明智光秀 ~時は今、敵は本能寺にあり

明智光秀 ~時は今、敵は本能寺にあり

 明智光秀とは戦国時代の武将。織田家重臣。
 本能寺の変において主君・織田信長を討つも、中国大返しにより羽柴秀吉と戦い、山崎の戦いにおいて敗北。逃亡の最中、落ち武者狩りに遭って殺害されたとも、自害しともいわれている。
 このことが本能寺の変より僅か13日後のことであったため、三日天下といわれる由来となった。

明智光秀(あけち みつひで)
桔梗紋
生年不詳
没年1582年(天正10年6月13日)
改名彦太郎(幼名)⇒明智光秀⇒惟任光秀
主君斎藤道三朝倉義景⇒足利義昭⇒織田信長
氏族明智氏
家紋桔梗(ききょう)
父:明智光綱
母:お牧の方
養父:明智光安
兄弟光秀 信教 進士貞連(作左衛門) 康秀 定明 定衡
正室:煕子(妻木範煕女)
光慶、珠(細川忠興正室) 自然

明智光秀とは

由羅
由羅
戦国時代でもとっても有名な、稀代の謀反人・明智光秀!
この時代では謀反は当然のようにあったから、稀ってほどでもないけれど、有名な謀反であったことには違いないかな
イリス
イリス
由羅
由羅
何と言ってもあの織田信長を本能寺でやっつけた人物だものね!
やっつけた、というのはまるで信長が悪人みたいに聞こえるけれど
イリス
イリス
由羅
由羅
え? 光秀って信長にいじめられてそれで謀反したんじゃないの?
本能寺の変については諸説あって、結局のところ原因不明なの
イリス
イリス
由羅
由羅
つまり、どうして謀反したか分からないってこと?
可能性だけをみればあまりに多すぎて、逆に分からないって感じかな
イリス
イリス
由羅
由羅
謀反の原因がなくて、じゃなくて、思い当たり過ぎて、といのもねえ……
思い当たるといっても眉唾も多いし、現在では否定されていることも多いし、それだけ研究されてきたってことでもあるよ
イリス
イリス
由羅
由羅
今回はそんな明智光秀についての解説だね

前半生

生年

 明智光秀は清和源氏である土岐氏支流の明智氏に生まれた。
 父親は明智光綱といわれているが、諸説ある。

 生年も不明。
 1528年(享禄元年)もしくは1516年(永正13年)の二つの説があるが、どちらも信頼性も高い史料からのものではないため、はっきりとは判明していない。

由羅
由羅
光秀ってこれだけ有名人なのに、生まれた頃のことは全然分かっていないんだね
生まれどころか前半生すらわかっていないの。父親についても明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説あって、何がなんだかって感じだよ。もしくは父親の名前さえ伝わらないような、身分の低い支流の出だった可能性も考えられているほどだから
イリス
イリス
由羅
由羅
誕生日も分かっていないんでしょ?
うん。『明智軍記』によれば1528年生まれで、『当代記』によれば1516年生まれになっているし、更に『兼見卿記』の記述から推測すると、もっともっと遅い生まれの1540年以降じゃないかって話もあるくらいだから
イリス
イリス
由羅
由羅
何がなんだか、だね。つまり結論はわからない、と
そういうこと
イリス
イリス
 生地は明智城といわれており、少なくとも美濃国で生まれたことは事実ではないか、とされている。

青年期の動向

 青年期の光秀の動向も不明な点が多い。
 当時の美濃国では、美濃守護であった土岐氏に代わり、斎藤道三が美濃の国主となっており、これに仕えていたとされる。

 ところが1556年(弘治2年)、道三とその子である斎藤義龍との間で争いが起き、いわゆる長良川の戦いが勃発。
 この時、明智氏は道三方についており、道三が敗れたことで光秀の後見人を務めていた明智光安が城主であった明智城も義龍に攻められて陥落し、一族は離散したという。

 この事件に光秀も美濃を逃れ、越前へと至り、朝倉義景に仕官して10年を仕えたともいわれている。

由羅
由羅
朝倉家に10年も仕えていた割には、何していたかさっぱりなんだよね
仕えていたといっても身分は低かっただろうし、重用されていた形跡もないから史料には残らなかったのかもしれない。ただ一般的にはこの期間の光秀は越前にいたとされているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
そんな光秀の名前が歴史に登場するきっかけになった大事件が、あれだね
そう。永禄の変だよ
イリス
イリス

永禄の変

 1565年(永禄8年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺されるという事件が発生。
 その弟であった足利義昭は逃亡しつつ、諸国の武将に対して上洛と自身の将軍擁立を要請し始めることになる。

義昭は当初、織田信長に目をつけて信長もこれを了承したんだけどうまくいかず、いったん見切りをつけて越前の朝倉義景を頼ることになったの
イリス
イリス
由羅
由羅
そしてそこには光秀がいた、というわけだね
 義昭の期待する上洛要請に対して、しかし義景は動かない。
 この頃、光秀は義昭に対して信長を薦めたという。
由羅
由羅
どうして光秀は信長を薦めたのかな?
義景が動かなかったから、というのもあるだろうけど、光秀と信長って実は縁があったともいわれているの
イリス
イリス
由羅
由羅
縁? どんな?
信長の正室が斎藤道三の娘である濃姫であることは有名だけど、この濃姫と光秀が従兄妹だった可能性があるからなんだよ。光秀の叔母は道三の夫人だったからとされているからなんだけど
イリス
イリス
由羅
由羅
従兄妹かあ。なるほどだね
まあ仮に従兄妹ではなかったとしても、何かしらの血縁関係があったのだろうとは推測されているよ
イリス
イリス

織田家臣へ

本圀寺の変

 朝倉家を辞した光秀は、その後義昭と信長の両属の家臣となった。
 1568年(永禄11年)には義昭の上洛に同行。
 1569年(永禄12年)に勃発した本圀寺の変において、義昭の宿所を襲撃した三好三人衆らに対し、光秀が防戦したことが『信長公記』に記されている。

ちなみにこの記述が、『信長公記』における光秀の初登場になるんだよ
イリス
イリス
 以後、光秀は木下秀吉や、丹羽長秀、中川重政らと共に京周辺に政務に当たり、事実上の京奉行を担うことになったという。

越前侵攻・志賀の陣

 1570年(元亀元年4月28日)には、越前侵攻による金ヶ崎の戦いが発生。
 この時は浅井長政の裏切りにより信長は窮地に陥るが、その際に池田勝正を中心に、秀吉と共に殿を務めて退却に成功している。

 同年4月30日には若狭へと入り、武藤友益から人質を取って城館を破壊した上で5月6日に帰京。
 この頃に所領として山城国久世荘を与えられている。

 また同年9月には志賀の陣にも参加したが、兵力は300程度と少なく、宇佐山城を任されて近江国滋賀郡とその周囲に土豪に対し、懐柔を担当していたという。

 1571年(元亀2年)には石山本願寺が挙兵。
 光秀は信長や義昭に従軍し、摂津国へと出陣。
 また同年の9月12日の比叡山焼き討ちにおいては中心的役割をこなし、功を上げ、近江国の志賀郡5万石を与えられて坂本城の築城にとりかかったという。

志賀の陣のあたりではまだ幕臣、という位置づけだった光秀だけど、志賀群を与えられたあたりから織田家臣に編入されたと考えられていいるよ。そして12月頃に義昭に対して暇乞いをしているの
イリス
イリス
由羅
由羅
この辺で義昭を見限ったわけだね?
この時点では不許可になったそうだけどね
イリス
イリス
由羅
由羅
つまり、まだ微妙な両属だった、というわけなんだ

足利義昭の挙兵

 1573年(元亀4年2月)、義昭が信長に対して挙兵。
 光秀は石山城や今堅田城の戦いにおいて、義昭と袂を別って信長の直臣として参戦することになる。

この頃の信長はまだ義昭のことを重視していて講和しようとするんだけど、成立寸前で松永久秀の妨害で破談になっているから
イリス
イリス
 その後7月、義昭は槇島城にて再挙兵に及び、光秀もこれの討伐のために従軍した。
 この戦いで義昭は降伏し、その後追放されたことで室町幕府は事実上滅亡することになる。
 この時、元幕臣だった者の中で、光秀に仕えることになったものは多かったという。

 同年に、坂本城が完成。
 光秀はこれを居城とすることになる。

 さらにこの年には朝倉家が滅亡。
 一時的に羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当した。

由羅
由羅
ふと思ったんだけど
なにを?
イリス
イリス
由羅
由羅
これまで光秀が仕えた主君って、必ず滅亡しているよね
……そうだね。斎藤道三も斎藤義龍の謀反にあって討死しているし、足利義昭は生きながらえたものの室町幕府は滅亡。朝倉義景も信長に追い詰められて、一門の朝倉景鏡に裏切られて自刃……そして朝倉家は滅亡
イリス
イリス
由羅
由羅
そして最後の最期には……本能寺の変だし
うん
イリス
イリス
由羅
由羅
何だか光秀のことが、死神だか疫病神にみえてきて
たまたまだろうけど、家紋の桔梗紋と相俟って不吉だね
イリス
イリス
 1575年(天正3年7月)には惟任の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守を名乗った。
由羅
由羅
これは有名だね。よく聞くもの

丹波・畿内方面軍

 光秀は1575年(天正3年)に勃発した高屋城の戦いや長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加。
 そして丹波国攻略を任されることになる。
 

由羅
由羅
丹波国?
現在の京都府中部や兵庫県北東部、大阪府北部を含む地域のことだよ。山だらけでその隙間に国人が割拠しているような土地柄で、とても治めにくい地域だったの
イリス
イリス
 この頃の丹波の国人衆は義昭派であり、以前は信長に従っていたものの義昭が信長によって追放されたことにより、敵となっていた。

 光秀は赤井氏の籠る黒井城を包囲。
 この時、丹波の国人であった八上城主・波多野秀治は光秀に従っていたもののこれを裏切り、光秀は不意を突かれて大敗している。

由羅
由羅
戦上手っていわれている光秀だけど、負けてるんだね
地の利が向こうにあったとはいえ、丹波の国人たちも粘り強く戦ったから。これから光秀は波多野氏を相手に苦戦することになるの
イリス
イリス
 1576年(天正4年)、石山本願寺との間で天王寺の戦いが発生。
 光秀もこれに参陣していたが、司令官の塙直政が戦死するなど苦境にたたされ、光秀も天王寺砦にて孤立。
 危ういところを信長の救援により九死に一生を得ている。
このあと光秀は倒れてしまうの
イリス
イリス
由羅
由羅
え? なんで?
過労だよ
イリス
イリス
由羅
由羅
うわー……。まあ働きずくめだものね。現代のサラリーマンみたい
 これにより光秀はしばらく療養することになる。
 一方で同年11月7日には、正室であった煕子が坂本城にて病死している。
過労で倒れようが、身内に不幸があろうが、この先も光秀は働き続けるから
イリス
イリス
 1577年(天正6年)、雑賀攻めに従軍。
 同年10月には信貴山城の戦いに参加してこれを落とす。
 同月中に丹波攻めを再開。しかしこれは難敵で長期戦になる。
 光秀は丹波亀山に城を築き、これを拠点として八上城包囲を行いつつ、各地への転戦を繰り返しながらこれを往復したという。
由羅
由羅
働きすぎだよね……
まだまだ。次は西だよ
イリス
イリス
 1578年(天正6年)、この頃羽柴秀吉は毛利攻めを行っていたが、その援軍として播磨国へと光秀は派遣されている。
 同年6月には神吉城攻めに参加。
 同年10月には信長に対して謀反した荒木村重を攻めるために、有岡城の戦いにも参加している。
こんな感じで転戦に次ぐ転戦だったんだけど、ようやく丹波方面で結果が出ることになるの
イリス
イリス
 1579年(天正7年2月)、包囲していた八上城がついに落城。
 同年8月には黒井城も落とし、丹波国平定を果たした。

 そのすぐ後には細川藤孝と協力して丹後国も平定している。

この功に対して信長は感状を出して褒めたといわれていて、これまでの志賀郡5万石に加えて丹波一国29万石を加増するという褒美を与えているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
ついに国持ちだね
光秀の働きを信長も絶賛したようで、佐久間信盛の接感状の中でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」としているくらいだから
イリス
イリス
由羅
由羅
それだけ丹波攻略が難事だったってことだね
 丹波一国拝領と同時に、丹後の細川藤孝や大和の筒井順慶など近畿地方の大名が、光秀の寄騎として配属。
 これにより近江から山陰に向けた畿内方面軍が成立した。
これらを全部合わせると240万石くらいの所領になったから、大出世だったことは間違いないかな
イリス
イリス
由羅
由羅
まさに近畿管領っといった感じだね
光秀も感謝したようで、「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしてそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という感謝の文章を残しているくらいだから
イリス
イリス
由羅
由羅
うーん……。なのに何でかなって思うよね
人生の下り坂は突然やってくるものだから
イリス
イリス
 1581年(天正9年8月)、御ツマキとされる光秀の実妹、もしくは義妹が死去し、光秀は大いに力を落としたと『多聞院日記』にはある。

 そして1582年(天正10年3月5日)、武田氏を滅ぼすべく甲州征伐が開始され、光秀も従軍した。

もっとも甲州征伐は信長嫡男である織田信忠率いる軍勢が主力で、光秀はあくまで見届けるためだけのもので、4月21日には帰還しているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
世代交代も進んできたって感じだね
そして甲州征伐の後は……
イリス
イリス
由羅
由羅
本能寺の変だね

本能寺の変

本能寺焼討之図
『本能寺焼討之図』

 1582年(天正10年5月)、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられることになり、6月2日早朝に出陣した。

 その途上の亀山城内か柴野付近の陣において、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれている。

由羅
由羅
敵は本能寺にあり!
だね
イリス
イリス
 兵卒に対しては真意を告げず、信長が明智軍の陣容などを検分したいため、とだけ告げて、京に向かったという。
 
雑兵の類は信長討伐について最後まで何も知らされず、光秀配下の本城惣右衛門なども、信長の命で徳川家康を討つのだと思っていた、と『本城惣右衛門覚書』には記されているくらいだったから
イリス
イリス
由羅
由羅
まあ本当のことを話したら大騒ぎだものねえ
 光秀は信長が宿泊していた京の本能寺を急襲。
 この時の明智光秀勢は13,000。
 織田信長勢は100足らず。
 信長は奮戦したものの衆寡敵せず、寺に火を放って自害したという。

 光秀はその後、二条城にいた信長の嫡男・信忠や従兄弟の斎藤利治、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちを共に討ち取っている。

 また信長の弟であった織田信行の遺児・津田信澄は光秀の娘と結婚していたこともあって謀反加担の疑いをかけられ、神戸(織田)信孝に討ち取られている。

山崎の戦い

由羅
由羅
ここからが光秀にとっての運命の13日間というわけだね
 本能寺の変後、光秀は即座に京を押さえ、信長・信忠父子の残党追捕を行っている。
 また信長の居城であった安土城と近江を押さえようとしたが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日を必要とすることになってしまった。

 ともあれまずは自身の居城であった坂本城に入り、6月4日までには近江をほぼ平定。
 6月5日には安土城に入って金銀財宝及び名物を強奪し、家臣や味方に与えている。
 6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。

 一方で光秀と婚姻関係があり、頼りにしていた丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示した上で、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠を幽閉して光秀の誘いを拒絶している。

由羅
由羅
光秀の誤算その一、だね
筒井順慶も似たようなもので、当初は兵を出して光秀に協力する様子を見せていたんだけど、秀吉が帰還すると光秀を見限って秀吉についてしまうから
イリス
イリス
由羅
由羅
光秀の誤算その二、というか最大の誤算が羽柴秀吉の存在なんだよね
誤算というか、秀吉との対決自体は覚悟していたのだろうけど、あまりに戻ってくるのが早かったことが、誤算といえば誤算かな
イリス
イリス
由羅
由羅
中国大返し、だよね
 本能寺の変を知った羽柴秀吉は、急遽毛利氏と和睦して中国地方より引き返し、これに対して光秀は6月13日、天王山の麓の山崎にて迎え撃つことになる。

 この時、羽柴勢27,000。
 明智勢17,000であったという。

由羅
由羅
光秀は兵力ですでに負けていたんだね
さりとて秀吉有利、というわけでもなかったから。秀吉の軍勢が多かったのは、池田恒興や、中川清秀、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆らが味方した連合軍だったからだけど、当然にわかだから。合戦が長引けばどう転ぶかは分からなかった。それに戦場となった場所は狭くて、両軍3千程度しか軍を展開できなかったから、光秀が不利とばかりもいえなかったんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
なるほど……
それに主力となるはずの羽柴勢は大返しのせいで疲労の極み。はっきり言ってまともに戦える状況ではなくて、連合してくれた諸勢頼りだったんだから
イリス
イリス
 ともあれ山崎の戦いは光秀の敗北に終わった。
 同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる最中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺され、深手を負った光秀は自害。股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという。
 
もっとも光秀の首は百姓によって発見されて、織田信孝の手に渡っているの。そして本能寺で晒されたんだって
イリス
イリス
由羅
由羅
うーん……。まさに三日天下、だったわけだね
 安土城を守っていた明智秀満は敗戦を知り、坂本城へと帰還。
 籠城戦の無理を悟り、妻子を殺して火を放ち、自害したという。

辞世の句

「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
 (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)

「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」

南光坊天海

討死した武将にはよくある異説ではあるけれど、実は光秀は死なずに生き残り、南光坊天海になったともいわれているの
イリス
イリス
由羅
由羅
南光坊天海?
徳川家康に仕えたとされる僧のことだよ。経歴はけっこう不明。だからそんな俗説もたつんだね
イリス
イリス
・日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あることから。
・日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承があることから。
・童謡『かごめかごめ』の歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説から。
〽かごめかごめ はこのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめとすべった うしろのしょうめんだあれ?
イリス
イリス

明智光秀画像

明智光秀