合戦の歴史

姉川の戦い【朝倉・浅井連合軍の大敗から信長包囲網へ】

土岐 無理之介

 姉川の戦いとは、1570年(元亀元年6月28日)に、近江国浅井郡姉川河原にて行われた、朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍による戦いです。
 この戦いに敗北した朝倉・浅井両家は周辺勢力と協力し、信長包囲網を形成していくことになります。

姉川の戦い(あねがわのたたかい)
年月日1570年7月30日(元亀元年6月28日)
場所近江国浅井郡姉川河原
交戦勢力浅井・朝倉連合軍
織田・徳川連合軍
指揮官浅井・朝倉軍:浅井長政 朝倉景健 磯野員昌 六角義賢 六角義治 堀秀村 阿閉貞征 新庄直頼 遠藤直経 真柄直隆 藤堂高虎 真柄直澄 三田村国定 野村直隆 大野木秀俊
織田・徳川軍:織田信長 徳川家康 森可成 坂井政尚 斎藤利治 柴田勝家 佐久間信盛 蜂屋頼隆 木下秀吉 丹羽長秀 和田惟政 簗田広正 中条家忠 佐々成政 稲葉良通 氏家卜全 安藤守就 池田恒興 酒井忠次 小笠原長忠 石川数正 榊原康政 本多忠勝 鵜殿氏長
戦力浅井・朝倉軍:13,000~30,000
織田・徳川軍:13,000~40,000
結果織田・徳川軍の勝利

姉川の戦いとは

 姉川の戦いは、金ヶ崎の退き口で苦渋を舐めた織田信長の雪辱戦として有名です。

 ちなみに「姉川の戦い」というのは徳川方の呼称であり、連合勢力の各々で呼び方が違っていました。

 織田方や浅井方は「野村合戦」と呼び、朝倉方では「三田村合戦」と称したとされています。

 これはもちろん、開戦前に名を決めて合戦に及んだわけではありませんので、そのためそれぞれが布陣した地名をとって、それぞれ好きなように呼んだ結果ですね。

 ではどうして「姉川の戦い」の呼称だけが有名になったのかといえば、そう呼称した徳川家が、後に天下を取ったからなのでしょう。

 つまり、勝者が歴史を作る、ということなのです。

開戦への経緯

信長の上洛

織田信長像
織田信長像

 尾張国の戦国大名であった織田信長は、美濃国を手に入れ、上洛のために西に進む必要がありました。

 その際にどうしても通らなければならないのが近江国であり、信長は先立って北近江の戦国大名・浅井長政と自身の妹であるお市を娶らせることで縁戚となり、織田・浅井の同盟を成立させています。

浅井長政像
浅井長政像
お市の方像(高野山持明院像)
お市の方像(高野山持明院像)

 このような準備をした上で、信長は近江に侵攻。

 南近江には六角氏が割拠しており、浅井氏にとっても宿敵であった六角氏を信長は観音寺の戦いで破り、足利義昭を奉じて上洛を果たすことになります。

朝倉義景との対立

朝倉義景像
朝倉義景像

 上洛した信長は、越前国の戦国大名・朝倉義景に対し、上洛を要求。

 義景はこれを拒否し続け、それを口実とし、信長は越前へと兵を進めることになる。

 浅井氏にとって朝倉氏は古くからの盟友(浅井長政の祖父・浅井亮政の代からの同盟国)だったため、事前に織田氏に対し、朝倉氏と敵対しないという約定を交わしていたのですが、信長はそれを反故にし、越前侵攻を開始します。

