井伊直政【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
井伊直政とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
井伊氏の第20代当主とされています。
また上野国高崎藩の初代藩主でもあり、後に近江国彦根藩の初代藩主にもなっています。
徳川家康の家臣であり、徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王に数えられなど、家康の天下取りを全力で支えた功臣として誉れ高い人物でもあります。
信長の野望での井伊直政
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
87 | 92 | 83 | 81 |
優秀な徳川四天王の中でも特に優秀なのが、井伊直政ですね。
全ての能力は80以上。
武勇は90越え。
万能かつ隙がありません。
井伊直政の来歴
徳川家に仕えるまで
井伊直政は永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷近くの祝田にて誕生しました。
母は奥山朝利の娘・ひよと伝わっています。
幼名は虎松。
井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主でしたが、当時の井伊家当主である井伊直盛は今川義元に仕え、尾張の織田信長との合戦である桶狭間の戦いで戦没します。
そのような情勢下で今川家は不安定となり、直政の父・直親は、直政の生まれた翌年の永禄5年(1562年)、謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺されました。
この時の虎松はわずか2歳。
そのため直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となったといわれています。
この逸話についてはNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で描かれましたね。
直政もまた、今川氏真に命を狙われたのですが、新野親矩が助命嘆願して受け入れられ、親矩のもとで生母・ひよと共に暮らすことになります。
ところが永禄7年(1564年)、今度は親矩が討死してしまいます。
そのためそのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人・祐椿尼とひよが養育したともいわれ諸説ありますが、永禄11年(1568年)、甲斐国の武田氏が今川氏を攻めようとした際、井伊家の家老であった小野道好が今川氏からの命令として、直政を殺害した上で井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、直政は出家させ、浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入ることになりました。
それからしばらく時が流れ、天正2年(1574年)、直政が父・直親の13回忌のために龍潭寺に来た際、祐椿尼、直虎、ひよ、龍潭寺住職・南渓瑞聞らは、直政を徳川家康に仕えさせようと考えます。
そのためにひよが徳川氏家臣・松下清景と再嫁し、虎松を松下氏の養子にしたとされています。
そして天正3年(1575年)、直政は家康に見出されました。
これによって井伊氏に復することを許された直政はは、名を虎松から井伊万千代と改めることになります。
さらには旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられました。
徳川家康家臣として
家康に仕えるようになった直政は、高天神城の戦いの攻略を初めとする武田氏との戦いで戦功を立てていくことになります。
天正10年(1582年)、22歳で元服し、ここで初めて直政と名乗りました。
この年に織田信長が家臣・明智光秀に討たれた本能寺の変が勃発。
直政は家康の伊賀越えに従っていたようで、滞在先の堺から三河国に帰還します。
その後勃発した天正壬午の乱においては、北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当していたようで、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、旗本先手役の侍大将になりmした。
武田の兵法を引き継ぐ部隊を任された直政は、赤備えで知られる武田家重臣・山県昌景の朱色の軍装を継承し、井伊の赤備えと称されます。
天正11年1月11日、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚しました。
天正12年(1584年)、徳川家康は豊臣秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いが勃発。
この時直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになったそうです。
直政は小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったとされていますが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられるようになります。
天正14年(1586年)10月、家康が上洛。
これによって徳川氏が豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜しました。
天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官されたようで、徳川家中で最も高い格式の重臣となります。
直政は徳川家において新参の家臣ではありましたが。数々の武功を評価されたようで、天正18年(1590年)に起きた小田原征伐では、参戦した数ある武将の中で唯一夜襲をかけ、小田原城内にまで攻め込んだ武将としてもその名を知られています。
その後の奥州仕置の九戸政実の乱においても、仕置軍の先鋒を務めました。
その後、北条氏に代わって家康が関東に移封され、江戸に入ると、直政は上野国箕輪を与えられ、その石高は徳川氏家臣団の中で最高の12万石であったといいます。
慶長3年(1598年)には、箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城としました。
同年、直政が番役として京都にいる家康のもとにいたときに秀吉が死去。
この後巻き起こった政治抗争において、直政は豊臣方の武将との交渉を引き受けたようで、それらを家康の味方に引き入れることに成功しています。
特に黒田如水・長政父子とは盟約を結ぶまでの関係を築き、黒田家を通じてその他の武将も親徳川に組み入れました。
このことからも、直政ば武辺一辺倒だけの人物でなかったことがうかがえます。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、家康は石田三成との対立から東西両軍入り乱れた関ヶ原の戦いが勃発します。
この時直政は家康本軍に随行したようで、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命されており、東軍指揮の中心的存在でした。
同時に全国の諸大名を東軍につける工作をも行っていたようで、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込むことに成功しています。
そして関ヶ原本戦においては、先陣は福島正則と定められていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされています。
しかし実際には抜け駆けではなく、霧の中での偶発的な遭遇戦であったようです。
決戦終盤は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取る功をあげ、退却する島津軍を百余騎率いて追撃しました。
そして遂に義弘の目前まで迫り、義弘の討ち取りの命を下した際、島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、落馬。
これは直政のあまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったためだとされています。
足に大怪我を負った直政でしたが、関ヶ原の戦い後、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力しました。
具体的には西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取り成し、特に、周防・長門の2か国が安堵された事に感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られています。
また徳川氏と島津氏の和平交渉を仲立ちしており、外交手腕も発揮しました。
さらには真田昌幸とその次男・信繁(幸村)の助命にも尽力したとされています。
これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったといわれています。
このように戦功や戦後処理で十二分に働いた直政は、これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山18万石を与えられることになり、従四位下に任官されました。
佐和山は要衝であり、家康は西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い佐和山に直政を配したと伝えられています。
慶長7年(1602年)2月1日彦根城築城途中、佐和山城で直政は死去しました。享年42。
家督は長男の直継(後の直勝)が継いだのですが病弱であったこともあり、大坂冬の陣に出兵するに際し、家康の直命により、次男である井伊直孝が指名されることになります。
その後、彦根城が築城されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれました。
それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなるのです。