武田信玄(武田晴信)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

土岐 無理之介

 武田信玄(武田晴信)とは、戦国時代における甲斐国の戦国大名であり、甲斐武田氏の19代当主です。
 父である武田信虎の代において、甲斐の守護大名から戦国大名へと転進した武田家を継承し、隣国の信濃国へと侵攻してこれを支配しました。
 越後国の上杉謙信(長尾景虎)とは信濃を巡って対立し、幾度にも渡って川中島の戦いが勃発。
 一方で各地に侵攻して領国を拡大しつつ、西上作戦を発動して織田信長を追い詰めるものの、その最中にあって病を得て死去することになります。

 今回はそんな甲斐の虎こと武田信玄を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

武田信玄(たけだ しんげん)/武田晴信(たけだ はるのぶ)
武田菱
生年1521年(大永元年11月3日)
没年1573年(元亀4年4月12日)
改名太郎⇒晴信⇒徳栄軒信玄
別名甲斐の虎
家紋武田菱(たけだびし)
父:武田信虎
母:大井の方
兄弟竹松 信玄 犬千代 信繁 信基(信友?) 信廉 信顕 一条信龍 宗智 松尾信是 河窪信実 信友 勝虎 定恵院 南松院殿(穴山信友正室) 禰々 花光院(浦野氏室) 亀御料人(大井信為正室) 女(下条信氏正室) 女(禰津神平室) 女(葛山氏室)菊御料人(菊亭晴季室)
正室:上杉朝興娘 
継室:三条の方
側室:諏訪御料人
側室:禰津御寮人
側室:油川夫人

義信 海野信親 西保信之 黄梅院 見性院 諏訪勝頼 真理姫(木曽義昌正室) 仁科盛信 葛山信貞 安田信清 松姫 菊姫

信長の野望での武田信玄

信長の野望・大志での能力値

武田信玄【信長の野望】
©コーエーテクモゲームス
武田信玄【信長の野望】
©コーエーテクモゲームス
信長の野望 大志
武田信玄(たけだ しんげん)
統率100
武勇83
知略94
内政98
外政85
武田信玄能力【信長の野望大志】

©コーエーテクモゲームス[/caption]

 ご覧の通りの文句のつけようのない能力値。
 統率などは100と、三桁に達しているほどです。

 これならば主人公・織田信長とも十分に互角以上に渡り合える能力ですね。

 信玄が軍事、内政、外政と、様々な場面で非凡な才能を発揮したがゆえに評価、といったところでしょう。

 とはいえ、内政98はさすがにどうなんだろう? とは思わないでもないところです。

 確かに信玄堤や甲州金など、今に残る事跡を残したことは事実です。

 しかし一方で外征のために重税に科し、その負担に民が耐えかねていたことも、忘れてはいけません。
 武田家滅亡の際、すでに民の心は武田家かた離れていたとも言われているのは、信玄以来の過酷な税であったともされています。

 民に負担を強いたからといって、それが即座に内政能力の欠如に繋がるものでもありませんが、善政とは言い難かったのも確かであり、そのあたりを考慮すれば、98はないんじゃないかなあとは思ったりしてしまう管理人です。

 信玄や武田家は最初からゲーム内では優遇されている感がありますし、主人公の信長だけが強くてもそれはそれで面白くありませんので、ゲームバランス的にも必要な措置だったのかもしれませんが、別段、全ての能力値を高水準にする必要もないのではないかな、とも思うところですね。

 ともあれ、ゲーム内での武田家は強いです。
 前半シナリオでも優秀な人材がおり、後半でもチート一族真田家が自動的に入ってきますので、そうそう人材に困ることはありません。

 問題は立地だけですね。
 しかしそれを補って余りある程度には強いです。

信長の野望・新生での能力値

武田信玄【信長の野望】
©コーエーテクモゲームス
信長の野望 新生
武田信玄(たけだ しんげん)
統率100
武勇89
知略96
政務95
武田信玄能力【信長の野望新生】
©コーエーテクモゲームス

