探訪

福井城【北ノ庄城・柴田神社】と御城印

福井城(北ノ庄城)

 福井城とは現在の福井県福井市にあった平城のことです。
 江戸時代において、越前松平氏の居城、城下町として栄えました。

 ちなみにこのお城を作った、というか縄張りをしたのは(本丸と二の丸部分)あの徳川家康だそうです。江戸幕府最大の功労者ですね!

 ちなみに現在、どの程度お城が残っているかといえば、本丸と石垣と堀を残して二の丸や三の丸は消滅し、市街地となってしまっています。

 また本丸跡にはどどーん、と福井県庁舎が建っており、日本最強の防御力(*`▽´*)を誇る県庁として知られています。

 ちなみにいわゆる「福井城」と呼ばれる越前松平氏によって建てられたものの前に、柴田勝家によって築城された北ノ庄城というお城も存在しました。

 二つは実は違うものなのですが、あとで普請された「福井城」も、最初は「北ノ庄城」と呼ばれていたので、両者を一括りにして記事にしてあります。

 また北ノ庄城の御城印が、柴田神社にて購入可能ですよ!

福井城(ふくいじょう)
福井城天守台・福の井
福井城天守台と福井の語源となった福の井
別名北ノ庄城
城郭構造輪郭式平城
天守構造柴田氏北ノ庄城:不明 7層(9層?)
福井城:望楼型4重5階
築城主柴田勝家
築城年1575年(天正3年)
主な改修者結城秀康
主な城主柴田勝家 越前松平家
廃城年1871年
遺構石垣 土塁 堀
指定文化財無し
地図


福井城(北ノ庄城)とは

 管理人は北陸に居住しておりこともあり、市街地のど真ん中にある城址なので、非常に行き易い立地です。
 JR福井駅から歩いてすぐなので、とてもアクセスし易いですね。

 そんな福井城ですが、冒頭でも触れたように大きく二つの時期に分かれており、当初は北ノ庄城とも呼ばれていました。

 もともとは戦国時代(安土桃山時代)に柴田勝家が1575年(天正3年)に築城したのが始まりで、それを「柴田氏北ノ庄城」と称し、勝家が滅亡後、その跡地に結城秀康が築城、または改築したものを「結城氏北ノ庄城」と称すそうです。

 現在遺構としてみられるのは結城氏北ノ庄城であって、柴田氏の方は発掘調査も進んでおらず(市街地化しちゃってますので、なかなかできないわけですね)、詳細はよく分かっていないそうです。
 でも天守の位置などは、けっこう違っていたみたいです。

 ちなみにこの福井城、2017年(平成29年)4月6日に「続日本100名城」(137番)に選定されたそうです。
 

柴田氏北ノ庄城

朝倉氏の滅亡から柴田氏の支配まで

 さてちょっと、福井城の歴史を遡ってみましょう。

 戦国時代、越前国(現在の福井県)は元々朝倉氏によって支配されていたのですが、当主であった朝倉義景は織田家と対立し、その軍勢によって攻め滅ぼされてしまいます。

 滅ぼしたのはあの織田信長。
 さすが戦国時代の有名人。いきなり名前がでてきます。

 その織田信長はは越前国支配のために、朝倉氏の家臣の一人であった前波吉継(桂田長俊)を、一乗谷の守護代に任命しました。

 そして明智光秀や羽柴秀吉、滝川一益といった家臣たちを、北ノ庄の朝倉土佐守景行跡の館に配置したそうです。

 この頃の北ノ庄の地には、簡易な簡易な前線基地か、砦程度の物しかなかったと推測されているそうで、現在福井市の中心になっていることを思うと、当時はまったく違った光景が広がっていたわけですね。

 その後、越前国において越前一向一揆が発生します。

 これにより信長は一時的に越前国を失陥してしまいますが、のちにこれを平定し、その功績によって織田家臣であった柴田勝家が、越前49万石を与えられることになりました。

 勝家は自らの縄張りによって1575年(天正3年)に、北ノ庄城の築城を開始することになります。

柴田勝家
柴田勝家

城郭構造と笏谷石

 それまで越前国の中心といえば一乗谷でした。
 ところがその中心が北ノ庄に移ったことで、一乗谷は急速に衰退し、埋もれていくことになったそうです。

 そのおかげで現在、一乗谷は戦国時代の良好な遺構が残ることとなり、一乗谷朝倉氏遺跡として有名になっています。管理人も年に何回か、ちょくちょく訪れては散歩しています。

