淀殿(浅井茶々)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
淀殿とは、戦国時代から江戸時代初頭の人物。
豊臣秀吉の側室です。
本名は浅井茶々および浅井菊子とされ、浅井三姉妹の一人として知られています。
信長の野望での淀殿(浅井茶々)
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
78 | 48 | 60 | 72 |
姫武将としてみれば、十分に優秀な能力。
子の秀頼よりも、城主に向いていきます。むしろ秀頼に代わって当主をやったほうがいいくらいですね。
『新生』では大坂の陣のシナリオはありませんが、もしあれば、大坂城ひとつ残された状態で迫りくる幕府を大軍を待ち受ける…と、なかなかに悲壮な覚悟を決めなくてはいけなくなりそうです。
淀殿(浅井茶々)の来歴
二度の落城を経験する
茶々(淀殿)は近江国小谷にて誕生しました。
天正元年(1573年)に父・浅井長政が伯父・織田信長に敵対して攻められ、浅井氏の居城であった小谷城が落城し滅亡すると、母妹らとともに藤掛永勝に救出されることになります。
しかしこの時、父と祖父・浅井久政は自害に及び、兄であった万福丸は捕縛され、信長の命で羽柴秀吉によって処刑されました。
その後は伯父・織田信包に庇護されていたようで、伊勢安濃津城もしくはは尾張清洲城で暮らしていたとされています。
ただこの件について、近年の研究では『渓心院文』によると、尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたともされているようです。
その信次が天正2年9月29日に織田信次が戦死したあとは、織田信長の岐阜城に転居することになりました。
そんな中、本能寺の変が勃発します。
織田信長が家臣・明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母であった市が織田氏の重臣であった・柴田勝家と再婚。
これにともない、茶々は母や妹達とともに越前国北ノ庄城に移り住みました。
ところが新たに父となった勝家は羽柴秀吉と対立。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いが勃発してこれに敗れると、母・市は勝家共々自害しました。
しかし茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けることになります。
落城後の件についても、北ノ庄城落城後に茶々を始めとする三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出したとされ、三姉妹を安土城に入城させ、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれているようです。
この時に一年間程、茶々の世話をしたのが、信長の妹のお犬の方としても知られています。
また、叔父・織田長益の庇護を受けてもいたようで、安土城に住み、後に聚楽第で伯母・京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたともいわれているようです。
とはいえこういった説は、福田千鶴によるといずれの説も一次史料による裏付けに欠け、この時期の三姉妹の正確な所在については不明であるようですね。
秀吉の側室に
天正16年(1588年)ごろ、茶々は秀吉の側室となったとされています。
天正17年(1589年)、茶々は棄(鶴松)の出産に及びました。
この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになったとされています。
ところが鶴松は天正19年(1591年)に死亡。
その後の文禄2年(1593年)に淀殿は拾(豊臣秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握ようになっていきます。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、いわゆる関ヶ原の戦いが勃発します。
元五奉行の石田三成が大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際に、7月27日付の榊原康政から秋田実季に宛てた書状によると、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするように淀殿と増田長盛、長束正家、前田玄以ら三奉行から書状を送っていることがわかります。
これはつまり、淀殿には家康・秀忠父子を主軸とした秀吉遺言覚書体制、すなわち家康・五奉行(ないし三奉行)体制による政権運営を是認する、確たる意思があったことが窺えるなくもありません。
ともあれその後、大坂城に入った毛利輝元が石田方(西軍)の総大将となって三奉行もそれに同調します。
一方で淀殿は石田方が望んだと推測される秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣などは許しませんでした。
石田方の動きを認めつつも、豊臣家としては静観する姿勢をとったのです。
もっとも家康は抜け目なく、淀殿らからの書状を石田・大谷の動きが謀叛であると諸大名に主張する材料としたようで、その後、三奉行が家康糾弾の『内府ちかひの条々』に署名しましたが、淀殿からは先の書状を覆す文書が発給されなかったことも、家康に「秀頼様の御為」という大義名分を維持させることになりました。。
そして9月15日の関ヶ原の戦い本戦における徳川方(東軍)の勝利の後、家康は大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答しているようです。
家康は毛利輝元の大坂城退去後に入城し、そこで家康を饗応した際に、淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるよう強く求め、家康は秀頼の父親代わりたるべきと公に宣言しました。
徳川家康との対立、大坂の陣
関ヶ原の戦いの以後も、淀殿は家康との関係を保ったかに見えましたが、家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配してしまい、結果的に豊臣家はその支配地を減らすことになってしまいます。
そんな中、淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握ることになっていきます。
慶長10年(1605年)5月8日には家康が高台院を通じ、秀頼が徳川氏に臣下の礼を取るよう、淀殿に要求しました。
豊臣家は領地を削減されたとは言え、秀吉以来の豊臣氏の家格を守ろうとする淀殿は遺憾の意を表明し、会見を拒絶。
この時の家康も積極的な対立は望むところではなかったようで、六男の松平忠輝を大坂に遣わして、融和に努めています。
しかしのちに方広寺鐘銘事件を契機として、大坂の陣が勃発。
淀殿自身も武具を着け、3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激励していたとされていますが、期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示しました。いわゆる大坂冬の陣です。
しかし、翌慶長20年(1615年)には再び戦いの機運が高まり、大坂夏の陣が勃発。
すでに力を失っていた大坂方は最後の抵抗を試みるも、大坂城は落城し、秀頼や大野治長らと共に淀殿は自害しました。
墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。
戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓と伝わっています。
自害したとされている淀殿ですが、その最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになりました。
よくいわれる落ち延びた先としては、島津氏を頼って薩摩国に落ち延びた説であり、また上野国厩橋まで遁れてきたという説もあるようです。