 今作は前作よりもさらに評価された印象で、統率は相変わらずの100とご立派。
 武勇はそれなりに上昇し、あと一歩で90の大台といったところまで伸ばしてきました。

 知略も上昇。
 政務は前作が内政と外政に分かれていたとはいえ、やはり総合的には上昇している感じですね。

 いやぁお強い。
 やはり信長のライバルの地位は不動のようです。

家督継承

甲斐統一と武田信虎

武田晴信像
武田晴信像

 武田信玄は1521年(大永元年11月3日)に、甲斐国守護であった武田信虎の嫡子として生まれました。

 一般的に信玄は信虎の長男とされているのですが、実際には4歳年上の兄・武田竹松がおり、竹松が7歳で夭折したことで、長男扱いになったと考えられています。

 実は信玄、長男じゃなかったんですよね。
 兄が夭折したから嫡子になったわけで、それが幼い頃の話だったから、長男として扱われていることも多く、何となく長男であったようなイメージがあるのかもしれません。

 戦国時代の有名人である武田信玄もそうでしたが、ライバルであった上杉謙信や、のちの敵となる織田信長なども、実は次男だったりするんですよね。

 母親は甲斐西郡の国衆であり、武田一門の大井信達の娘である、大井の方。

 甲斐国においては、甲斐武田氏13代当主に当たる武田信満の代である1416年(応永23年)に、上杉禅秀の乱が勃発。
 信満は禅秀に属すも敗れ、自害するに至ったという経緯がありました。

上杉禅秀の乱とは?
室町時代の1416年(応永23年)に関東地方で起こった戦乱のこと。前関東管領である上杉禅秀(上杉氏憲)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱で、周辺諸国を巻き込んだ上に後の時代にも影響を及ぼしていきます。

 信満が死去したことで甲斐国には守護不在となり、国人による騒乱によって甲斐武田氏の権威は失墜。

 しかし信玄の曽祖父である武田信昌の代に、守護代跡部氏を排斥し、その他有力国衆を服従させるなどして、甲斐の再統一が進むことになりました。

 その後、信玄の父である信虎の代で再び内乱状態となるも、信虎は甲斐統一を果たし、戦国大名武田氏の礎を確立させます。

信玄の出生

 信玄が生まれたのは、ちょうど甲斐統一が果たされた頃であり、この頃武田氏は国衆であった大井氏と戦っており、その大井氏は駿河国の今川氏を後ろ盾としていました。

 1521年(大永元年)には、今川家臣である福島正成が率いた軍勢が、甲府に侵攻。
 これを信虎は飯田河原合戦において破り、撃退に成功しまう。

 ちょうどこの時、信玄の母である大井の方は、武田氏の居城であった躑躅ヶ崎館から避難して、支城であった要害山城にて信玄を産んだとされているようです。

 その後、兄・竹松の死により、嫡男として扱われるようになったといわれています。

弟・武田信繁

 1525年(大永5年)になると、信玄の弟である次郎(のちの武田信繁)が誕生。

 この信繁が生まれたことにより、信虎は信繁を寵愛するようになり、信玄を疎むようになっていったとされています。

 弟の信繁は大人になっても人格者でしたし、親にしてみれば信玄なんかよりよほど可愛かったのでしょう。
 しかしその代わりに、信玄と信虎の親子関係は冷え込んでいくことになるのです。

正室を迎える

 1533年(天文2年)、信玄の正室として、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主であった上杉朝興の娘が迎えられました。

 二人の仲は良かったようで、翌年には出産を迎えるも、難産であったことから正室も子も死去したとされています。

武田晴信を名乗る

 1536年(天文5年)に元服。
 時の室町幕府将軍・足利義晴から一字を賜り、晴信と名乗りました。

 この頃に継室である三条夫人(左大臣・三条公頼の娘)を迎えています。

 この縁談は今川氏の斡旋であったとされ、それまで武田氏と今川氏はそれまで敵対していたものの、今川氏当主であった今川氏輝<が死去したことで花倉の乱と呼ばれるお家騒動が勃発し、その後、今川義元が跡を継いだことで武田氏と和睦するに至っていました。

信虎の甲斐追放

 1536年(天文5年)、信玄は初陣にて佐久郡海ノ口城主・平賀源心を攻め、一夜にして落城させたといわれています。

 1541年(天文10年)には、海野平の戦い参加。
 この戦いで駆逐された海野棟綱が上野国へ亡命し、関東管領・上杉憲政を頼ったため、これと衝突することを避けた信虎により、武田軍は撤兵し、甲斐へと帰国しました。

