富田長繁とは戦国時代の武将。越前朝倉氏の家臣。
後にこれを裏切り織田信長に下り、主家滅亡後の越前国にて大混乱を巻き起こし、最期は味方に裏切られて命を落とした人物として知られてる。
生年 | 1551年(天文21年) |
没年 | 1574年(天正3年2月18日) |
別名 | 長秀 通称:弥六郎 |
主君 | 朝倉義景⇒織田信長 |
親 | 父:富田吉順 |
子 | 庄左衛門 |
富田長繁とは








朝倉家臣時代
長繁の出自
長繁はまず越前国の戦国大名・朝倉義景に仕えた。
その出自は出雲国で、越前国に来て義景に仕えたとされている。










主家滅亡
朝倉氏はこの頃織田信長と争っており、長繁の名前が初めて出てくるのは1570年(元亀元年)で、信長のの越前侵攻に際してである。
その後1572年(元亀3年)に朝倉を見限り、織田に寝返ることになる。
この時に寝返った朝倉家臣の者は多く、前波吉継、毛屋猪介、戸田与次郎などがいた。
そして朝倉氏が1573年(天正元年)に滅ぼされると、長繁は越前府中の領主に任じられることになる。






桂田長俊との抗争
朝倉家が滅亡すると、桂田長俊が越前守護代に、そして長繁が府中領主に任命された。
この後で、第二次長島攻に従軍して戦功をあげている。


















長繁の最初の標的になったのは桂田長俊(前波吉継)だった。
長繁が長俊に不満を持つ一方で、長俊もまた長繁に知行を与えすぎであるとか、府中領主になったことに対して批判するような訴えを起こしていたようで、当然両者の仲は険悪なものになっていく。


桂田長俊は越前国で圧政を敷き、その悪政に不満を持たれていた。
そこでそんな民衆を長繁は扇動して、土一揆を引き起こすことになる。その数3万3000人。






長繁が引き起こした一揆に対し、桂田長俊に対抗できるすべはなく、長俊自身やその家族は殺害されることになった。




長繁の暴走
桂田長俊を討ち取ったことで、越前国は一時的に長繁の支配するところとなる。
勢いに乗った長繁は、織田家より代官として派遣されていた木下祐久・津田元嘉・三沢秀次を襲撃。
彼らは絶体絶命の危機に立たされたものの、朝倉家旧臣である安居景健(朝倉景建)と朝倉景胤の説得により、九死に一生を得ることになる。
しかし長繁は止まらずに矛先を変え、かつての同僚である朝倉家旧臣の一人、魚住景固を朝食に誘って彼の息子もろとも斬殺。
その勢いのまま魚住氏の居城に攻め込み、魚住氏を滅ぼしてしまう。








桂田長俊と違い、魚住景固は仁者として慕われていたこともあって、一揆の矛先が向けられるような人物ではなかったのである。
しかし長繁が傍目には何の理由も無く魚住氏を滅ぼしたことで民心を失い、かつての朝倉家旧臣の者は警戒して誰も寄ってこなくなったのだった。


一揆との戦い
混乱した越前国を一時的にとはいえ支配下におさめた長繁は、その支配権確立のために色々政策を行い民心を得ようとするもののがうまくいかず、それどころか先に自身が扇動した一揆勢を敵に回す羽目になってしまう。
この一揆勢は加賀国にいた七里頼周を呼び寄せ、土一揆だったものは一向一揆に進展。越前のいたるところで決起し、越前は大混乱に陥った。
標的とされた長繁も一揆勢に包囲される。その数14万。














窮地に立たされた長繁ではあったが、このまま一揆の好きなようにさせるのは無念、と決死の覚悟で突撃を敢行。
府中にもっとも近い位置に布陣していた2万の一揆勢に突撃し、その一角を打ち破って壊走させ、さらに執拗に追撃して2,000以上の首をとったという。




これによって勢いを取り戻した長繁は即座に次の手を打つ。
一向宗、つまり本願寺と仲の悪い真宗三門徒派を懐柔し、6,500人の兵力増員に成功。しかしまだまだ兵力では圧倒的不利な状況には変わりなかったものの、府中から北ノ庄に向けて進軍。
鯖江を抜き、浅水付近にて一揆勢と決戦に及び、烏合の衆でしかない一揆勢に対して有利に戦局を維持。そのまま勢いで押し勝ち、大勝利した。






長繁の死
大勝利した長繁は止まることなく勢いのまま、傍観に徹していた安居景健と朝倉景胤へと襲い掛かった。






この戦は全く休まずの強行軍であり、絶倫な長繁はともかくとして、それに従う兵の方は耐えられるものではなかった。
そのため攻め切れず、いったん兵を引くも、しかし翌日には再度突撃を敢行する有様だったという。
このような無茶に、ついに不満が爆発した。
この合戦中に味方である小林良隆によって背後から鉄砲で射殺。
首を取られたのだった。享年24。










富田長繁 関係年表
1551年 富田吉順の子として誕生。
1570年 織田信長の越前侵攻に対して出陣。
1572年 織田軍に寝返り。
1573年 朝倉家滅亡。
府中領主に任じられる。
長島一向一揆攻めに従軍。
1574年 越前にて土一揆を扇動。桂田長俊を殺害。
魚住景固を殺害。鳥羽野城攻め。
一向一揆14万を破る。
長泉寺山の砦を攻める。
小林吉隆に裏切られ、討死。享年24。