信長の野望:武将能力列伝

朝倉孝景【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

朝倉孝景能力【信長の野望大志】

 朝倉孝景とは戦国時代の越前国における戦国大名。越前朝倉氏第10代当主です。
 越前支配が安定したことで、その本拠である一乗谷に繁栄をもたらした優れた文治政治家として知られていました。
 また朝倉氏最後の当主となる、朝倉義景の父親に当たる人物でもあります。

 今回はそんな朝倉孝景を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

朝倉孝景(あさくら たかかげ)
三盛木瓜
生年 1493年(明応2年11月22日)
没年 1548年(天文17年3月22日)
別名 孫次郎
家紋 三盛木瓜(みつもりもっこう)
父:朝倉貞景
母:斎藤利国の娘
兄弟 孝景 景高 景郡 景紀 道郷 景延 大成明玉 朝倉景職室(北殿) 南陽尼寺良玉侍者 土岐頼武室 鞍谷氏室
光徳院(武田元信の娘)
義景


信長の野望での朝倉孝景

信長の野望・大志での能力値

朝倉孝景能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
朝倉孝景(あさくら たかかげ)
統率 79
武勇 66
知略 77
内政 91
外政 92


 戦国朝倉氏五代のうち、初代朝倉敏景、二代目氏景、三代目貞景、そして四代目孝景と、その全てが優秀であったといわれています。
 最後の五代義景は……ゲフンッ

 『信長の野望』では五人の当主のうち、辛うじて孝景が登場するシナリオがあるおかげで、日の目をみることができています。

 その能力は前評判通りの非常に優れたもので、特に内政面に優れているのが能力値からも窺えますね。

 内政、外政は何と90越え。

 武勇がやや低いものの、それでも並みいる家臣団の中では決して劣った能力とはいえません。

 統率、知略も80台に迫ろうという数値なので、戦場での活躍も可能です。

 そしてこの能力値、まさに朝倉家の重臣である朝倉宗滴と、お互いに補完しあうような能力なので、宗滴には外征を頑張ってもらいつつ、孝景には領国をしっかり潤わせるという、まるで史実のような関係が完全再現可能ですね。

 ともあれ孝景、宗滴が揃っている頃の朝倉家は強いので、義景の代の頃に比べれば、やり易いかもしれません。

 とはいえもたもたしていると天に召されてしまうので、早急な外征計画が必要ではありますが。

 そんな朝倉孝景ではありますが、果たしてその評価はどうなのか。
 孝景の人生からそれを紐解いていきましょう。

朝倉孝景とは

 この「孝景」という名前は、曽祖父である英林孝景(朝倉敏景)と同じ名前ですが、これは偶然というわけではなく、曽祖父にあやかって同じ名前をつけたとされています。

 ややこしいので、曽祖父である「朝倉孝景」は、別の名乗りである朝倉敏景とか、法名である英林孝景とか、七代目孝景とか、戦国初代孝景とか、色々区別して呼ばれているようです。

 ちなみに当ブログでは「朝倉敏景」で統一してしています。

 朝倉敏景は孝景にとって偉大なご先祖様ではありましたが、その名を貰った孝景も決して名前負けするような人物ではなく、優秀といって差支えの無い朝倉氏の当主の一人でした。
 特に文治政治家として優れていたといわれています。

朝倉軍の派遣

 1493年(明応2年)、朝倉貞景の嫡男として誕生しました。

 1512年(永正9年)に父・貞景が死去し、家督を継承。

 祖父の氏景に続き、父親の貞景も長生きできたとは言い難い年齢で亡くなっており、こういう状態での家督継承は不安定になりがちなものなのですが、この頃は朝倉氏の支配体制がしっかり出来上がっていたこともあって、問題無く受け継がれていきます。

 また一門の重鎮であった朝倉宗滴の存在あり、朝倉家の体制は盤石でした。

 1517年には幕命により、その朝倉宗滴を軍奉行として若狭・丹後に出兵し、若狭守護であった武田氏を助けて、若狭の逸見氏と丹後守護代の反乱を鎮圧。

 また1518年(永正15年)に美濃国において、斉藤氏と長井氏の間で紛争が起き、守護であった土岐頼武が土岐頼芸に敗北すると、斉藤利良は頼武と共に越前に亡命することになります。

 これを受けて、孝景は翌1519年(永正16年)に、実弟である朝倉景高を大将にして美濃国へと出兵。

 朝倉軍は正木合戦及び池戸合戦に勝利し、亡命してきていた利良と頼武を美濃に復帰させることに成功しています。

 また隣国近江においては、六角氏と浅井氏の争いが起こっており、孝景は朝倉宗滴を派遣して小谷城の浅井亮政を牽制し、これを調停。

 亮政はこの時に朝倉氏と同盟を結び、これは両家が滅亡するまで続くことになるのです。

 さらには1527年(大永7年)、京を追われていた室町幕府将軍・足利義晴の求めに応じる形で、朝倉宗滴と朝倉景紀に兵を率いさせ、洛中へと侵攻。

 この時洛中を支配していた三好元長らと合戦におよび、これに勝利して洛中の支配権を奪取するなど、戦功を挙げました。

 1531年(享禄4年)には享禄の錯乱が起こり、朝倉宗滴を派遣して加賀一向一揆と戦い、手取川付近まで侵攻するなど戦果を上げますが、翌1532年(天文元年)には一向一揆と和議を成立させています。

 当時平和であった越前国とは対照的に、周辺国は混乱しており、孝景は加賀や美濃、近江や若狭の隣国にたびたび出兵することになったようです。

 それらで功を挙げたことは朝倉氏の家格を向上させ、また軍事的な優位性や政治的な影響力をみせつけていくことになりました。

 特に幕府からの要請で軍を派遣したことで、幕府や朝廷との繋がりを深くし、本拠であった一乗谷に京風の文化を花開かせることになったといわれています。

 しかしこれらの朝倉軍の派遣において、当主であった孝景自ら出陣したことは無く、全て名代が総大将として出陣するといった制度が確立しており、このことが次代である朝倉義景の統治の際にも影響を及ぼすことになっていくのです。

朝倉景高との対立

 さて他国に比べ越前国は順風満帆、といった感じではあったのですが、全く問題が無いかといえば、そうでもありませんでした。

 この時代の宿命というべきか、一族による内紛のようなものは、孝景の代でも例外ではなくあったのです。

 孝景の実弟である朝倉景高は、1527年(大永7年)に大野郡司に任命されていましたが、1530年代後半くらいから孝景と不和になったとされ、大野郡司を罷免されることになります。