 同年、信虎は今川義元を訪問するために駿河へと向かったところ、武田家重臣であった板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌の支持を得た信玄は甲斐と駿河の国境を封鎖し、信虎を強制的に隠居させて追放とし、武田家の家督と守護職を相続するという事件が発生します。

 これにより信玄は、甲斐武田氏第19代当主となるのでした。

信濃国への侵攻

武田氏の戦略

 父・信虎の代までの武田氏は、主に相模の北条氏と敵対し、駿河の今川氏や信濃の諏訪氏、上野の山内上杉氏や扇谷上杉氏とは同盟関係を結んでいました。

 しかし信玄が家督を継承して以後、その方針を転換することになる。

諏訪への侵攻

 1542年(天文11年)、信濃国の諏訪領へと侵攻を開始。

 これは諏訪家当主であった諏訪頼重が信濃守護であった小笠原長時と連合して、甲斐へと侵攻。
 信玄はこれを瀬沢の戦いで撃退し、両家の関係は悪化することになります。

 信玄は諏訪庶家の諏訪頼継などを調略し、これを味方に引き入れ、その上で諏訪へと攻め込みました。

 桑原城の戦いにおいて諏訪側が和睦を申し入れると、信玄は諏訪頼重を甲府へと連行し、自害に追い込むことになります。

 その後すぐに、一度は協力した諏訪頼継が信玄に対して兵を挙げるも、これを撃破することで武田氏は信濃の諏訪領を支配することになったのでした。

 この頃に信玄の最愛の妻といわれている、諏訪御料人を側室に迎えています。
 ただしこのイメージは、現代の小説やドラマの脚色による影響からくるもので、事実とは言い難かったりします。
 というより、そんな史料は存在していません。

 そのため実名も不詳であり、諏訪御料人という名前で呼ばれています。
 ドラマや小説によっては、湖衣姫とか由布姫なんていう名前をつけられていたりするようです。

北条氏との和睦

 1543年(天文12年)には、信濃国長窪城主の大井貞隆を下し、1545年(天文14年)には高遠城の高遠頼継を滅亡させ、さらに福与城の藤沢頼親を追放するなどして、徐々に信濃国を掌握していくことになります。

 そして1544年(天文13年)には、それまで対立していた北条氏と和睦。

 また1545年(天文14年)の第2次河東一乱において、対立した今川氏と北条氏の間に入って両者を和睦に導き、貸しを作るなど外交面でも精力的に活動しました。

 この武田、今川、北条の関係は、のちの甲相駿三国同盟に繋がっていくことになるのです。

村上義清との戦い

 武田にとって南方の今川氏や北条氏との関係が良好となり、後顧の憂いがなくなったことで、信玄は信濃侵攻に傾注。

 1547年(天文16年)には志賀城の笠原清繁と戦い、小田井原の戦いにおいて、関東管領・上杉憲政及び笠原清繁の連合軍を撃破します。 

 1548年(天文17年)には、北信濃の葛尾城主・村上義清と対決。

 ここで現れるのが信玄の天敵・村上義清でした。

 上杉謙信は武田信玄の好敵手として知られているけれど、村上義清は完全に天敵と言っていいでしょう。

 これまで連戦連勝してきた信玄だったが、猛将として知られた村上義清を相手に戦った上田原の戦いにおいて、大敗を喫することになります。

 板垣信方や甘利虎泰といった重臣も失うほどの、大打撃でした。

 信玄自身もこの合戦で二箇所の傷を負い、20日余り戦場に踏みとどまった上で退却することになりました。

 ただ勝利した村上勢も、屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利ら家臣を失い、余力は無かったため退陣したとされています。

