信長の野望:武将能力列伝

明智秀満(明智左馬助)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

明智秀満能力【信長の野望大志】

 明智秀満とは戦国時代の武将。織田家の重臣であった明智光秀の家臣です。
 明智光安の子ともされていますが、定かではありません。

 今回はそんな明智秀満を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

明智秀満(あけち ひでみつ)
桔梗紋
生年 1536年(天文5年)?
没年 1582年(天正10年6月15日)
改名 三宅弥平次⇒明智秀満
別名 光春 光遠 秀俊 光俊 光昌
通称:左馬助
主君 明智光秀
氏族 明智氏
家紋 桔梗(ききょう)
明智光安
正室:明智光秀娘


信長の野望での明智秀満

信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志
明智秀満(あけち ひでみつ)
統率 74
武勇 77
知略 81
内政 47
外政 47


 軍事方面では優秀で、即戦力となってくれる能力です。
 統率、武勇、知略が高いと戦場で活躍できますから、まさに光秀の副将に相応しいですね。

 もちろん大将としても、問題なく働いてくれそうです。

 それらしい年代の足利家でプレイしていると、光秀とセットでもれなくついてきますので、足利将軍家にとっては貴重な戦力になってくれます。

 気質は仁義で野心は4。

 まず裏切る心配は無いでしょう。
 光秀も是非とも見習って欲しいものです。

明智秀満とは

明智秀満像明智秀満像

 明智秀満といえば、明智光秀の家臣の中では名が知られている人物です。
 通称の明智左馬助の名もよく伝わっています。

 ですが意外にも、秀満が何者であるかは分かっていないのです。

 まずはその出自。
 明智という姓を名乗ってはいるのですが、当初は三宅弥平次と名乗っていて、三宅氏が出自である可能性も指摘されています。

 ちなみに三宅氏とは光秀の家臣の中では何人か出て来る氏族で、明智氏と何かしら関連があるのかもしれないのですが、はっきりとは分かっていません。

 一方でよく言われているのが、光秀の叔父である明智光安の子、というものです。

 これは『明智軍記』による記述なのですが、しかしそもそも『明智軍記』は一般に史料的価値が低いとされていますので、あまり当てにはできません。

 また『恵那叢書』によると、明智光安は遠山景行と同一人物とし、その子である遠山景玄が実は明智秀満ではないか、という遠山氏説なんかもあるのですが、恐らく誤伝だろうというのがもっぱらの見解です。

概略

前半生

 明智秀満の前半生について、正確に伝える史料は残っていません。

 『明智軍記』やその他の俗書には伝わっているのですが、史実であるとは断定できていないのが現状です。

 それを留意した上で『明智軍記』によると、秀満の父である光安は明智光秀の後見としてあったのですが、1556年(弘治2年)に起きた斎藤道三斎藤義龍の争いにおいて、敗北した道三方についていたこともあって、義龍方に攻められることになってしまいます。

 結果、敗北して光安は自害。
 秀満は光秀と共に脱出し、浪人になったとされているのです。

 そしてここから先のことが、よくわかっていません。

 これは光秀も同様で、この後、越前の朝倉義景に10年間仕えたとされているのですが、詳しいことは不明であるのです。

 ずっと光秀に付き従っていたのであれば、秀満も越前にいた、ということになるのですが。

後半生

 1578年(天正6年)より後に、秀満は光秀の娘を正室に迎えています。

 この光秀の娘はもともと荒木村重の嫡男であった、荒木村次に嫁いでいたのですが、村重はのちに織田信長に対して謀反することになります。

 そのためその時に離縁され、送り返されてしまうです。

 その後、秀満に嫁ぐことになりました。

 そんな秀満が明智姓を名乗ったことを文章的に確認できるのは、1582年(天正10年4月)まで待たなければなりません。

 光秀による丹波平定後、秀満は1581年(天正9年)に、丹波福知山城代となっています。

本能寺の変

「本能寺焼討之図」楊斎延一画「本能寺焼討之図」楊斎延一画

 1582年(天正10年)、本能寺の変が勃発。

 この時秀満は先鋒となり、京の本能寺を襲撃しました。。

 この本能寺の変の前に、事を起こすべきかどうかを光秀が秀満に対して問うたといわれる逸話が残っています。

 『備前老人物語』によると、光秀は信長を討つことを迷い、秀満に相談したそうです。

 この時秀満は答えて曰く、

「信長様への恨みはあろうとも、気持ちを穏やかに持てば遺恨も消える。丹波や近江坂本を拝領したことは過分の取り立ててであるし、少しの恨みを捨てないで逆心を抱けば、天命尽きることは明白なれば、思いとどまるよう」

