明智光秀とは戦国時代の武将。織田家重臣。
本能寺の変において主君・織田信長を討つも、中国大返しにより羽柴秀吉と戦い、山崎の戦いにおいて敗北。逃亡の最中、落ち武者狩りに遭って殺害されたとも、自害しともいわれている。
このことが本能寺の変より僅か13日後のことであったため、三日天下といわれる由来となった。
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生年 | 不詳 |
没年 | 1582年(天正10年6月13日) |
改名 | 彦太郎(幼名)⇒明智光秀⇒惟任光秀 |
主君 | 斎藤道三⇒朝倉義景⇒足利義昭⇒織田信長 |
氏族 | 明智氏 |
家紋 | 桔梗(ききょう) |
親 | 父:明智光綱 母:お牧の方 養父:明智光安 |
兄弟 | 光秀 信教 進士貞連(作左衛門) 康秀 定明 定衡 |
妻 | 正室:煕子(妻木範煕女) |
子 | 光慶、珠(細川忠興正室) 自然 |
明智光秀とは






















前半生
生年
明智光秀は清和源氏である土岐氏支流の明智氏に生まれた。
父親は明智光綱といわれているが、諸説ある。
生年も不明。
1528年(享禄元年)もしくは1516年(永正13年)の二つの説があるが、どちらも信頼性も高い史料からのものではないため、はっきりとは判明していない。












生地は明智城といわれており、少なくとも美濃国で生まれたことは事実ではないか、とされている。
青年期の動向
青年期の光秀の動向も不明な点が多い。
当時の美濃国では、美濃守護であった土岐氏に代わり、斎藤道三が美濃の国主となっており、これに仕えていたとされる。
ところが1556年(弘治2年)、道三とその子である斎藤義龍との間で争いが起き、いわゆる長良川の戦いが勃発。
この時、明智氏は道三方についており、道三が敗れたことで光秀の後見人を務めていた明智光安が城主であった明智城も義龍に攻められて陥落し、一族は離散したという。
この事件に光秀も美濃を逃れ、越前へと至り、朝倉義景に仕官して10年を仕えたともいわれている。








永禄の変
1565年(永禄8年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺されるという事件が発生。
その弟であった足利義昭は逃亡しつつ、諸国の武将に対して上洛と自身の将軍擁立を要請し始めることになる。




義昭の期待する上洛要請に対して、しかし義景は動かない。
この頃、光秀は義昭に対して信長を薦めたという。












織田家臣へ
本圀寺の変
朝倉家を辞した光秀は、その後義昭と信長の両属の家臣となった。
1568年(永禄11年)には義昭の上洛に同行。
1569年(永禄12年)に勃発した本圀寺の変において、義昭の宿所を襲撃した三好三人衆らに対し、光秀が防戦したことが『信長公記』に記されている。


以後、光秀は木下秀吉や、丹羽長秀、中川重政らと共に京周辺に政務に当たり、事実上の京奉行を担うことになったという。
越前侵攻・志賀の陣
1570年(元亀元年4月28日)には、越前侵攻による金ヶ崎の戦いが発生。
この時は浅井長政の裏切りにより信長は窮地に陥るが、その際に池田勝正を中心に、秀吉と共に殿を務めて退却に成功している。
同年4月30日には若狭へと入り、武藤友益から人質を取って城館を破壊した上で5月6日に帰京。
この頃に所領として山城国久世荘を与えられている。
また同年9月には志賀の陣にも参加したが、兵力は300程度と少なく、宇佐山城を任されて近江国滋賀郡とその周囲に土豪に対し、懐柔を担当していたという。
1571年(元亀2年)には石山本願寺が挙兵。
光秀は信長や義昭に従軍し、摂津国へと出陣。
また同年の9月12日の比叡山焼き討ちにおいては中心的役割をこなし、功を上げ、近江国の志賀郡5万石を与えられて坂本城の築城にとりかかったという。








足利義昭の挙兵
1573年(元亀4年2月)、義昭が信長に対して挙兵。
光秀は石山城や今堅田城の戦いにおいて、義昭と袂を別って信長の直臣として参戦することになる。


その後7月、義昭は槇島城にて再挙兵に及び、光秀もこれの討伐のために従軍した。
この戦いで義昭は降伏し、その後追放されたことで室町幕府は事実上滅亡することになる。
この時、元幕臣だった者の中で、光秀に仕えることになったものは多かったという。
同年に、坂本城が完成。
光秀はこれを居城とすることになる。
さらにこの年には朝倉家が滅亡。
一時的に羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当した。
