塩尻峠の戦い

 武田信玄にとって初めての敗北であった上田原の戦いに機をみた小笠原長時が、同年、諏訪へと侵攻。

 長時は村上義清や安曇郡の仁科盛能と連合して攻め入り、諏訪下社を占領します。

 信玄は小笠原勢を油断させつつ急襲し、これを撃破。
 武田軍は小笠原軍を打ち破りました。

 1550年(天文19年)になると、信玄は小笠原領へと侵攻。
 長時にもはや力は無く、村上義清を頼って逃亡し、中信濃は武田氏の手に落ちることになります。

砥石崩れ

 勢いを取り戻した武田軍は、再び村上義清と対決し、武田軍7,000の兵をもって、500ほどの兵が守備する砥石城へと攻撃を敢行。

 しかし城の守りは堅く、攻略を断念した武田軍は撤退するも、その撤退戦において殿軍に多大な損害を被ることになります。

 武田方では横田高松をはじめ、郡内衆の小沢式部や渡辺伊豆守らなどの将や、約1,000名もの兵を失った大敗でした。

 この砥石城の戦いは武田信玄の生涯において、上田原の戦いに続く二度目の敗戦として有名であり、砥石崩れと称されています。

 このような敗戦を受けた信玄は、しかし武ではなく策略をもって砥石城を攻略。

 真田幸隆の謀略によって砥石城は落城し、村上勢は徐々に劣勢となり、ついには居城であった葛尾城を放棄して越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼り、逃れたました。

 これにより信玄は信濃の北部を覗いて信濃を平定。

 しかしその前に、越後の上杉謙信が立ちはだかることになるのです。

川中島の戦いと上杉謙信

『信州川中嶋合戦之図』勝川春亭画 応需広重模写
『信州川中嶋合戦之図』勝川春亭画 応需広重模写

 そうして始まったのが、因縁の戦いである川中島の戦いでした。

第一次川中島の戦い(布施の戦い)

 信濃を追われた村上義清や、北信濃国人衆の要請を受け、1553年(天文22年)、越後の上杉謙信(長尾景虎)が信濃へと出兵を開始。

 これにより、計5回、約12年に及ぶいわゆる川中島の戦いが勃発することになります。

 この初めての対決となった第1次川中島の戦いにおいて、緒戦で武田軍は長尾軍に敗れ、荒砥城が落城。

 武田軍は荒砥城に夜襲を仕掛け、長尾軍の退路を断とうとしたものの、謙信は兵を退き、お互いに領国へと帰還することで終結しました。

第二次川中島の戦い(犀川の戦い)

 1555年(天文24年)の第二次合戦に及ぶ前年、信玄は駿河の今川氏と相模の北条氏との間に、甲相駿三国同盟を締結。

 もともと上杉氏と対立していた北条氏と共同して、武田氏も対決していくことになっていきます。

 そんな中、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿が武田方に寝返ったことで、善光寺より北の長尾方に対して圧力が強まるといった事態が発生。

 これに対し、謙信は善光寺を奪回するために出陣。
 信玄もまた出陣し、川中島の犀川を挟んで両軍は対峙しするに至りました。

 この時、両軍の戦いは決着がつかず、約200日に渡って対峙することになったといわれています。

 この長期間の対峙は、兵站の長かった武田軍にとって非常に苦しいものでした。

 しかしこの対峙は、加賀に出兵していた越前国の朝倉家重臣・朝倉宗滴が死去したことで、両軍は撤兵することになります。

 この時朝倉氏は長尾軍に呼応して加賀に出兵し、一向一揆を抑えていました。
 しかし宗滴の死により北陸方面に不安が生まれ、この機に今川義元の仲介により和睦が成立することになったのです。

第三次川中島の戦い(上野原の戦い)

 1557年(弘治3年)、信玄の出兵に反撃するべく謙信も出陣し、武田領の深くまで侵攻して長野盆地奪回を図りました。

 しかし武田方は決戦を避け、決着がつくことなく両軍は引き揚げることになります。

第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)

第四次川中島の戦い
第四次川中島の戦い

 川中島の戦いの中で、最大の激戦であったとされるのが、この第四次川中島に戦いであったとされています。

 1561年(永禄4年)、関東管領・上杉憲政は北条氏康に敗れて越後へと逃れ、謙信に対して関東管領職の譲渡を提案。

 幕府の許可を得た謙信は、大義名分を得て関東に出兵。
 小田原城の戦いが勃発しました。

 守りの堅い小田原城に籠城したことで、謙信はそれを包囲するも落とせず、攻めあぐねることになります。

 この状況下において、北条氏康は信玄へと援助を要請。

 信玄はこれに応える形で北信濃に侵攻することになるのです。

 やがて謙信は小田原城の包囲を解き、越後へと引き揚げ、同年8月に信濃へと出陣。

 この戦いは本格的な合戦に及び、激戦により武田軍4,000、上杉軍3,000という死者を出したともいわれ、信玄の弟である武田信繁や、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次といった家臣が討死したといわれています。

