく、不義理な点ではまさに関羽とは対照的ですね。
しかし能力はしっかりしています。
南部家臣団の中ではトップクラスに優秀で、東北全体を見渡しても、周辺の最上義光や伊達政宗といった名の知れた戦国大名と比べても遜色の無い能力値です。
さすがに謀反を成功させて、のちの豊臣政権下でも外交を駆使して大名にまでのし上がっただけのことはあり、目を見張る能力。
『信長の野望』では、謀反だの下克上だのを為した人物というのは、知略を中心に高く評価されており、為信もその一人です。
というわけで、知略92はご立派。
これでは主君である南部晴政あたりの能力では、どうにも敵わなかったことでしょう。
のちの南部信直も同様です。
そして知略だけでなく。全体的にバランスのとれた能力であり、どこに出しても活躍してくれることでしょうが、当然裏切りには気を付けたいところです。
『大志』では義理というステータスはありませんが、代わりに野心が15と最高値なので、とにかく危険。
しっかり手懐けておきましょう。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
86 | 75 | 91 | 87 |
政務こそ能力評価が上昇したものの、それ以外は微減した津軽為信。
とはいえ十分に優秀。
新生では忠誠度が低いせいでよく出奔し、遠国登用などで引っかかることもあるので、思わぬ国の大名の配下に収まっていたりします。
その分、自分の陣営に取り込み易くもある一方で、油断していると離れていってしまうことも。
手に入れたらしっかり褒美を与えて繋ぎとめておきましょう。
津軽為信の来歴
津軽為信は天文19年1月1日(1550年1月18日)に誕生しました。
ただしその出自ははっきりしておらず、久慈氏の出とも、大浦守信の子ともいわれているようです。
ともあれ永禄10年(1567年)、大浦為則の養子となり、大浦氏を継ぐことになります。
そして元亀2年(1571年)5月5日、為信は若くしてその野心を周囲にみせつける事件を引き起こします。
為信は石川城の工事を装いつつ、突如これを攻略。
主家であった南部家当主・南部晴政の叔父にあたる石川高信を自害に追い込みます。
ちょうどこの頃、晴政は養子で後継ぎとなっていた南部信直と対立し、争っていました。
その隙を狙う形で為信は、次々に周囲を攻略し、平定していきます。
この時、為信がこのように積極的に動いた背景には、あくまで一説ではありますが、南部晴政の関与があったからではないか、ともされているようです。
というのも、前述したように晴政と信直が対立していましたが、信直は元は石川高信であり、実家である石川家の勢力を弱体化させるために仕組んだのでは、とも考えられているようです。
ともあれ為信は、天正3年(1575年)大光寺城の城代滝本重行を攻め、翌年(1576年)には攻略。
天正6年(1578年)7月、予め無頼の輩を潜入させ放火するなどして混乱を引き起こし、浪岡城を落城。
浪岡御所・北畠顕村(北畠親房の後裔)を自害に追い込みます。
天正7年(1579年)7月4日には安東氏の命を受けた比山氏ら連合軍との間に六羽川合戦が勃発。
これに勝利します。
天正13年(1585年)3月には、油川城を攻略し外が浜一帯を制圧。
またこの頃、為信の正室・阿保良の2人の弟(大浦為則の五男、六男で、為信にとっては義弟)が溺死する事件が起きるのですが、これは為信がのちの後継者争いを防ぐために暗殺した、ともいわれているようです。
また当時は豊臣秀吉が台頭しており、為信はいち早く上洛を決意。
為信自らの上洛を幾度も試みるも、道中の勢力に邪魔され続け、失敗して果たせませんでした。
しかし天正17年(1589年)、秋田実季と和睦したことで、家臣を上洛させることに成功します。
これにより、秀吉から津軽三郡ならびに合浦一円の所領を安堵された。
ただ秀吉も完全に認めたわけではなく、のちの奥州総検地により所領高4万5,000石のうち3万石が津軽領地高として安堵されたものの、残り1万5,000石は太閤蔵入地とされて没収されています。
そして小田原征伐が始まると、為信は自ら参陣し、秀吉に謁見を果たしました。
一方で、所領を押領された南部家も黙ってはおらず、惣無事令違反として為信を逆賊であると訴えていたものの、為信の事前工作により、大名としての地位を死守することに成功しています。
また為信は秀吉だけでなく近衛家とも接近し、元関白近衛前久などとも接見して、財政支援を行って近衛前久の猶子となっており、この際に姓を大浦から津軽に改め、津軽為信と名乗るようになりました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。
この時は東軍として参加するも、嫡男の信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあって、真田家がそうしたように、東西どちらが勝っても津軽家が存続できるように、手を打っていたことが窺えます。
西軍敗北後、信建は石田三成の子である重成らを連れて、津軽に帰国しました。
慶長12年(1607年)、病に伏せた嫡男の信建を見舞うために、為信も上洛。
しかし死に目には間に合わず、為信が到着する前に信建は死去。
そして為信自身も12月に、京にて死去しました。
享年58。
その家督は三男であった信牧が継承。
しかし信建の嫡男熊千代を衰退した金信則や津軽建広らといった信建派の家臣らによって、お家騒動が勃発。
これは幕府が裁定し、信枚を正嫡として公認。
建広らは追放されたのでした。
大浦氏(津軽氏)を一代で大名に引き上げた為信は、当時からその実力を高く評価されていたようで、「天運時至り。武将其の器に中らせ給う」と『津軽一統志』には記されています。