1575年(天正3年7月)には惟任の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守を名乗った。


丹波・畿内方面軍
光秀は1575年(天正3年)に勃発した高屋城の戦いや長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加。
そして丹波国攻略を任されることになる。




この頃の丹波の国人衆は義昭派であり、以前は信長に従っていたものの義昭が信長によって追放されたことにより、敵となっていた。
光秀は赤井氏の籠る黒井城を包囲。
この時、丹波の国人であった八上城主・波多野秀治は光秀に従っていたもののこれを裏切り、光秀は不意を突かれて大敗している。




1576年(天正4年)、石山本願寺との間で天王寺の戦いが発生。
光秀もこれに参陣していたが、司令官の塙直政が戦死するなど苦境にたたされ、光秀も天王寺砦にて孤立。
危ういところを信長の救援により九死に一生を得ている。








これにより光秀はしばらく療養することになる。
一方で同年11月7日には、正室であった煕子が坂本城にて病死している。


1577年(天正6年)、雑賀攻めに従軍。
同年10月には信貴山城の戦いに参加してこれを落とす。
同月中に丹波攻めを再開。しかしこれは難敵で長期戦になる。
光秀は丹波亀山に城を築き、これを拠点として八上城包囲を行いつつ、各地への転戦を繰り返しながらこれを往復したという。




1578年(天正6年)、この頃羽柴秀吉は毛利攻めを行っていたが、その援軍として播磨国へと光秀は派遣されている。
同年6月には神吉城攻めに参加。
同年10月には信長に対して謀反した荒木村重を攻めるために、有岡城の戦いにも参加している。


1579年(天正7年2月)、包囲していた八上城がついに落城。
同年8月には黒井城も落とし、丹波国平定を果たした。
そのすぐ後には細川藤孝と協力して丹後国も平定している。








丹波一国拝領と同時に、丹後の細川藤孝や大和の筒井順慶など近畿地方の大名が、光秀の寄騎として配属。
これにより近江から山陰に向けた畿内方面軍が成立した。










1581年(天正9年8月)、御ツマキとされる光秀の実妹、もしくは義妹が死去し、光秀は大いに力を落としたと『多聞院日記』にはある。
そして1582年(天正10年3月5日)、武田氏を滅ぼすべく甲州征伐が開始され、光秀も従軍した。








本能寺の変

『本能寺焼討之図』
1582年(天正10年5月)、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられることになり、6月2日早朝に出陣した。
その途上の亀山城内か柴野付近の陣において、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれている。




兵卒に対しては真意を告げず、信長が明智軍の陣容などを検分したいため、とだけ告げて、京に向かったという。




光秀は信長が宿泊していた京の本能寺を急襲。
この時の明智光秀勢は13,000。
織田信長勢は100足らず。
信長は奮戦したものの衆寡敵せず、寺に火を放って自害したという。
光秀はその後、二条城にいた信長の嫡男・信忠や従兄弟の斎藤利治、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちを共に討ち取っている。
また信長の弟であった織田信行の遺児・津田信澄は光秀の娘と結婚していたこともあって謀反加担の疑いをかけられ、神戸(織田)信孝に討ち取られている。
山崎の戦い


本能寺の変後、光秀は即座に京を押さえ、信長・信忠父子の残党追捕を行っている。
また信長の居城であった安土城と近江を押さえようとしたが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日を必要とすることになってしまった。
ともあれまずは自身の居城であった坂本城に入り、6月4日までには近江をほぼ平定。
6月5日には安土城に入って金銀財宝及び名物を強奪し、家臣や味方に与えている。
6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。
一方で光秀と婚姻関係があり、頼りにしていた丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示した上で、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠を幽閉して光秀の誘いを拒絶している。










本能寺の変を知った羽柴秀吉は、急遽毛利氏と和睦して中国地方より引き返し、これに対して光秀は6月13日、天王山の麓の山崎にて迎え撃つことになる。
この時、羽柴勢27,000。
明智勢17,000であったという。








ともあれ山崎の戦いは光秀の敗北に終わった。
同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる最中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺され、深手を負った光秀は自害。股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという。




安土城を守っていた明智秀満は敗戦を知り、坂本城へと帰還。
籠城戦の無理を悟り、妻子を殺して火を放ち、自害したという。
辞世の句
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
(順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)
「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」
南光坊天海






・日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あることから。
・日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承があることから。
・童謡『かごめかごめ』の歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説から。


明智光秀画像