 このように言って、諫めたとされています。

 光秀はその言を容れ一旦落ち着いたかにみえたのですが、翌日になって同様に斎藤利三、溝尾茂朝、明智次郎左衛門、藤田行政らに問うたのでした。

 しかし全員が反対したため、再び秀満を呼び、やはりみんな反対するゆえ思いとどまることにしたと光秀は告げるのですが、それを聞いた秀満は顔色を変え、声を荒げて、

「自身一人の口ならばどうとでもなるが、四人に打ち明けたとなれば事が漏れる可能性が大きく、その軽率がいずれ信長の知るところとなれば禍となってしまう。明日を待っては一大事となる。今すぐに行動すべきである」

 と言い、もはや実行すべきでしかないと告げたとされています。

 これにより光秀は決起を決断し、本能寺の変が勃発したと伝えているのです。

 この話が本当であったかどうかはともかく、秀満の気持ちがよく伝わってくる逸話ですね。

山崎の戦い

 本能寺の変後、秀満は安土城の守備につき、その後羽柴秀吉との決戦となった山崎の戦いにおいては、光秀の後詰として堀秀政と戦い敗北。坂本城へと退きました。

 ここでも有名な逸話が残されています。

 堀勢に坂本城を囲まれた秀満は、自刃を覚悟するも、光秀所有の天下の名物や財宝を城と運命を共にさせることは忍びないと思い、それらをまとめて目録を添え、天守より敵勢にいる所に下ろし、こう告げました。

「これらのものは私物化してはならない天下のものである。ここで滅ぼしてしまってはこの弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」

 そう叫ぶと、直政と秀政が現れて目録を確認し、

「目録の通り、確かに相違なし。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がないのは如何いたしたのか」

 と返せば秀満は答えて、

「それは信長公から光秀が拝領した道具である。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉義景の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと内々に秘蔵していたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」

 その内容に秀政・直政は納得したといわれています。

 そして秀満はその脇差を差したまま光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺した上で城に火を放ち、自害しました。

 このことは、後世に天下の名物を残した見識ということで、今も称賛されているです。

 他にも「明智左馬助の湖水渡り」といった逸話も残されています。

 これは、光秀の死を知った秀満が坂本城に引き揚げようとしたのですが、大津の打出の浜で敵に遭遇。

 窮地に陥るも、秀満は馬を琵琶湖に引き入れて泳がせ、湖水を渡り始めました。

 敵は唖然とし、そうこうしているうちに坂本まで帰りついたというものです。

『新撰太閤記 明智左馬助の湖水渡り』歌川豊宣画『新撰太閤記 明智左馬助の湖水渡り』歌川豊宣画

 逸話はまだまだあります。

 坂本城を敵に囲まれ、滅亡寸前となったその時、入江長兵衛という武士が一番乗りを果たそうとしていました。

 秀満はこの入江長兵衛と知り合いであり、こう告げたとされています。

「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」
「何事か」
「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易い。しかし勇士の志に免じてそれはやめる。我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである。入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」

 どんなに頑張って功をあげても結果はこの通り。
 つまり秀満自身を教訓としろ、と言ったわけですね。

 もの凄い所でもの凄いこと言ってるわけですが、秀満は話を聞いてくれた餞別として黄金300両を投げ与え、長兵衛は武士をやめてもらったお金で商人となり、財を成したといわれているです。

明智秀満画像

『太平記英勇伝四十九 明智左馬助光春』落合芳幾作『太平記英勇伝四十九 明智左馬助光春』落合芳幾作