朝倉孝景とは室町時代から戦国時代初期にかけて活躍した武将であり、越前朝倉氏の7代目当主。一乗谷に朝倉氏繁栄の基礎を作った人物でもある。
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生年 | 1428年(応永35年4月19日) |
没年 | 1481年(文明13年7月26日) |
改名 | 小太郎⇒教景⇒敏景⇒教景⇒孝景 法名:英林宗雄 |
主君 | 斯波義敏⇒斯波義寛⇒斯波義廉 |
氏族 | 朝倉氏 |
家紋 | 三盛木瓜(みつもりもっこう) |
親 | 父:朝倉家景 |
兄弟 | 堀江利真室 孝景 経景 輿市郎 景冬 光玖 聖室宗麟 久嶽紹良 定国 |
妻 | 正室:朝倉将景娘(円渓眞成大姉) 継室:逸見氏養女・温科氏娘(桂室永昌大姉) |
子 | 氏景 景明 孫四郎 景総 教景(以千宗勝) 時景 景儀 教景(宗滴) |
朝倉孝景とは














長禄合戦と家督相続
1428年(応永35年)に、朝倉氏6代当主である、朝倉家景の嫡男として誕生した。
しかし家景は1451年(宝徳2年)に死去したため、朝倉氏5代目当主であった祖父・朝倉教景がまだ健在であったことから、この補佐を受け、当主となる。


しかし1458年(長禄2年)に長禄合戦が勃発。
この戦いは越前守護である斯波義敏と越前守護代であった甲斐常治が起こした一連の戦いのことで、孝景は甲斐常治方につくことになった。




孝景はこの長禄合戦において、守護代方の主力として活躍した。
1459年(長禄3年)に行われた足羽郡和田荘での合戦において勝利し、守護方についていた義兄の堀江利真と叔父である朝倉将景を敗死させるなどその影響力を増していくことになる。




孝景は朝倉家一門において、宗家であり当主の立場にあったものの、父・家景の早死などもあって、その支配体制は磐石ではなかった。
家督は祖父・教景の補佐のもと孝景が継承していたものの、朝倉一族の中には反孝景派といった、孝景に従わない者もいたのである。
長禄合戦において勝利した孝景は、反孝景派であった一族分家の朝倉将景、朝倉景契、朝倉良景などを討ち果たし、このことで孝景自身の地位を高め、また朝倉氏の台頭のきっかけとなってく。
また孝景が味方した守護代の甲斐常治は、長禄合戦の勝利の報を聞くことなく京都で死去。
このことは孝景の影響力が相対的に増す結果にもなった。
応仁の乱
西軍として活躍
1467年(応仁元年)に、斯波氏の内乱や足利将軍家の家督相続問題、はたまた畠山氏の家督相続問題などが相俟って、世に言う応仁の乱が勃発する。
孝景は主家である斯波義廉と協力して西軍として戦い、御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなどに参加。
また伏見稲荷では骨皮道賢を討ち取るといった功も挙げた。








東軍に寝返る
応仁の乱において、西軍の将として活躍していた孝景だったが、1471年(文明3年)に突如東軍へと寝返る。
これは魚住景貞を仲介して東軍の浦上則宗と接触し、将軍・足利義政と細川勝元から守護権行使の密約を手にしたことが要因だった。




これは当然、越前一国の支配を念頭においたもので、孝景は越前平定に乗り出すことになる。
そのため孝景は、かつて長禄合戦で味方した守護代・甲斐常治の子である甲斐敏光と戦うことになっていくのである。




越前平定戦において、孝景は越前国の西軍勢力を次々に駆逐。
この事態を憂いた甲斐敏光は自ら越前に下向して孝景と戦うも、1472年(文明3年)には孝景が府中を落とし、その後行われた坂井郡長崎庄での戦いにも孝景は勝利し、敏光は加賀に逃れた。
しかし1474年(文明6年)になると、富樫幸千代の援助を受けた敏光が再度侵攻。
孝景はこれをよく防ぎ、越前国の形成はすでに朝倉方に傾いていたこともあって、美濃守護代格であった斎藤妙椿の斡旋により孝景と敏光和睦することになった。




斯波義寛の朝倉征伐
1479年(文明11年)には尾張・越前・遠江守護である斯波義寛(長禄合戦で孝景が戦った斯波義敏の子)が、敏光を引き連れて越前奪還のために朝倉征伐を開始。
京から進発した義寛は越前北部の坂井郡の細呂宜・長崎・金津にて孝景と交戦。
1480年(文明12年)も戦闘が引き続き、長崎城、金津城、兵庫城、新庄城など朝倉方の城が落とされ、朝倉方は一時窮地に陥ることになる。
この坂井郡での戦いは斯波義寛が優勢であったものの、他の越前各所で行われた戦いでは朝倉方優勢で、一進一退の厳しい戦いが続くことになった。
そんな中、1481年(文明13年7月)に、孝景は死去。享年54。


《朝倉孝景墓所 英林塚》










天下一の極悪人




朝倉孝景について、天下一の極悪人、と記された記録がある。
これは孝景が公家領や寺社領の押領を頻繁に行ったため、公家や寺社にとって孝景は仇敵であったことに起因した。
公卿であった甘露寺親長の日記によると、孝景のことを「天下悪事始行の張本」と記している。
孝景の死に際し、甘露寺親長は天下一の極悪人である孝景が死んだことは、近年まれに見る良いことである、とまで書いているほどである。














朝倉孝景の人物像
戦国時代初期において、下克上を先駆けて行い、天下一の極悪人とまで評された孝景だったものの、朝倉の兵卒には非常に慕われたという。
後に朝倉家随一の名将となる八男・朝倉宗滴に劣らぬ軍略を持ち、一方で連歌や和歌にも親しみ、文化人としての素養もあったとされている。
また孝景個人の能力が優れていた一方で、彼を支えた朝倉経景、朝倉景冬、朝倉光玖といった弟達の存在も、孝景にとっての大きな力だった。
朝倉孝景によって一乗谷に築かれた朝倉氏の礎は、その後約100年に渡って一乗谷を繁栄させ、11代当主・朝倉義景の代まで続くことになる。
朝倉家歴代当主
第1代 朝倉広景 1255年~1352年
第2代 朝倉高景 1314年~1372年
第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
第6代 朝倉家景 1402年~1451年
第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
第11代 朝倉義景 1533年~1573年
朝倉孝景 関係年表
1428年 朝倉家景の嫡男として誕生。
1451年 父・家景死去。
1458年 長禄合戦が勃発。
1459年 足羽郡和田荘での合戦にて勝利。
甲斐常治死去。
1460年 今川範将による一揆鎮圧のため、遠江に出陣。
1467年 応仁の乱。西軍として参加。
御霊合戦に勝利。
上京の戦いに引き分ける。
相国寺の戦いに勝利。
1468年 伏見稲荷にて骨皮道賢を討ち取る。
1471年 東軍に寝返る。
1472年 坂井郡長崎庄での戦いに勝利。
1474年 甲斐敏光と和睦。
1479年 斯波義寛による朝倉征伐。
1481年 孝景死去。享年54。
朝倉孝景(朝倉敏景)画像
