金ヶ崎の戦い【信長の撤退戦、金ヶ崎の退き口】
金ヶ崎の戦いとは、1570年(元亀元年)に起こった戦いです。
織田信長が朝倉義景の支配する越前に侵攻するも挟み撃ちに遭い、窮地に陥った戦として有名な撤退戦であり、金ヶ崎の退き口、ともいわれています。
戦国の三傑(三英傑)がそろって敗北した戦いとしても知られています。
年月日 | 1570年(元亀元年) |
場所 | 越前国敦賀郡金ヶ崎 |
交戦勢力 | 朝倉・浅井連合軍 |
織田・徳川連合軍 | |
指揮官 | 朝倉・浅井軍:朝倉義景 浅井長政 朝倉景恒 |
織田・徳川軍:織田信長 徳川家康 池田勝正 木下秀吉 明智光秀 松永久秀 朽木元綱 | |
戦力 | 朝倉・浅井軍:20,000 |
織田・徳川軍:30,000 | |
結果 | 織田・徳川軍の撤退 |
金ヶ崎の戦いとは
織田信長の撤退戦として有名であり、負け戦ではあったものの、金ヶ崎城自体の攻略は成功していました。
その後、同盟関係にあった浅井家が裏切り挟撃の危機となったため、退却するに至った一連の撤退戦を指して、金ヶ崎の戦い、または金ヶ崎の退き口といいます。
これは織田方にとって相当に危険な状態であり、主に木下秀吉が殿として残り、奮戦したことで知られています。
もっとも秀吉が殿の中心であったわけではないのですが、そのことが多く語られていることは確かです。
開戦への経緯
出兵まで
1568年(永禄11年)に足利義昭を擁して上洛を果たした織田信長でしたが、その後越前の朝倉義景に対し、上洛を命令していました。
しかし義景は幾度もこれを拒否。
越前は美濃から京都の間に割って入るような地理上にあり、信長としては越前を屈服させる必要があったのですが、義景の上洛拒否を叛意ありとして出兵の口実とした信長は、1570年(永禄13年)に越前に侵攻することになります。
1570年5月24日(永禄13年4月20日)、織田信長とその同盟者である徳川家康の連合軍は、越前に出兵。
織田諸将の他、松永弾正の名で知られる松永久秀らも従軍していたといわれています。
この時はのちの豊臣秀吉や、明智光秀だとか、徳川家康だとか、松永久秀といった、歴史に名を残したようなこの時はそうたるメンバーが従軍していました。
ちなみにこの越前出兵は、若狭国武藤を成敗する、などといった文章が残ってることからして、若狭攻めを口実にして始まったと考えられています。
金ヶ崎の落城
5月29日、織田・徳川連合軍は朝倉領に侵入。
同日、金ヶ崎城の支城である天筒山城攻めを開始します。
敦賀郡司であった朝倉方の守将・朝倉景恒は金ヶ崎城へと退き、篭城するも、翌日には金ヶ崎城も包囲されてしまいました。
連合軍30,000に対し、金ヶ崎守備隊は4,500。
援軍は遅れ、圧倒的な戦力差を前に、景恒は信長の降伏勧告を受け入れて開城し、金ヶ崎は陥落します。
援軍の遅延と朝倉家の序列争い
降伏した朝倉景恒はのちに不甲斐無しと非難され、失意のうちにその年のうちに死去することになります。
敗北した景恒ではあったのですが、援軍が遅れた要因として、朝倉家内が一枚岩ではなかったことが背景にあるのではないかという説があります。
敦賀郡司である朝倉景恒は当時一門衆筆頭であり、主君である義景や、また他の一門衆である朝倉景鏡や朝倉景健らとの間に序列争いがあったようで、そういった亀裂や距離感が、故意に援軍を遅らせたのではないかとされているのです。
浅井長政の離反
ともあれ敦賀郡を押さえられた朝倉軍は、北陸道の難所である木ノ芽峠まで下がり、そこで防御態勢を整えることになります。
しかしここで織田軍にとって、思わぬ事態が発生しました。
