お市の方【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

土岐 無理之介

 お市の方とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。

 近江の戦国大名・浅井長政の継室でしたが、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となりました。

 江戸時代の書物の『祖父物語』や『賤獄合戦記』によると、「天下一の美人」と称されるほど、誉が高かったといわれています。

信長の野望でのお市の方

信長の野望・新生での能力値

お市【信長の野望】
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統率武勇知略政務
76527462
信長の野望 新生 能力値
お市能力【信長の野望新生】
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 姫武将としてみれば優秀。
 他の武将の中にまじっても、十分に活躍できる能力です。
 さすがは織田信長の妹ですね。

 浅井家にいて順調にイベントが発生すれば、織田家から長政のもとに嫁いできます。
 浅井家にとっては使える人材が増えてありがたいですが、その後の展開を考えると…ですね。

お市の方の来歴

お市の方像
お市の方像

前半生

 お市の方の前半生についてはほとんど知られていません。

 生年もはっきりとはせず、一説によると、天文16年(1547年)であるとされています。
 尾張那古野城内で、お市の方は生まれました。

 戦国大名・織田信長の妹であるとされ、信長とは13歳の歳の差があったとも言われています。

織田信長像
織田信長像

 これも一説では父は織田信秀で、母は土田御前とされています。
 もっとも生母ははっきりしない、というのが実情のようですね。

 子に豊臣秀吉の側室となる茶々や、京極高次の正室となる初、そして徳川秀忠の継室となる江がいます。

 そのため豊臣秀頼、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子などは孫にあたります。

 ちなみに徳川和子は後水尾天皇の中宮となっており、その娘は明正天皇となりました。

浅井長政に嫁ぐ

 お市の方の名が大きく歴史に現れるのは、やはり近江の浅井長政との婚姻の時からになります。

浅井長政像
浅井長政像

 しかし婚姻時期については諸説あって、長く永禄7年と考えられてきたのですが、同8年12月に六角承禎の命を受けた和田惟政が織田・浅井両家の縁組に奔走すたものの長政側の賛同を得られずに一度頓挫していたようで、次の機会であった、永禄10年(1567年)9月もしくは永禄11年(1568年)早々の1月から3月ごろであったのではないかと、現在では考えられているようです。

 ともあれ浅井家との縁談がまとまったことで、市は浅井長政に輿入れしました。
 結果、織田家と浅井家は婚姻同盟を結ぶことになったのです。

 ちなみに長政には主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がすでになされていたのですが、お市の方との婚姻により破談としました。

 その後、長政との間に3人の娘をもうけることになります。

 ちなみに長政には少なくとも2人の男子がいたようですが、いずれにしてもお市の方との間の子供ではないと考えられているようです。

兄・信長と敵対

 元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国の朝倉義景を突如攻めたため、それが原因となって浅井家と織田家は手切れとなりました。いわゆる金ヶ崎の戦いです。

 ただ政略結婚であったものの、長政と市の夫婦仲は良好であったと伝わっています。

 永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになっていましたが、それでも娘を出産していたことからも、夫婦間は円満であったことがうかがえます。

 金ヶ崎の戦いの後、浅井家は織田家と明確に対立し、すぐに姉川の戦いが勃発。

 これに敗北した後、天正元年(1573年)に浅井家の居城であった小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害しました。

 お市の方は3人の娘であった茶々、初、江と共に藤掛永勝によって救出されたとされ、その後織田家に引き取られていきます。

本能寺の変と柴田勝家

 天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発。
 これにより兄・信長は家臣であった明智光秀に討たれ、横死。

 その後、織田家臣であった柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせ、清洲会議で承諾を得て、お市は柴田勝家と再婚しました。

柴田勝家像
柴田勝家像

 ところがすぐにも勝家と秀吉が対立。

 天正11年(1583年)には両者の間で賤ヶ岳の戦いが勃発し、敗れた勝家は敗走して越前北ノ庄城に帰城します。

 秀吉はこれを追撃し、城を包囲して激しく攻め立てました。

 落城の前夜、城を枕に切腹する覚悟を決めた勝家は、市に場外退去を勧めます。

 しかしお市の方はこれを拒んだと伝わっています。

 共に自決すると誓ったお市でしたが、三人の娘を死出の道連れにすることはできず、富永新六郎という武士に預けて秀吉のもとに届けさせました。

 それから勝家とお市、一族や直臣、女中衆は、夜を徹して酒宴を催して今生の別れをしたとされ、4月24日、80名余で共に自害に及んだとされています。享年37。

「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」

 辞世とされているものです。

お市の方の逸話

  • お市の方は戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられています。
  • 『朝倉家記』によれば金ヶ崎の戦いの折り、信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り挟み撃ちの危機を伝えたとされています。これは非常に有名な逸話ですが、世の創作であるというのが実情のようです。
  • 『溪心院文』によれば非常に若く見えたそうで、37歳の時点で実年齢よりもはるかに若い22、23歳程度に見えるほど、若々しかったとされています。
  • 『祖父物語』によれば市は「天下一の美人の聞へ」と美人の誉が高かったようで、『賤嶽合戦記』では「天下第一番の御生(みあれ)付」とあって貴人として尊敬されたともされているようです。

お市の方像

お市の方像(高野山持明院像)
お市の方像(高野山持明院像)
お市の方銅像
柴田神社にあるお市の方の銅像
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ABOUT ME
土岐無理之介
土岐無理之介
歴史好き。主に戦国時代。
旅ついでに城郭神社仏閣を巡りなどやってます。

趣味で小説など書いたりも。カクヨムや小説家になろうにて、荒唐無稽な歴史IF小説などを、気ままに投稿しています。
たまにはイラストなども描いてみたり。
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