朝倉景鏡とは戦国時代の武将であり、朝倉家重臣。主家滅亡後は織田信長に仕えた。
主君である朝倉義景を裏切り、自害に追い込んだ人物として知られている。
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生年 | 1525年(大永5年) |
没年 | 1574年(天正2年) |
改名 | 景鏡⇒土橋信鏡 |
別名 | 孫八郎 |
主君 | 朝倉義景⇒織田信長 |
氏族 | 朝倉氏 |
家紋 | 三盛木瓜(みつもりもっこう) |
親 | 父:朝倉景高 母:烏丸冬光の娘 |
兄弟 | 景鏡 景次 在重 |
朝倉景鏡とは








朝倉景高の謀反
1525年(大永5年)、朝倉景高の子として誕生。母親は側室である権中納言・烏丸冬光の娘といわれている。
父・景高は越前朝倉氏10代目当主である朝倉孝景の弟であり、その子である景鏡と孝景の嫡男・義景とは従兄という関係であった。
義景には兄弟がいなかったため、従兄である景鏡の血筋は一門の中でも申し分無かったといえる。


景高は大野郡司を務め、美濃方面に進出。1519年(永正16年)には土岐頼武に加担し、正木合戦や池戸合戦に連戦連勝した勇将だった。
1536年(天文5年)には土岐頼武と土岐頼芸の争いである美濃の混乱にも関与して、大野郡穴間城を攻略するなど軍功を重ねている。
ところが兄である孝景と次第に不和になっていったことから、大野郡司を罷免され、越前を退去。上洛して公家や幕府に接近し、孝景に対する謀反を企てたという。
しかし孝景の方が一枚上手で景高は失敗し、京を追放。その後、若狭国の武田氏に庇護されつつ反孝景を画策するも、叶わずに没落していくことになった。








朝倉一門衆筆頭へ

《朝倉景鏡居城 亥山城址 現在の日吉神社》
父親が謀反人であったため、当初景鏡は血筋の割には低い地位に甘んじることになっていた。
しかしこの後、景鏡は一気に朝倉一門の家臣筆頭にまで出世することになる。
そのきっかけは、当時越前に訪れていた足利義昭に気に入られ、式部大輔に任じられたことだった。




朝倉氏の総大将として
朝倉家において出兵する際、当主自ら指揮をとるのではなく、名代を立ててその人物を総大将とし、出陣する慣習があった。
景鏡もまた、義景の名代として総大将として朝倉軍を率い、加賀の一向一揆の征伐や、金ヶ崎の追撃戦、また志賀の陣などで戦っている。
一族の争いと朝倉家滅亡まで
ただし一族の中で権力争いもあったようで、例えば1564年(永禄7年)の加賀の一向一揆の際には総大将の地位を巡り、敦賀郡司の朝倉景紀の長男・朝倉景垙と口論になり、陣中で憤死するという事件が起きている。これによって景鏡と景紀の仲は悪くなっていったようで、朝倉一門衆の中に亀裂が生まれ始めたことが窺える。


そういった権力争いもあってか、主君・義景との間にも距離間が生まれ始めたとされる。
1572年(元亀3年)に、景鏡は織田信長に攻められた浅井氏を救うために小谷へと出陣。しかし前波吉継や富田長繁、毛屋猪介といった家臣が次々に織田に寝返ってしまう。
1573年(天正元年)に信長による近江侵攻が再度実行され、義景は景鏡に出兵要請をするも、出陣を拒否。度重なる連戦による疲労を理由にしたとされている。












そのため已む無く義景は自ら出陣。刀根坂の戦いにおいて大敗を喫した。
義景は命からがら一乗谷まで戻ったものの、馳せ参じる家臣はおらず、唯一景鏡のみが義景に対して進言し、自身の領地である大野までの撤退と再起を促したという。
景鏡のいた大野郡は朝倉氏の本拠のあった一乗谷よりも更に奥まった盆地にあり、守りやすく、また平泉寺の僧兵集団という同盟者もいたため、義景はこれに従って大野へと落ち延びた。
平泉寺とは、かつて朝倉氏第8代当主であった朝倉氏景が越前支配を完成させるために結んだ相手であり、最盛期には48社36堂に6千坊、僧兵8千人という巨大な宗教都市を形成し、越前の一大勢力として朝倉氏と肩を並べる存在だったといわれている。
しかしこの頃、最後の頼りであった平泉寺もすでに信長と内通していたという。


義景は宿として六坊賢松寺に入るも、景鏡はすでに裏切りを決意しており、手勢200を率いてこれを包囲。ついに義景は自刃して果てた。

景鏡は義景の首級を信長に差出し、降伏。許されて本領を安堵されている。
また名前も朝倉の名を捨て信長から一字もらい、土橋信鏡と改名し、大野郡の統治に励むことになる。
村岡山城の戦い
ところがその後、越前は大混乱に陥ることになる。
1574年(天正2年)朝倉旧臣・富田長繁による越前一向一揆が拡大し、朝倉義景を裏切った平泉寺もまたその標的となった。
景鏡は平泉寺の軍師、戦奉行として迎えられ、一揆軍と戦うことになる。
当初は平泉寺側はこれを撃退するも、戦線は次第に膠着。一揆側は近くの御立山(村岡山)に砦を築いて戦況を変えようとしました。
この動きを察知した平泉寺はこのままでは不利になると判断し、村岡山城への総攻撃を決行。
景鏡は総攻撃に対して懸念を示すも、平泉寺側はこれを断行。やむなく景鏡は総大将として村岡山城に対し、攻撃を開始。
ところが一揆側は別働隊を組織し、もぬけの殻となった平泉寺を背後から奇襲。平泉寺は天然の要害であったものの、その背後からの攻撃に為すすべなく、しかも総攻撃を仕掛けていたため守る者も無く、全山焼失することになる。














その墓は、福井県勝山市平泉寺にある城山の地(平泉寺の朝倉景鏡居館跡)の一角に残されている。

《朝倉景鏡墓地 城山》








朝倉景鏡の評価
主君である義景を裏切ったり、同族の景垙と口論になって自害させたりと、陰湿なイメージのある人物である。
朝倉氏について書かれた『朝倉始末記』においても、主家滅亡の原因とされているせいか、陰湿に書かれている。
しかし客観的にみれば、低い地位から一門筆頭まで登り詰め、朝倉の総大将として織田軍と戦い、戦局を正確に判断して生き残るための裏切りのタイミングをはかり、本領を安堵されるという結果も残している。
その後の一向一揆との戦いでは、運命を悟った上で討死を選択するという、ある意味武士らしい天晴れな最期を遂げており、惰弱な人物ではなかったことも窺うこともできる。
朝倉在重
最期の戦いで景鏡の子二人も殺害され、直系は途絶えた。しかし弟に朝倉在重がおり、この人物は父・景高が越前国から退去した際に父と別れて駿河へと逃れ、今川氏を頼ったという。
しかし今川氏真の代で今川氏が滅亡すると、最終的に徳川家康に仕え、その後存続することになる。




朝倉景鏡 関係年表
1525年 朝倉景高の嫡子として誕生。
1564年 加賀一向一揆。
総大将として出陣。
1570年 金ヶ崎の追撃戦を指揮。
志賀の陣の総大将として出陣。
1573年 近江出兵を拒否。
義景を裏切り、自害させる。
土橋信鏡に改名。
1574年 越前一向一揆と戦い、討死。