 一応引き分けと言われている第四次川中島決戦ではありましたが、武田方の人的被害は少なくなく、信玄を支えてきた弟の武田信繁も、ここで討死してしまいます。

第五次川中島の戦い(塩崎の対陣)

 1564年(永禄7年)、謙信は川中島へと出陣するも、信玄は対決を避けて塩崎城へと入り、両軍は二ヶ月のにらみ合いをするのみで終わりました。

 以後、川中島で大きな戦闘が行われることは無く、謙信は関東出兵に、信玄は東海道や上野方面へと進出していくことになっていくのです。

 これにて川中島の戦いは終結。
 新たな局面へと移り変わっていくことになりました。

武田氏の戦略転換

西上野侵攻

 信玄は信濃方面とは別に西上野方面にも侵攻していたものの、上野国箕輪城主であった長野業正の前に足踏みし、戦果は上がっていませんでした。

 しかし業正の死を契機に攻勢を強め、1566年(永禄9年)には長野業盛を降し、箕輪城を落として上野国西部を領国化します。

桶狭間の戦いと今川氏の動揺

 1560年(永禄9年)、信玄の同盟国であった駿河の今川氏当主・今川義元は、尾張に侵攻した際に織田信長桶狭間の戦いにて敗れ、討死。

 これにより、今川氏家臣であった松平元康(徳川家康)が独立するなど、東海道にて火種が発生していくことになります。

 この桶狭間の戦いにより、武田氏と今川氏との同盟関係が微妙なものになり、両者に緊張が生じることになっていくのです。

義信事件

 1564年(永禄7年)、信玄の嫡子である武田義信の傅役である飯富虎昌や、長坂源五郎、曽根周防守らが信玄の暗殺を密談するも、信玄暗殺計画は事前に飯富虎昌の弟・山県昌景(飯富三郎兵衛)によって露見し、虎昌らは自害に追い込まれるという事件が発生。

 これにより義信は東光寺に幽閉され、今川義元の娘である嶺松院と離縁させられた上で、家督継承の資格を失うことになりました。

 武田氏が第四次川中島の戦いにより北信が安定したことと、今川義元が桶狭間の戦いで討死したことで信玄が大きな方針転換を行い、今川氏への侵攻を目論むようになったことで、親今川の義信と信玄が対立したという背景があったと考えられています。

駿河侵攻

 ともあれ義信事件後、武田氏と今川氏との関係は急激に悪化し、信玄は三河の徳川家康との間で遠江割譲を約定として、共同で駿河侵攻を開始。

 信玄は北条氏にも同心を持ちかけていたものの、逆に北条氏は今川氏救援のために出兵し、いわゆる甲相駿三国同盟は解消。

 また駿河侵攻にあたり協調していた徳川氏とも対立し、徳川家康は今川氏真と和睦し、共同戦線は解消されるなど、情勢は目まぐるしく変化していくことになります。

上杉氏との和睦

 徳川、北条と新たな敵を得たことで、信玄は将軍・足利義昭を通じてこれまで長年対立を続けてきた上杉氏との和睦を模索し、これを成立させました。

 さらには常陸国の佐竹氏などの北関東勢力と同盟を結んで北条氏に対し圧力をかけ、小田原城の包囲を行うなど攻勢に出ます。

 そして三増峠の戦いで北条軍を打ち破り、敗れた北条氏は武田氏との関係改善に方針を転換することとなりました。

信長包囲網

遠江・三河侵攻

 一方、京においては1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、その勢力を急激に拡大させていました。

