明智光安【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

明智光安とは戦国時代の武将。明智光継の三男。
明智光秀の後見を務めたことで知られ、明智秀満の父親ではないかとされている人物です。
今回はそんな明智光安を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
![]() |
|
生年 | 1500年(明応9年) |
没年 | 1556年(弘治2年9月26日) |
改名 | 亀寿丸(幼名)⇒光安⇒宗寂(法名) |
主君 | 斎藤道三 |
氏族 | 明智氏 |
家紋 | 桔梗(ききょう) |
親 | 父:明智光継 母:武田信豊娘 |
兄弟 | 光綱 山岸光信 光安 光久 原光広 廉光 小見の方(斎藤道三継室) |
妻 | 正室:斎藤利胤娘 |
子 | 秀満 |
信長の野望での明智光安
信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 60 |
武勇 | 36 |
知略 | 66 |
内政 | 52 |
外政 | 59 |

能力は武勇が36と極端に低い以外は、50~60台と平凡です。
信長の野望・新生での能力値

統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
55 | 38 | 66 | 53 |
新生での光安の能力も、大志の時とさほど変わらず。
60台が一つなくなってしまったので、少し評価が下がったような印象も受けますね。
明智光安とは
戦国時代で明智という姓は有名ですが、明智光安という人物はマイナーです。
ですがその名前がら察することができますように、あの明智光秀の叔父ではないかとされている人物ですね。
にも関わらずあまり名前を聞かないのは、明智光秀ですら、前半生は不明なことだらけであり、その部分の間に存在したひとだから、余計に知られていないのも無理はありません。
それでも明智光秀が主人公である大河ドラマ『麒麟がくる』のおかげもあって、ついに日の目をみることができました。
有名な人物の身内はそれだけで得というやつですね!
それはともあれ、光秀の出自や前半生を知る上で、手掛かりになる人物の一人、であることには違いない存在なのです。
明智光綱の夭折と光秀
明智光安は明智光継の三男として、1500年(明応9年)に誕生しました。
美濃国明智城主であり、明智氏当主を父より継いだのは、兄である明智光綱であったのですが、光綱が若くして討死すると、その遺児であった光秀はまだ幼く、隠居していた父・光継によってその後見を命じられて、明智氏の実質的な当主となったそうです。
明智光綱についても不明なことが多く、1535年(天文4年8月5日)の斎藤道三による明智城攻めの際に討死したとされているのですが、やはり詳しいことは伝わっていません。
斎藤家家臣
その後、斎藤道三が美濃国を奪取し、その国主となると、光安は道三に接近。
妹であった小見の方をその継室に出すことに成功している。
この妹である小見の方と道三の間に生まれたのが、帰蝶や、孫四郎(龍元)、喜平次(龍之)、そして末子の斎藤利治(長龍)でした。
帰蝶っていうと、蝮の娘とも呼ばれ、織田信長の正室となった濃姫のことですね。
これが正しいのであれば、明智光秀と帰蝶って従兄妹の関係になることになります。
つまり信長にしてみれば光秀とは姻戚関係があったともいえ、これがのちに足利義昭を信長に接近させた要因の一つになったともいえるでしょう。
また斎藤利治などもその縁で、織田家では重用されています。
1553年(天文22年)には入道し、光安は宗寂と号しました。
美濃国騒乱
道三による国盗りの際に騒乱となった美濃国は、再び同じ騒乱に巻き込まれることになります。
1556年(弘治2年)、道三は長男であった斎藤義龍と対立を深め、異母弟であった孫四郎と喜平次を殺害するという事件が勃発。
両者の対立は決定的となり、斎藤父子が争う長良川の戦いが勃発。
この時光安は弟の光久や三宅氏、藤田氏、妻木城主の妻木氏ら諸将と共に道三方について明智城に籠城しました。
道三はその国盗りの経緯から、配下の信頼を集めることができず、集った兵は義龍に劣るものでしかなく、状況は圧倒的に不利だったのです。
しかし一門である妹を嫁がせている光安としては、当然道三方につくしかありません。また甥を二人も義龍に殺害されているわけだし、不利は承知でも味方になるという選択肢は無かったのでしょう。
長良川の戦いは道三の敗北となり、戦死。
道三方についていた明智城は義龍方の揖斐光就や長井道利に攻められ、防戦するも叶わず、光安は光久らと共に自害したとされています。
道三に接近したことが、のちに身を滅ぼすことになってしまったわけですね。何とも皮肉な結末となったわけです。
しかし明智城落城の際に、光安の子とされる明智秀満に光秀を託し、脱出させました。
そうやって、明智氏の物語はまだ続いていったのです。