 このような状況下において、浅井長政は織田信長から離反し、朝倉氏につき、越前の金ヶ崎城を攻める織田軍を背後を突く形で兵を挙げました。

 挟撃される形になった織田軍は、当初の優位から一転、窮地に立たされることになってしまいます。

 信長は撤退を決意し、いわゆる金ヶ崎の退き口を経て、辛くも虎口を脱出することに成功するのでした。

両軍の動き

 5月11日 朝倉勢は朝倉景鏡を総大将として、近江へと進軍開始。浅井氏や六角氏と連携。
 5月21日 朝倉・浅井・六角の連携は失敗し、織田信長、千種街道より岐阜へと帰国。
 6月4日  野洲河原の戦い。六角勢、織田方の柴田勝家、佐久間信盛に敗退。
 6月某日 朝倉勢、美濃に侵攻して垂井・赤坂周辺を放火。長比・苅安尾といった城砦を修築。
 6月15日 朝倉勢、越前に帰陣。
 6月某日 堀秀村・樋口直房が織田方に降り、長比・苅安尾両城が陥落。
 6月19日 信長、岐阜を出立。長比に入る。
 6月21日 信長、虎御前山に布陣。小谷城の城下町を焼き払わせる。
 6月22日 信長、後退。
 6月24日 信長、横山城を包囲。竜ヶ鼻に布陣。
 6月某日 徳川家康率いる徳川勢、織田勢に合流。
      朝倉景健率いる朝倉勢、浅井勢に合流。
 6月27日 朝倉・浅井勢、後退。
 6月28日 朝倉・浅井勢、野村・三田村に布陣。

姉川の戦い


 1570年(元亀元年6月28日午前6時)、戦闘が開始されました。

 最初、織田勢は苦戦を強いられることになります。

 両軍は激戦となり、浅井・朝倉軍の陣形が伸びきったところを、徳川勢の榊原康政が側面から攻撃。
 これにより朝倉勢が敗走し、浅井勢も総崩れとなったといいます。

 結果、織田・徳川連合軍の勝利となり、朝倉・浅井連合軍は敗退。

 戦場となった付近には「血原」や「血川」という地名が残されており、当時の激戦を今に窺わせています。

戦いの影響

 この戦いで浅井方は甚大な被害を受けており、浅井長政が最も信頼していたとされる遠藤直経が戦死。

 また一門では実の弟である浅井政之も討死し、その他にも浅井政澄、弓削家澄、今村氏直といった面々が戦死しました。

 援軍として参加した朝倉氏も、猛将とされた真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが戦死。

 これらは戦場より撤退する際に、多くの犠牲者を出したといわれています。

 撤退戦は非常に過酷なであり、のちの長篠の戦いなどでも、まさに撤退する時に多くの武田家臣は討死していきました。

 また勝利した織田方においても、坂井尚恒らが討死しています。

 しかし敗北したものの朝倉・浅井氏にはまた余力があり、その後は比叡山や石山本願寺の一向一揆と手を結ぶことで戦略的に織田信長を追い詰めていくことになり、志賀の陣などでは織田方でも名だたる将を失うことになっていくのです。

 一方で姉川の戦いの敗北により、横山城を失った浅井方では佐和山城が孤立するなどの地理的な問題も発生し、その城主であった磯野員昌は姉川の戦いにおいてその武名を轟かす活躍をした武将でしたが、羽柴秀吉に調略されて降伏し、浅井氏は弱体化していくことになってしまいます。

 磯野員昌もそう簡単に降伏したわけではありません。

 織田方はまず佐和山城を孤立させ、物資を遮断し、兵站を断った上で、浅井家中に員昌内通の噂を流したとされています。

 これにより長政は員昌に対して疑念を持つようになってしまい、員昌からの再三に渡る補給要請を拒絶してしまったのです。

 こうなっては是非も無し。

 兵量が尽きたことで員昌は降伏せざるを得なかったといわれています。

参戦武将

浅井勢

 浅井長政
 磯野員昌
 浅井政澄
 阿閉貞征
 新庄直頼
 遠藤直経
 安養寺氏種
 今村氏直
 弓削家澄

朝倉勢

 朝倉景健
 前波新八郎
 真柄直隆

横山城守将 (浅井勢)

 三田村国定
 野村直隆
 大野木秀俊

織田勢

 織田信長
 坂井政尚
 池田恒興
 木下秀吉
 柴田勝家
 森可成
 佐久間信盛

徳川勢

 徳川家康
 酒井忠次
 小笠原長忠
 石川数正
 榊原康政
 本多忠勝

横山城攻城軍 (織田勢)

 丹羽長秀
 稲葉良通
 氏家卜全
 安藤守就

姉川の戦い関連画像

『阿根川大合戦之図』月岡芳年画
『阿根川大合戦之図』月岡芳年画
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土岐無理之介
土岐無理之介
歴史好き。主に戦国時代。
旅ついでに城郭神社仏閣を巡りなどやってます。

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たまにはイラストなども描いてみたり。
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