内藤昌豊 ~武田の副将格として評された、武略の将

内藤昌豊 ~武田の副将格として評された、武略の将

 内藤昌豊とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。武田四天王(四名臣)の一人。
 武田信玄の弟である武田信繁と共に、武田の副将格とされ、「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と、同じ武田家臣であった山県昌景に評されたとされている。
 1575年(天正3年)の長篠の戦いにて戦死した。

内藤昌豊 (ないとう まさとよ)/内藤昌秀(ないとう まさひで)
丸に花菱
生年1522年(大永2年)
没年1575年(天正3年5月21日)
改名工藤祐長→内藤昌豊(昌秀)
別名工藤源左衛門
家紋丸に花菱
主君武田信玄武田勝頼
父:工藤虎豊
兄弟工藤長門守 昌豊
昌月 昌弘

内藤昌豊とは

由羅
由羅
内藤昌豊って、武田四名臣の中じゃ一番地味……?
どうしてそう思うの?
イリス
イリス
由羅
由羅
だってあまり聞かない名前だから……
それも戦国時代、特に武田氏関係を扱った大河ドラマでの出演が少ないせいだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
そ、そうなの?
武田信玄が主要人物として登場する大河ドラマはこれまでに三つ放映されているの。『天と地と』『武田信玄』『風林火山』の三つなんだけれど、『天と地と』以外では内藤昌豊は登場していないから
イリス
イリス
由羅
由羅
武田四名臣なのに?
うん。特に『武田信玄』に出演できなかった影響は大きいかな。あれは平均視聴率は初回視聴率42.5%、最高視聴率49.2%、平均視聴率39.2%という歴代でもトップクラスの視聴率をはじき出した大河ドラマだったから
イリス
イリス
由羅
由羅
イリスってばまたヘンなこと知ってるし……
とにかくそういう理由で、他の四名臣の中では比較的知られていないのかもしれないね。でも四名臣の名に恥じない優秀な人物だったことは間違いないよ
イリス
イリス

武田信玄家臣時代

 昌豊は1522年(大永2年)に、武田信虎の家臣であった工藤虎豊に次男として生まれた、と『武田三代軍記』によって伝わっている。

 1559年(永禄2年)に、初めて昌豊の名を史料の中に見ることができ、この頃には信玄の側近として活躍していたとされる。

 1561年(永禄4)に起きた第4次川中島の戦いにおいて、上杉軍を挟撃するための別働隊の大将として活躍。

 1566年(永禄9)までには信濃国の深志城城代となり、その後三増峠の戦いにおいて戦死した浅利信種の後任として、箕輪城代となった。
 これは長篠の戦いにて昌豊が戦死するまで務めることとなる。
 また三増峠の戦いにおいては、小荷駄隊を率いて補給の任に当たっていたとされている。

由羅
由羅
箕輪城っていうと、長野業正が守っていたお城でしょ? 業正が生きている間は武田信玄でも落とせなかったっていう
そうだよ。でも長野業正の死後、信玄はこれを攻略してその城代に、甘利昌忠や真田幸隆、浅利信種らが次々に任じられて、1570年頃(元亀元年)頃になって昌豊がその城代の任にあたったの
イリス
イリス

内藤姓

 昌豊はもともと工藤姓だったが、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承することとなり、内藤の姓を名乗ったという。
 工藤家自体は昌豊の兄である昌祐が継いでいる。

由羅
由羅
これって信玄の父親である信虎が、家臣を手打ちにしたせいで途絶えていたお家の名跡を子の信玄が再興させた……ていうやつでしょ?
そうだよ
イリス
イリス

長篠の戦い

長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』

 1573年(元亀4年)、武田信玄が死去。
 この後は信玄の子であった、武田勝頼に仕えることになる。

 1575年(天正3年5月21)、織田・徳川連合軍を相手に長篠の戦いが勃発。

 昌豊は原昌胤や山県昌景と共に左翼に配置され、織田本隊と戦ったとされている。

 この時に本多忠勝と戦ったと『本多家武功聞書』には記されているが、詳しいことは分かっていない。

 結局この戦いは武田方の敗北となり、敗退する武田勢の中にあって馬場信春と共に戦場に踏み止まり、主君・勝頼を逃すために尽力。
 しかしついには徳川家臣であった朝比奈泰勝によって討ち取られたとされている。享年54。

由羅
由羅
うーん……。武田四名臣のほとんどが、この長篠で散ってしまうんだよね……
四名臣の中で唯一生き残った高坂昌信も、その長男を長篠で失っているくらいの激戦だったんだよ
イリス
イリス

人物像

 武田の将の中にあっても武略に長け、武田信繁と並ぶ将として評されている。

由羅
由羅
武田信繁ってあれだよね。武田家きっての人格者! 信玄の信繁がいてくれていたからうまくやっていけたっていうほどの弟!
兄を補佐した人物は戦国史上でそれなりに例があるけれど、武田信繁や羽柴秀長なんかは好例として有名だね
イリス
イリス
 また昌豊は信玄に従い、そのほとんどの戦争に従軍し、武功を挙げた。
 しかし信玄から感状をもらったことはなく、その理由として『甲陽軍鑑』によると、昌豊ほどの人物ならば常人に抜きん出た功があるのは当然のことである、と信玄は評して感状を出さなかったという。
このことからも、昌豊が常日頃から高い評価を得ていたことがうかがえるよ
イリス
イリス
 また昌豊自身も個人の手柄にこだわることは小さきことだとして、感状ももらえないことを気にした風もなく、信玄との信頼関係を示す逸話として知られている。
由羅
由羅
人間関係って色々だものね。感状を与えた方が喜び忠義を果たす家臣もいれば、昌豊みたいにむしろ与えない方が信頼関係を強めることになるとか……
臨機応変に、だよ。あと余談だけど、内藤昌豊の名前の方が有名だけど、実際には「内藤昌秀」の方が正しい実名ではないか、ともいわれているみたい
イリス
イリス
由羅
由羅
戦国時代って、名前が色々あってややこしいよねえ……

内藤昌豊画像

内藤昌豊
内藤昌豊