 さて勝家の築城した北ノ庄城ですが、足羽川と吉野川が合流した位置に築かれ、堀の一部として足羽川を用いたと考えられているようです。

 天守は7層で一説では9層ともされ、織田信長の居城であった安土城に匹敵する巨城だったとか。

 また城の屋根は石の瓦によって葺かれていたそうで、その独特な色合いで城の美観を増していたらしく、宣教師のルイス・フロイスによると、1581年(天正9年)に北ノ庄を訪問した際に、「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」との記録が残されています。

 ちなみにこの記録で出て来る「立派な石」というのは、近くの足羽山で産出される笏谷石のことです。

 笏谷石は約1700万年前の火山活動によって噴出した火砕流に含まれていた、火山岩や灰などが堆積して凝縮した石のことで、特徴として柔らかくて加工し易く、普段は青緑色さが、水に濡れると深い青色に変化する特徴を持っています。

 この笏谷石製の瓦については、勝家の養子、柴田勝豊によって築城されたあの丸岡城(現存十二天守にひとつ)も同様ですね。

柴田氏の滅亡

 そんな安土城下の二倍の規模もあるとされた北ノ庄城下であったが、1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いにて勝家は羽柴秀吉に敗れ、妻であったお市の方と共に自害してしまいます。
 城には火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失しました。

 勝家を攻め滅ぼした秀吉ですが、そのすぐ後に毛利家臣の小早川隆景に送った書簡によると、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」との記述があり、これが当時の北ノ庄城の構造を知る一つの手がかりになっているようです。

 とはいえ「九重」には「何段にも重なる」という意味もあるので、文字通り九層であったかどうかは断定できないそうですね。

 そしてその後、北ノ庄城の跡地に結城氏によって新たな北ノ庄城が築城されることになったことにより、それが原因で柴田氏時代の遺構を見ることは適わなくなってしまいました。

 1993年(平成5年)より6回に渡る発掘調査の結果、本丸があったのではないかとされる現在の柴田神社の地下より、石垣の跡らしき石組が発見されはしたのですが、それでも本丸の正確な位置を完全に特定することは、今でもできてないようです。

 さてそんな勝家に由来する柴田神社にも行ってきたので、ついでにちょっぴり紹介しておきますよ。
 何せ北ノ庄城の御城印はここで入手できるので、外せません!

柴田神社

柴田神社 拝殿
柴田神社 拝殿

 柴田神社(しばたじんじゃ)とは、福井県福井市にある神社です。
 柴田勝家を主祭神とし、妻の市を配祀している。境内には、市の三人の娘を祀る三姉妹神社があります。

 鎮座地は勝家の居城であった北ノ庄城の本丸跡地と伝えられており、作られた時代は不明なものの、勝家や市を祀る石祠があり、北ノ庄城の跡に築かれた福井城内の神祠として保護されてきた経緯がある場所ですね。

柴田神社 本殿・三姉妹神社
柴田神社 本殿・三姉妹神社

 拝殿の裏に回ってみると、本殿と三姉妹神社があるのがわかります。

 1890年(明治23年)に、旧福井藩主松平春嶽や旧藩士、住民らの発意により小祠のある場所に神社が作られ、「柴田神社」とされたそうです。

 その後、福井市は大火や戦火、福井大地震などの震災などの被害を多く受けることになるのですが、社殿が焼失する度に氏子によって再建されてました。

 まさに不屈。
 柴田神社に限った話ではありませんが、そんな福井市の精神を示すためにも、福井市市民憲章は不死鳥がデザインされているくらいです。

「福井は滅びぬ! 何でも蘇るさ!」(`ー´) ドヤッ!

 1998年(平成10年)より、老朽化した社殿および境内社・稲荷神社が建て替えが行われ、新たに境内社・三姉妹神社が作られました。
 訪れてみると分かりますが、そのため全体的に綺麗で新しい印象があります。
 
 ちなみにその際に福井市による境内の発掘調査が行われ、北ノ庄城の石垣の一部が発見されて、この地が伝承通りに北ノ庄城の跡地であることが判明することになりました。

柴田北ノ庄城石垣遺構
柴田北ノ庄城石垣遺構

 その石垣ですが、ちょこっとしか残っていませんでした。
 これは案内板にもあったのですが、元々は高く積まれていたものを、結城秀康が新たに城を作る際に転用されて、残ったのは根石の部分のみだった、ということになったそうです。

柴田北ノ庄城石垣遺構 案内板

 ちなみに寺内をうろうろすると、社の他に縁の人物の像がたくさん設置されていることに気づきます。
 まずは柴田勝家その人から!

柴田勝家

柴田勝家

 勝家にとって、ここは最期を迎えた地でもあり、老年に入った時の勝家をイメージして作られたのでしょう。
 渋くて格好いい!

 お次は勝家の妻のお市の像です。

お市の方
お市の方

 お市というのは柴田勝家の正室です。以前は浅井長政の正室で、織田信長の妹という人物です。戦国一の美女であったそうですが、勝家め、うまくやったな!

さて次は、浅井三姉妹。

浅井三姉妹
浅井三姉妹

 真ん中が江、左が茶々、右が初ですね。そして左端に映っているのがお市の方で、右端の後方に映っているのが、勝家です。

 母親である市が柴田勝家に嫁いだ際に、一緒に移り住んだとされている三姉妹。
 この三姉妹は浅井氏、柴田氏という二度に渡る戦国大名の没落や、両親の死を経験し、さらにはのちの豊臣氏と徳川氏の覇権争いに深く関わったことで、母・市と共に戦国時代の女性の代名詞として知られています。

 あと境内には柴田勝家の異名「瓶割り柴田」にちなんだ瓶割祈願ができるところがありました。

瓶割祈願


 さてお次は、柴田勝家滅亡後の福井城です。

結城氏北ノ庄城(福井城)

結城秀康による築城

結城秀康
結城秀康

 1600年(慶長5年)、徳川家康の次男・結城秀康が越前68万石を拝領しました。
 これにより翌1601年(慶長6年)に、居城として北ノ庄城の築城に着手することになります。

 それまで結城姓であった秀康も、1604年には松平姓を名乗ることを許されて、御家門の居城として相応しいものになるように、全国諸大名による御手伝普請によって約6年の歳月をかけて完成に至りました。

 そりゃまあ、家康の息子でもあり、幕府二代目将軍・徳川秀忠のお兄ちゃんでもありますからね。見栄も張るってものです。

 完成した城の規模は、東は現在の荒川、南は足羽川、北は加賀口馬出まで2キロメートル四方に及ぶものでした。

 本丸には4重5階の天守があったのですが、1669年(寛文9年)に焼失して、以降は再建されることは無かったそうです。

福井への改名と福の井

 1624年(寛永元年)、福井藩第3代藩主・松平忠昌によって、「北ノ庄」から「福居」に改名。さらに後年、「福井」に改名されることになります。

 ここでようやく「北ノ庄城」から「福井城」になったのですが、その理由は諸説あるもものの、北ノ庄の「北」の字が、「敗北」の「北」にあたり不吉だとして、改名されたそうです。

 ちなみに現在の福井城の跡には、「福井」の語源となった「福の井」が現存しています。
 福井市の市章は、この井戸と北ノ庄の「北」を掛け合わせてデザインされているわけですね。

福の井
福の井

福の井 案内板

天守

 本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣をついて、望楼型4重5階の天守が建てられました。
 高さは天守台も含めて約37メートル。白漆喰総塗籠の外壁仕上げだったそうです。

 しかし1669年(寛文9年)に焼失。
 以降は類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し、天守の代用としました。

福井城天守台
福井城天守台

福井城天守 案内板
福井城天守 案内板

福井城天守台石垣
福井城天守台石垣

福井城天守石碑
福井城天守石碑

 ちなみに天守台の石垣を見ると、ずれて隙間ができているのを確認することができます。
 こういうのを間近で見ることができるのは、なかなか珍しいですね。

福井城天守台石垣
福井城天守台石垣 地震の爪痕

 これは福井地震で、石垣の一部が崩壊した結果です。
 現在もその傷痕をそのまま残しているというわけになります。

 ちなみに福井地震とは、関東大震災や阪神淡路大震災、そして東日本大震災に並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災のことです。

 現代においても東日本大震災や阪神淡路大震災に次ぐ、戦後三番目の規模の震災ですが、その被害率は類を見ないもので、震源地となった現在の坂井市では死者が人口の5%に及んだという、大惨禍でした。

 阪神淡路大震災時の神戸市の死者が、人口の約0.3%だったことを踏まえれば、どれほどの被害率だったかは想像に難くありません。

 そんな大地震だったから、当然のように石垣にも被害が出ました。

 そしてその被害は福井城だけに留まらず、先にも出た丸岡城(むしろ震源地であり直撃された)などもで、完全に倒壊してしまったといわれています。

石垣

 石垣は天守台、大手門、櫓台、隅角部といった重要な部分は切込はぎ積となっており、その他の城壁は打込はぎ積です。

 ぱっと見ただけでも分かるのですが、天守台の石垣など、天守台の石垣はとても精緻に加工されて積まれています。
 今となっては忘れられた地方都市の城郭とは思えないほどの出来栄えですね。