 景高は1540年(天文9年)に上洛すると、幕府要人や公家の人脈を頼って反孝景の活動を行うものの、失敗。

 孝景は朝廷に五十貫門を贈り、景高追放を幕府に願い出て、それが受けられて景高は京を追放となりました。

 その後も景高は反孝景の運動を画策していたのですが、結局うまくいかずに西国へ逃れることになったようです。

 この兄弟の争いは、孝景の勝利で終わったかに見えたのですが……高景には子供がおり、越前国に残留したことが、ある意味において将来への禍根となってしまいます。

 それこそが朝倉景鏡。

 のちに孝景の子である朝倉義景を裏切って、自害に追い込み、朝倉家を滅亡させた人物です。

 うまり親の因縁が子の代まで続いていた、ということですね。
 もちろんそれが原因で、最後の最後で景鏡が裏切ったのかどうかは分かりません。

 ただ、それでも因縁は感じずにはおれないでしょう。

 ともあれ、この時の孝景は子の代でそんなことになるなど、夢にも思わなかったのか、それとも予感はあったのか。

 こればかりは孝景のみぞ知る、といったところでしょう。

加納口の戦い

 1544年(天文13年)、孝景は土岐頼武の嫡男である土岐頼純を美濃守護とするため、尾張の織田信秀と組んで美濃の斉藤道三を攻めます。

 これは織田方の大敗で終わり、織田家は信秀の嫡男・信長と、道三の娘との縁組を成立させることで和睦。

 これにより織田信長が台頭していくことになり、一方の朝倉家はその信長によって存亡の危機に晒されることになっていきます。

 そして1548年(天文17年)に、孝景死去。享年55。

 この頃には朝倉家の宿敵となる織田家と織田信長の名前も出てきてしまうのですが、あとは子の代である朝倉義景に託されることになったのです。

朝倉孝景の評価

 周辺国が混乱するのを余所に、孝景の代において越前国では比較的平穏な時代が続き、荒れた京から文化人なども流入したため、一乗谷はその繁栄を極めることになりました。

 これは孝景が文治政治家として、優秀であったことを示しています。

 一方で貴族的な文化に溺れていったわけではなく、朝倉家中においては軍略や剣術の研究も盛んであり、富田勢源や富田景政、川崎時盛、そして「名人越後」と呼ばれた富田重政、また鐘捲自斎、佐々木小次郎といった名のある剣豪を輩出していきました。

 そのため孝景は「文道を左に、武道を右にした風流太守」と称されるなど、文武共に賞賛されていたといわれています。

 ただし、孝景自身の武将としての力量は分かっていません。

 この時の朝倉家には名将・朝倉宗滴がおり、彼を初めとする一門の者が名代として戦場に出ていたため、またそのような制度になっていたため、当主自らの出陣というものが無かったからです。

 周辺各国にたびたび出兵したものの、それらは幕府からの要請に応えてというものが大半であり、領土拡大のための戦はほとんど無く、そういった野心も孝景自身には無かったのかもしれません。

 朝倉孝景は政治家としてはとても優秀だった半面、軍事的能力に関しては出陣の記録が無いこともあって、その能力は未知数です。
 しかしこの頃には朝倉宗滴がいたこともあり、ちょうど棲み分けができて、非常にうまくいっていたのかもしれません。

 家臣の方が軍権が強いというのはある意味で問題ですが、宗滴は実質的な当主だったようなものでもあり、互いに分を弁えていたこともあって、問題は無かったのでしょう。

 しかし、時代は変わります。
 孝景の代まではそれで良かったのかもしれません。だが二人ともが死去した後は、残された義景が全てを背負うことになってしまいました。

 そして名門朝倉家は、織田信長という強敵を迎え、滅亡へと突き進んでいくことになるのです。

朝倉家歴代当主

 第1代 朝倉広景 1255年~1352年
 第2代 朝倉高景 1314年~1372年
 第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
 第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
 第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
 第6代 朝倉家景 1402年~1451年
 第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
 第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
 第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
 第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
 第11代 朝倉義景 1533年~1573年

朝倉孝景 関係年表

 1493年 朝倉貞景の嫡男として誕生。
 1512年 父・貞景死去。家督を継ぐ。
 1516年 将軍・足利義稙より、白傘袋および毛氈鞍覆を免ぜらる。
 1517年 朝倉宗滴を若狭・丹後に出陣させる。
     若狭逸見氏と丹後守護代延永氏の反乱を鎮圧。
 1518年 斎藤利良と土岐頼武が越前に亡命。
 1519年 朝倉景高を美濃に侵攻させる。
     正木合戦に勝利。
     池戸合戦に勝利。
 1525年 宗滴を近江小谷城に出陣させる。
 1527年 宗滴・朝倉景紀を京に進軍。
 1528年 将軍・足利義晴の御供衆に加えられる。
 1531年 享禄の錯乱。
 1532年 六角氏との間に密約。
     加賀一向一揆と和議。
 1533年 嫡男・義景誕生。
 1535年 塗輿御免。
 1536年 景高、大野郡穴間城を攻略。
 1538年 幕府相伴衆に列する。
 1540年 景高上洛。反孝景を画策。
     孝景の願い出により、景高、京を追放。
 1543年 景高、西国へ逃亡。
 1544年 加納口の戦いに敗北。
 1548年 孝景死去。享年55。