 その信長は義昭と対立するようになり、義昭は信長討伐令を信玄やその他周辺の大名に発することになります。

 これを受け、信長の勢力拡大を危惧していた信玄は、信長の同盟相手となっていた徳川家康を討つために、遠江・三河への侵攻を決意。

 戦況は武田方優位に進むも、信玄が吐血したために甲斐へと戻ることになるのです。

甲相同盟

 関東方面においては、1571年(元亀2年)に、相模の北条氏康が死去。

 後を継いだ北条氏政は、信玄との関係改善を図り、再び甲相同盟が回復されることになります。

西上作戦

織田氏との関係

 武田氏と織田氏とは永禄年間より外交関係があり、織田氏は織田信長の姪である遠山直廉の娘を武田勝頼に嫁がせ、両家は友好関係を結んでいました。

 その後も信玄の娘である松姫と、信長の嫡男・織田信忠の婚約が成立するなど、武田氏と徳川氏が対立する一方で、織田氏とは良好な関係を継続することになります。

 しかし1571年(元亀2年)、織田信長により比叡山が焼き討ちされるという事件が発生。

 この時信玄は信長に対し、天魔ノ変化、と非難したとされ、延暦寺を甲斐にて再興させようとしたといわれており、天台座主の覚恕法親王を甲斐に迎え入れていいます。

三方ヶ原の戦い

『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』 歌川芳虎画
『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』 歌川芳虎画

 1572年(元亀3年)、将軍・足利義昭の信長追討令を受け、信玄は甲府より出陣しました。

 山県昌景と秋山虎繁隊は三河から、武田信玄本隊は遠江へと侵攻。

 一方で越前の朝倉義景や近江の浅井長政に信長の抑えとして出陣を要請しつつ、徳川方の諸城を次々に落としていきます。

 対する信長は朝倉氏、浅井氏、石山本願寺などを相手にしていたため動くことができず、3,000の援軍を送るにとどまりました。

 信玄は家康に対し、まず一言坂の戦いにて勝利し、二俣城を陥落させるなど勢いに乗っていくことになります。

 追い込まれた家康は浜松城に籠城。
 ところが武田軍は浜松城を素通りし、それを見た家康は追撃する形で討って出、三方ヶ原の戦いにおいて決戦に及び、武田方は大勝しました。

 このように西上作戦は順調に進んでいたかにみえたのですが、織田信長を抑えるために近江に浅井長政の援軍として出陣していた朝倉義景が撤退したことを知り、信玄は書状を送って再度の出陣を求めるも、義景は動くことはありませんでした。

 信玄にしてみれば義景の馬鹿野郎! というところだったのでしょうが、朝倉義景の記事でも書いたように、雪には勝てませんし、無茶言うなって話でもあります。

 しかし結果的にみれば、無茶した方が良かったのかもしれません。
 定石を捨てて、賭けに出る局面であったことは、否定できないところです。

 そのため、信玄は進軍を一時停止。
 年を越えた1573年(元亀4年)には再び進軍し、三河に侵攻して野田城を陥落させました。

武田信玄の死

 西上作戦の最中、特に野田城を攻略した頃から信玄は喀血を繰り返すようになり、持病が悪化。

 そのため武田軍の進軍は止まり、結果的に甲斐へと引き揚げることになります。

 しかしその道中、三河街道の道最中にて死去。享年53でした。

 「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」

 辞世の句として残されている言葉です。

 死に際して信玄は遺言を残したとされ、信玄の死を三年隠すことや、遺体を諏訪湖に沈めること、勝頼に対しては上杉謙信を頼ることなどを言い残したとされ、山県昌景や馬場信春内藤昌豊に後事を託したとされています。

信玄の死後の甲斐武田氏

 武田信玄はその最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部を含む、計9ヶ国にその領域は及び、120万石にその領土は達しました。

 西上作戦により織田氏や徳川氏は窮地に立たされるものの、信玄の病死により遠征は中止。

 これは織田信長や徳川家康にとっては天佑であり、信長はその後すぐの1573年(天正元年)に越前の朝倉義景や近江の浅井長政を滅ぼし、信長包囲網の一角を崩すことに成功します。

