朝倉景健【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
朝倉景健とは戦国時代の武将であり、朝倉一門にしてその家臣です。
姉川の戦いでは主君・朝倉義景の名代として総大将を務めた人物として知られています。
朝倉氏滅亡後、名を安居景健と改めました。
今回はそんな朝倉景健を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での朝倉景健
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 63 |
武勇 | 65 |
知略 | 42 |
内政 | 36 |
外政 | 35 |
朝倉景健の一世一代の晴れ舞台といえば、それはもう姉川の戦い以外にありえません。
マイナー武将揃いの朝倉家臣団の中で、景建の名が比較的有名なのも、この合戦のおかげです。
しかし、両陣営並び立つ中、総大将級では明らかに一人だけ、見劣りする能力となっています。
味方の浅井軍総大将は、浅井長政。
まあまあの能力を誇っています。
敵の織田軍総大将・織田信長。
ラスボス級です。
そして朝倉軍が対する徳川軍総大将は、徳川家康。
これまたラスボス級です。
そして我らが朝倉家代表・朝倉景建はというと……もはや雑魚としか言いようのない能力に、涙を誘われるのは管理人だけではないでしょう。
優れていた武勇ですら、65。
統率も63と、ようやく及第点といったところ。
これでチート軍団織田・徳川連合軍と戦うこと自体が無謀だったのです。
それでも途中までは互角以上に渡りあったのですから、例え最終的に敗北したとはいえ、もっと評価してあげて欲しいところですね。
あの信長だって、あのぼんくら義景を相手に負ける時は負けているのですから。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
64 | 60 | 49 | 36 |
新生では武勇の評価が少し下がっています。
一方で知略は上がっていますが、まあ誤差の範囲、といったところですね。
しかしなぜ血気の特性がついているのやら。
むしろ後年の逸話をみる限り、そんな性格ではないのですが…ううむ。
ともあれこの血気持ちのせいで、シナリオによっては放っておくと、勝手にお隣若狭武田氏に攻め込んでくれます。
ともあれそんな朝倉景建の人生を紐解いていきましょう。
来歴
朝倉景健は1536年(天文5年)に朝倉一門である朝倉景隆の末子として誕生しました。
この父・景隆の家系は大野郡司や敦賀郡司を務めた家系に次ぐ家柄だったようです。
1570年(元亀元年)、この頃に兄や父が相次いで死去。
これにより景健が父の跡を継ぐことになってしまいます。
同年には織田・徳川連合軍を相手に浅井氏と朝倉氏が連合して戦った、姉川の戦いが勃発。
この戦いに景健は兵8,000を率い、総大将として参陣しました。
朝倉軍はこの戦いに敗北したものの、続けて行われた志賀の陣の下坂本の合戦において、織田家臣の森可成や織田信長の弟・織田信治を討ち取る戦果を挙げています。
信長はその後苦境に立たされるのですが、武田信玄の死去により窮地を脱し、朝倉・浅井家に対して反撃。
1573年(天正元年)の刀根坂の戦いで朝倉軍は大敗するものの、景健ら家臣の奮戦により、主君・義景を一乗谷に逃すことに成功しています。
姉川の敗戦ばかりのイメージがつきまとう景建ですが、志賀の陣では活躍しており、刀根坂の戦いでは朝倉家の家臣が次々に討死していく中、自身は生き残ってしかもしっかりと義景を逃すことに成功しているなど、目立たないながらも史料に書かれているように、それなりに武勇に優れていたことは間違いなかったのかもしれません。
しかしそうならないのは、哀しい哉、敗戦の将の宿命、といったところでしょうか。
義景が従兄弟である朝倉景鏡の裏切りあって討死すると、景健は信長に降伏。
姓を朝倉から安居に改めて、所領を安堵されています。
どうにか生き延びたと思ったのも束の間で、翌年の1574年(天正2年)には富田長繁の起こした越前一向一揆が拡大し、景健は降伏してしまいます。
無理ならぬこととはいえ、これが景建の運命を定めてしまったのです。
この越前一向一揆により、朝倉家の旧臣たちは次々に滅んでいくことになるのですが、降伏していた景建はどうにか命脈を保っていました。
一時的に越前国は一揆の支配するところとなったのですが、翌年の1575年(天正3年)に、織田信長は再度越前へと侵攻を開始。
一揆勢が不利になると、その指揮官であった下間頼照・下間頼俊らの首級を持参して再度、信長に対して助命を請うものの認められることなく、信長の命を受けた朝倉一門である向久家により自害させられました。
景健の死により、その家臣であった金子新丞父子と山内源右衛門の3名が殉死したと伝わっています。
朝倉景健 関係年表
1536年 朝倉景隆の末子として誕生。
1570年 この頃、父・景隆や兄らが相次いで死去。
姉川の戦いに総大将として参陣。
志賀の陣。下坂本の合戦で功を挙げる。
1573年 刀根坂の戦いで奮戦。
主君・朝倉義景死去。
織田家に降伏し、姓を安居と改める。
1574年 越前一向一揆に降伏。
1575年 自害を命じられる。