明智光継【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
明智光継とは戦国時代の武将。
明智頼尚の子。美濃国長山城主。
斎藤道三の正室である小見の方の父親です。
今回はそんな明智光継を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での明智光継
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 69 |
武勇 | 62 |
知略 | 71 |
内政 | 55 |
外政 | 63 |
能力はあと一歩で良将になれる、といったところでしょうか。
それなりにバランスのとれた能力であり、「大志」では能力も成長する上に、忠誠度次第では最低でも5は能力が上がりますので、すぐにもあらゆる場面で活躍ができるでしょう。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
76 | 61 | 69 | 62 |
新生での明智光継は、知略こそ60台に落ちたものの、代わりに統率が76とそこそこ上昇。
50台の能力も無くなり、さらに良将、といったバランスのとれた能力になっています。
しかし没年が相当早いので、普通のシナリオでは登場しないところが残念なところです。
来歴
明智光継は、応仁2年5月20日(1468年6月19日)の生まれとされています。
父親は明智頼尚で、母親は揖斐基春娘。
ちょうど応仁の乱の頃であり、室町時代、もしくは戦国時代初期の人物です。
長山城主として東美濃の明智荘を治めていたとされ、明智氏の名前が歴史の表に出てくるのは、光継の頃からだとされています。
この頃は美濃守護であった土岐氏の勢力が衰えつつあり、代わって斎藤道三が台頭していました。
光継はこの時道三方に属し、当時まだ幼かった娘である小見の方を、人質として差し出していました。
この小見の方はのちに道三の正室となり、織田信長の正室となる帰蝶(濃姫)を産むことになります。
大永5年(1525年)入道して一関斎宗善と号しました。
そして天文7年3月5日(1538年4月14日)頃に死去したと考えられています。
子のうち、明智光綱は明智光秀の父親の一人であると考えられている人物で、それが正しいのならば、光継は光秀の祖父に当たることになるわけですね。