 武田側では信玄の後を武田勝頼が継ぎ、勝頼は美濃に進出して更に領土を拡大。

 しかし武田家臣団を掌握できなくなり、1575年(天正3年)には織田・徳川連合軍を相手に戦った、長篠の戦いが勃発してしまうのです。

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

 武田軍はこの戦いで大敗を喫し、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった武田四名臣といわれる重臣や、河窪信実(勝頼の叔父)、三枝昌貞、五味貞成、和田業繁、名和宗安、飯尾助友といった名のある将や、その他にも原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守といった家臣を失い、その被害は甚大としか言いようがありませんでした。

 これにより武田氏は一気に衰退。

 1582年(天正10年)には甲州征伐が始まり、天目山の戦いにて敗れた武田勝頼は自害し、甲斐武田氏はここに滅亡することになるのです。

 その後、徳川家康により武田信治(穴山信治)や、家康の五男・武田信吉にその名跡を継がせたものの続かず、断絶しました。

武田信玄の評価

 武田信玄って後世でとても高い評価を得ているのですが、これには後で徳川家康が天下統一したことが、少なからず影響したともいわれています。

 これはのちに成立した江戸幕府の初代征夷大将軍であった徳川家康が関係しており、武田信玄は家康と敵対していたにも関わらず、家康が信玄の手法を参考にしていたことなどが影響して、信玄の評価を上げることで必然的に家康の評価も上がるため、と考えられているようです。

 そういった意味では、同じく家康と敵対した真田信繁と同様であり、逆に評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的であったといえるでしょう。

武田信玄の逸話

  • 武田軍の強さは当時から最強とされ、長篠の戦いにて武田氏は敗北した後も、そのような評価は変わらなかったとされているほどです。だからこそ信長は長篠の戦いで、あれほどの兵数や鉄砲を集めて戦ったとも言えるのかもしれません。
  • 信玄の逸話として、居城であった躑躅ヶ崎館に水洗トイレがあったというのは有名な話です。これは信玄が紐を引いて鈴を鳴らすと、言葉伝えに数人の家臣に知らされていき、上流にいるものが水を流す、といった仕組みでした。また信玄は厠のことを山と読んでおり、その理由を尋ねた家臣に対して、「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」という、頓知の利いた返答をしたといわれています。大河ドラマ『武田信玄』でもそのシーンが再現されていますので、一見の価値ありです。
  • 信玄は影武者を用意しており、実弟の武田信廉がそれを務めていました。骨相が似ていて側近すら見分けがつかなかった、とされています。
  • 信玄が死去した際に、北条氏から板部岡江雪斎が使者として派遣され、信玄の死を確かめようとしたものの、信廉が影武者として対応し、欺いたともいわれています。
  • 信玄のライバルであった謙信に対し、その姓である上杉の名を信玄は呼ばなかった、とされています。これはもともと甲斐守護と越後守護代という家の各の差があったにも関わらず、その後謙信は上杉姓を継いで関東管領に就任し、家格が逆転してしまったため、それを面白く思わなかった信玄はあくまで長尾姓で呼び続けた、という理由によるものでした。
  • 第四次川中島の戦いで、実弟である武田信繁を失った際、信玄はその遺体を抱いて号泣したといわれています。弟・信繁の存在は信玄にとっても重要で、もし信繁が生きていれば義信事件は起きなかった、といわれるほどの存在でした。

武田信玄の領国経営

信玄堤

 信玄が本拠地とした甲斐国には甲府盆地という平野部があるものの、釜無川、笛吹川といった二大河川を有しており、その氾濫のため利用できる耕作地は少なかったとされています。

 そのため信玄は治水事業に着手し、新田開発を行いました。

 信玄は信玄堤と呼ばれる堤防を築き、川の流れを変えて開墾を実施したことで知られています。

 織田信長の領国だった尾張国などに比べて、甲斐国は非常に厳しい土地でした。
 それが足枷になり、なかなか勢力を拡大できなかった要因の一つだとも言われているほどです。

金山開発

 甲斐には黒川金山や湯之奥金山といった金山が存在し、甲州金と呼ばれる金貨を鋳造。

 これらは武田氏の軍事面や外交面で力を発揮したとされています。

風林火山

 風林火山(ふうりんかざん)とは、武田信玄が旗指物に記したとされており、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」のように書かれていました。

疾(はや)きこと風の如く
徐(しず)かなること林の如く
侵掠(しんりゃく)すること火の如く
動かざること山の如し

 もともとこの句は、『孫子』の軍争篇第七の中で、軍隊の進退について書かれた部分を引用したものです。

 正確には、

故其疾如風
其徐如林
侵掠如火
難知如陰
不動如山
動如雷霆

 となっています。

 これは武田信玄が快川紹喜に書かせた軍旗に由来するものの、詳細は分かっておらず、現代における創作の可能性も否定できません。

甲斐武田家(甲斐源氏)歴代当主

 第1代  源義光  1045年~1127年
 第2代  源義清  1075年~1149年
 第3代  源清光  1110年~1168年
 第4代  武田信義 1128年~1186年
 第5代  武田信光 1162年~1248年
 第6代  武田信政 1196年~1265年
 第7代  武田信時 1220年~1289年
 第8代  武田時綱 1245年~1307年
 第9代  武田信宗 1269年~1330年
 第10代  武田信武 1292年~1359年
 第11代  武田信成 生年不詳~1394年
 第12代  武田信春 生年不詳~1413年
 第13代  武田信満 生年不詳~1417年
 第14代  武田信重 1386年~1450年
 第15代  武田信守 生年不詳~1455年
 第16代  武田信昌 1447年~1505年
 第17代  武田信縄 1471年~1507年
 第18代  武田信虎 1494年~1574年
 第19代  武田信玄 1521年~1573年
 第20代  武田勝頼 1546年~1582年
 第21代  武田信勝 1567年~1582年
 第22代  武田信治 1572年~1587年
 第23代  武田信吉 1583年~1603年

武田信玄 関係年表

 1521年 武田信虎の次男として誕生。
 1525年 弟・武田信繁誕生。
 1533年 上杉朝興の娘を正室として迎える。
 1534年 正室・上杉朝興の娘死去。
 1536年 晴信と名を改める。
     継室に三条夫人を迎える。
     今川氏輝死去。花倉の乱。
     今川義元が家督を相続。
     晴信初陣。
 1541年 海野平の戦い。
     武田信虎追放。
     晴信、武田家の家督を相続。
 1542年 桑原城の戦い。
 1543年 大井貞隆を滅ぼす。
 1544年 後北条氏と和睦。
 1545年 高遠頼継を滅ぼす。
     第2次河東一乱。
 1547年 小田井原の戦い。
     甲州法度之次第(信玄家法)を定める。
 1548年 上田原の戦い。
     塩尻峠の戦い。
 1550年 小笠原領へ侵攻。
     砥石崩れ。
 1551年 砥石城を落とす。
 1553年 布施の戦い(第一次川中島の戦い)
 1554年 嫡男・義信の正室に嶺松院(今川義元娘)を迎える。
     甲相駿三国同盟の締結。
 1555年 犀川の戦い(第二次川中島の戦い)
 1557年 上野原の戦い(第三次川中島の戦い)
     晴信、信濃守護に補任。
 1559年 出家して徳栄軒信玄と号す。
 1560年 桶狭間の戦い。
     今川義元死去。
 1561年 八幡原の戦い(第四次川中島の戦い)
 1564年 塩崎の対陣(第五次川中島の戦い)
 1566年 上野国箕輪城を攻略。
 1567年 嫡男・義信死去(義信事件)
 1568年 駿河侵攻。
     上杉氏と和睦。
 1571年 遠江・三河侵攻。
     甲相同盟の回復。
 1572年 一言坂の戦い。
     三方ヶ原の戦い。
 1573年 野田城の戦い。
     武田信玄死去。享年53。

武田信玄画像

武田晴信像(高野山持明院蔵)
武田晴信像(高野山持明院蔵)
武田大膳大夫晴信入道信玄(月岡芳年画)
武田大膳大夫晴信入道信玄(月岡芳年画)
信玄の最期(月岡芳年画)
信玄の最期(月岡芳年画)
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土岐無理之介
土岐無理之介
歴史好き。主に戦国時代。
旅ついでに城郭神社仏閣を巡りなどやってます。

趣味で小説など書いたりも。カクヨムや小説家になろうにて、荒唐無稽な歴史IF小説などを、気ままに投稿しています。
たまにはイラストなども描いてみたり。
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