姻戚関係にある浅井長政(信長の義弟)が裏切り、織田・徳川連合軍の背後を突く形で近江塩津に進出してきたのです。
信長は最初これを信じなかったとされていますが、やがて撤退を決意することになります。
どうして長政は信長ではなくて義景を選んだのでしょうか。
実は織田家と浅井家が婚姻同盟を結んだ際に、朝倉を攻めないという不戦の約束を事前にしてありました。
しかし信長はそれを反故にし、越前に攻め込んだのです。
堂々と嘘をつく輩を信じていけるほど、長政もお人よしではなかったのでしょう。
当時はは戦国時代であり、世は乱世。
下克上上等の時代であっても、やはり信義というのは重んじられていたものでした。
基本的に、裏切り行為は受け入れがたいものであり、それは今も昔も変わっていません。
とはいえ長政に嫁いでいた信長の妹の市は継室で、最初の正室は六角氏の出。
長政は六角氏と事を構えるにあたってこれを離縁して送り返したという経緯もあり、今回もそれに近いものがあります。
結局のところ、長政は義を重んじた武将だったというよりは、やはり信長同様の戦国の武将であったのかもしれません。
信長も基本には身内に甘く、弟の織田信勝やおつやの方とかみたいに裏切られると容赦はしない一方で、それまではかなり信じてしまっているところがあります。
そのため約束を破っても身内だから大丈夫、という油断の甘えがあったのは否めないでしょう。
ある意味で、長政を見くびっていたのかもしれません。
窮地に陥った信長は、ただちに撤退を決定。
しかしすでに挟撃の様相を呈しており、信長は最大の危機を迎えることになりました。
なお、信長が長政の裏切りを知った理由として、松永久秀が浅井家の動きを察知したためであるとか、あるいは長政の妻で信長の妹であるお市の方が知らせた(小豆袋の両端を紐で結んだものを届けさせた)などが知られていますが、信憑性は無く、俗説である可能性が高いとされているようです。
金ヶ崎の退き口
撤退にあたり、木下秀吉(豊臣秀吉)が殿軍を務め、奮戦の末に信長を脱出させることに成功する話は、よく知られています。
殿軍というのは討死を覚悟で敵の追撃を食い止めるための任務であり、非常に危険なものです。
そのため武芸や人格に優れた者が選ばれ務める大役であり、秀吉はこれを見事果たしたことで、知恵者だけでなく武勇も兼ね備えていると織田家中で見られるようになり、のちに重臣へと上り詰めていくきっかけになったといわれています。
この場面はドラマ等の秀吉の出世話の中では必ず語られる場面であり、聞いている方も納得でき実に分かり易い功であると分かりますので、なかなかこれを外すわけにはいかないでしょう。
とはいうものの、この戦いには秀吉よりも地位が上である池田勝正や明智光秀がいました。
実際に殿軍を率いた大将は秀吉ではなく池田勝正であり、秀吉は勝正に率いられた一武将として参加し、功を挙げたのが本当のところであるそうです。
池田勝正、無念。
当時はともかく、後世では秀吉に手柄を横取りされてしまっています。
朽木越え
窮地にありながら織田方が大過無く撤退できたのは、朝倉方が弱兵であったとか、あるいは朝倉方は普通の戦力であったが織田方が非常に秀逸であったためであるとか、更にはそもそもの目的が足利義昭によるもので、朝倉氏が軟禁していた武田元明の救出であったなどと、色々な説があります。
ともあれ織田軍が無事に撤退したことで、朝倉軍としては千載一遇の勝機を逃すこととなり、のちに信長に再起の機会を与えてしまうことになりました。
すなわち、かの有名な姉川の戦いに繋がっていくことになるのです。