明智秀満とは戦国時代の武将。織田家の重臣であった明智光秀の家臣。
明智光安の子ともされているが、定かではない。
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生年 | 1536年(天文5年)? |
没年 | 1582年(天正10年6月15日) |
改名 | 三宅弥平次⇒明智秀満 |
別名 | 光春 光遠 秀俊 光俊 光昌 通称:左馬助 |
主君 | 明智光秀 |
氏族 | 明智氏 |
家紋 | 桔梗(ききょう) |
親 | 父:明智光安? |
妻 | 正室:明智光秀娘 |
明智秀満とは
























概略
前半生
明智秀満の前半生について、正確に伝える史料は残っていない。
『明智軍記』やその他の俗書には伝わっているが、史実であるとは断定できない。
それを留意した上で『明智軍記』によると、秀満の父である光安は明智光秀の後見としてあったが、1556年(弘治2年)に起きた斎藤道三と斎藤義龍の争いにおいて、敗北した道三方についていたこともあって、義龍方に攻められることになる。
結果、光安は自害。
秀満は光秀と共に脱出し、浪人になったとされている。






後半生
1578年(天正6年)より後に、秀満は光秀の娘を正室に迎えている。






1581年(天正9年)、丹波福知山城代となっている。
本能寺の変

『本能寺焼討之図』
1582年(天正10年)、本能寺の変が勃発。
この時秀満は先鋒となり、京の本能寺を襲撃している。


『備前老人物語』によると、光秀は信長を討つことを迷い、秀満に相談している。
この時秀満は答えて曰く、
「信長様への恨みはあろうとも、気持ちを穏やかに持てば遺恨も消える。丹波や近江坂本を拝領したことは過分の取り立ててであるし、少しの恨みを捨てないで逆心を抱けば、天命尽きることは明白なれば、思いとどまるよう」
このように言って、諫めたという。
光秀はその言を容れ一旦落ち着いたかにみえたが、翌日になって同様に斎藤利三、溝尾茂朝、明智次郎左衛門、藤田行政らに問うたという。
全員が反対したため、再び秀満を呼び、やはりみんな反対するゆえ思いとどまることにしたと光秀は告げた。
それを聞いた秀満は顔色を変え、声を荒げて、
「自身一人の口ならばどうとでもなるが、四人に打ち明けたとなれば事が漏れる可能性が大きく、その軽率がいずれ信長の知るところとなれば禍となってしまう。明日を待っては一大事となる。今すぐに行動すべきである」
と言い、もはや実行すべきでしかないと告げたという。
これにより光秀は決起を決断し、本能寺の変が勃発したと伝えている。


山崎の戦い
本能寺の変後、秀満は安土城の守備につき、その後羽柴秀吉との決戦となった山崎の戦いにおいては、光秀の後詰として堀秀政と戦い敗北。坂本城へと入ったという。


堀勢に坂本城を囲まれた秀満は、自刃を覚悟するも、光秀所有の天下の名物や財宝を城と運命を共にさせることは忍びないと思い、それらをまとめて目録を添え、天守より敵勢にいる所に下ろし、つげたという。
「これらのものは私物化してはならない天下のものである。ここで滅ぼしてしまってはこの弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」
そう叫ぶと、直政と秀政が現れて目録を確認し、
「目録の通り、確かに相違なし。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がないのは如何いたしたのか」
と返せば秀満は答えて、
「それは信長公から光秀が拝領した道具である。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉義景の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと内々に秘蔵していたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」
その内容に秀政・直政は納得したという。
そして秀満はその脇差を差したまま光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺した上で城に火を放ち、自害したという。






光秀の死を知った秀満が坂本城に引き揚げようとしたが、大津の打出の浜で敵に遭遇。
窮地に陥るも、秀満は馬を琵琶湖に引き入れて泳がせ、湖水を渡った。敵は唖然とし、そうこうしているうちに坂本まで帰りついたという。

『明智左馬助の湖水渡り』


坂本城を敵に囲まれ、滅亡寸前となったその時、入江長兵衛という武士が一番乗りを果たそうとしていた。
秀満はこの入江長兵衛と知り合いであり、こう告げたという。
「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」
「何事か」
「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易い。しかし勇士の志に免じてそれはやめる。我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである。入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」








明智秀満画像
