朝倉景健とは戦国時代の武将であり、朝倉一門にして家臣。
姉川の戦いでは主君・朝倉義景の名代として総大将を務めた人物として知られている。
朝倉家滅亡後、名を安居景健と改めている。
生年 1536年(天文5年)
没年 1575年(天正3年)
改名 景健⇒安居景健
別名 孫三郎
家紋 三盛木瓜(みつもりもっこう)
主君 朝倉義景⇒織田信長⇒本願寺
親 父:朝倉景隆
朝倉景建とは










朝倉家一門として
朝倉景健は1536年(天文5年)に朝倉一門である朝倉景隆の末子として誕生した。
この父・景隆の家系は大野郡司や敦賀郡司を務めた家系に次ぐ家柄である。
1570年(元亀元年)、この頃に兄や父が相次いで死去。
これにより景健が父の跡を継ぐことになったという。
同年には織田・徳川連合軍を相手に浅井家と朝倉家が連合して戦った、姉川の戦いが勃発。
この戦いに景健は兵8,000を率い、総大将として参陣した。
朝倉軍はこの戦いに敗北したものの、続けて行われた志賀の陣の下坂本の合戦において、織田家臣の森可成や織田信長の弟・織田信治を討ち取る戦果を挙げている。
信長はその後苦境に立たされるが、武田信玄の死去により窮地を脱し、朝倉・浅井家に対して反撃。
1573年(天正元年)の刀根坂の戦いで朝倉軍は大敗するものの、景健ら家臣の奮戦により、主君・義景を一乗谷に逃すことに成功している。




しかし義景が従兄弟である朝倉景鏡の裏切りあって討死すると、景健は信長に降伏。
姓を朝倉から安居に改めて、所領を安堵されている。
ところが翌年の1574年(天正2年)には富田長繁の起こした越前一向一揆が拡大し、景健は降伏した。
この越前一向一揆により、朝倉家の旧臣たちは次々に滅んでいくことになる。
一時的に越前国は一揆の支配するところとなったが、翌年の1575年(天正3年)に、織田信長は再度越前へと侵攻を開始。
一揆勢が不利になると、その指揮官であった下間頼照・下間頼俊らの首級を持参して再度、信長に対して助命を請うものの認められることなく、信長の命を受けた朝倉一門である向久家により自害させられた。
景健の死により、その家臣であった金子新丞父子と山内源右衛門の3名が殉死したと伝わっている。
朝倉景健 関係年表
1536年 朝倉景隆の末子として誕生。
1570年 この頃、父・景隆や兄らが相次いで死去。
姉川の戦いに総大将として参陣。
志賀の陣。下坂本の合戦で功を挙げる。
1573年 刀根坂の戦いで奮戦。
主君・朝倉義景死去。
織田家に降伏し、姓を安居と改める。
1574年 越前一向一揆に降伏。
1575年 自害を命じられる。