 やはり天下普請による築城は、一味違うのがよく分かります。
 昔はえがった……。

 ちなみに天下普請で作られたお城といえば、福井城の他には江戸城、名古屋城、大坂城、高田城、駿府城、伊賀上野城、加納城、彦根城、膳所城、二条城、丹波亀山城、篠山城なので、日本で数あるお城の中でも特別なものだった、ということですね。

遺構

 明治維新後の1871年(明治4年)、福井藩は福井城の解体を幕府に願い出ることになります。

 跡地は1873年(明治6年)に陸軍省の管轄になったものの、旧福井藩士たちが1879年(明治12年)に借り受けて、開墾を進めました。

 1890年(明治23年)になると、越前福井藩第17代の藩主であった松平茂昭は福井城跡を買い戻すことになります。

 1893年(明治26年)には旧福井藩主家(越前松平家)第18代当主・松平康荘によって旧城内に農業試験場「松平試農場」が設立。これは1921年(大正11年)に金津駅東細呂木村山室口に移転されるまで続きました。

 現在の福井城は、すでに外堀は埋められて無く、内堀、石垣、天守台などの遺構が残っている状況です。
 また本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などが、お城のごとく(むしろ邪魔だという意見も少なからずあったり)建っています。

 おかげで日本一強固な最強の県庁だとも言われているのですが、もちろん揶揄の類です。
 もう少し先を見越した再利用ができれば、今とは違った観光利用もできたのでしょうが、当時の方々にそれを言っても詮無いことですからね。

 実際、そうやって日本中にあったお城は消えていったわけで、堀と石垣が残っただけでも御の字でしょうか。

 しかし上にあるものがあるものなので、その土台や周辺はしっかりと整備されており、それはそれで良かったのかもしれませんね。

復元事業

 そんな県庁に占拠された福井城ですが、ちょこちょこと復元事業も行われています。

 2008年(平成20年)には御廊下橋が復元。

御廊下橋
御廊下橋

御廊下橋 案内板

 御廊下橋(おろうかばし)は、歴代の福井藩主が登城する際の専用橋として使われていた橋です。
 藩主が政庁であった本丸と西三ノ丸御座所とを往復するための専用の橋で、屋根と壁の付いた珍しい形態の木造の橋といわれています。

 2018年(平成30年)には、山里口御門が復元。

山里口御門

山里口御門

山里口御門

山里口御門

 山里口御門(やまざとぐちごもん)とは、「廊下橋御門(ろうかばしごもん)」や「天守台下門(てんしゅだいしたもん)」とも呼ばれていた福井城本丸の西側を守る枡形門のことです。

 今回の事業により、2階部分に櫓が載る櫓門、2本の柱とその上部を連結する冠木で屋根を支える構造の棟門、そしてこれら2つの門とともに枡形を形成する石垣上の土塀を復元されました。

 実際に通ってみましたが、橋から門に至るまで、しっかりとお城っぽい雰囲気を味わうことができます。

北ノ庄城の御城印

 さてお城といえば、御城印。
 これは外せません。

 「福井城」の御城印は今のところありませんが、その前身たる「福井城」は手に入れることができます。

北ノ庄城御城印

北ノ庄城御城印その一

北ノ庄城御城印

北ノ庄城御城印その二・柴田勝家ver.

北ノ庄城御城印(柴田勝家)

 北ノ庄城の御城印には、「北ノ庄城」の文字以外にも、柴田勝家のイラストがセットでついてきます。

北ノ庄城御城印の入手方法

 柴田神社の社務所にて購入可能。
 住所は福井県福井市中央1丁目21-17。
 価格は一枚1,000円。

 と、こんな感じです。

福井県の御城印 御城印集めが趣味の管理人、無理之介です。  今回は福井県で収集することのできる御城印について紹介します。  現在、福井県で入手...

福井城へのアクセス

 福井城に行く方法は電車、もしくは車で行くことができます。

 電車の場合はJR北陸本線・福井駅から徒歩7分といったところですね。
 柴田神社もすぐ近くにあるから、歩いて十分に回れる距離かと思います。
 これが一番確実です。

 車の場合は福井市中心ということもあり、多少はごちゃごちゃしていて使いにくいですが、近くに有料駐車場ならたくさんありますので、それを利用するのがいいでしょう。

 ちなみに本丸跡には先のも書いたように県庁があって、しかも敷地は出勤するひとや学生で朝はひとがいっぱい(道にもなっているので)になります。
 なので出勤時間よりも早く、日の出の早い初夏の早朝に行くと、人もいなくて景観を独り占めできておすすめですね。

福井城関連画像

福井城墟碑
福井城墟碑

結城秀康
結城秀康像

福井城本丸復元図
福井城本丸復元図