内藤昌豊(内藤昌秀)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
内藤昌豊とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。武田四天王(四名臣)の一人。
武田信玄の弟である武田信繁と共に、武田の副将格とされ、「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と、同じ武田家臣であった山県昌景に評されたとされています。
1575年(天正3年)の長篠の戦いにて戦死しました。
今回はそんな内藤昌豊を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
生年 | 1522年(大永2年) |
没年 | 1575年(天正3年5月21日) |
改名 | 工藤祐長→内藤昌豊(昌秀) |
別名 | 工藤源左衛門 |
家紋 | 丸に花菱 |
主君 | 武田信玄⇒武田勝頼 |
親 | 父:工藤虎豊 |
兄弟 | 工藤長門守 昌豊 |
子 | 昌月 昌弘 |
信長の野望での内藤昌豊
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 84 |
武勇 | 76 |
知略 | 84 |
内政 | 79 |
外政 | 82 |
武田四名臣の中では一番パッとしない内藤昌豊。
しかしその能力は優秀です。
四名臣の中ではもっともバランスがよく、どの数値も80前後と申し分無し。
でも四人の能力値を比べると、どうにもパッとしない気がするのも事実。
他の三人に比べると、尖った分野が無いせいか、最高値が80前半、というのも印象に影響しているのかもしれません。
器用貧乏、という奴ですね。
でも四名臣の中で最弱、というわけではありません。
総合能力では400を越えており、高坂昌信を凌駕しています。
次席の馬場信春ともそこまで差があるわけではないので、やはり四名臣は優秀ですね。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
78 | 76 | 87 | 74 |
新生での内藤正豊は、微妙に評価が下がった印象ですね。
やはり統率能力が80台から70台へ落ちたことが、見た目の印象で響いています。
知略こそ上がっていますが、その分政務が下がっていますし。
とはいえ如何にも副将といったバランスの良い能力値。
優秀なことは間違いありません。
内藤昌豊(内藤昌秀)とは
内藤昌豊といえば、武田四名臣の中では一番不遇な人物として知られています。
不遇、といってもそれは当時の話ではなくて、現代において、というわけですが、それはその知名度の低さからも窺えます。
というのも、武田氏関係を扱った大河ドラマでの出演が少ないからですね。
武田信玄が主要人物として登場する大河ドラマは、これまでに三つ放映されています。
それぞれ『天と地と』『武田信玄』『風林火山』の三つなのですが、『天と地と』以外では内藤昌豊は登場していません。
他の三人はけっこう出ているのに、です。
特に『武田信玄』に出演できなかった影響は大きいでしょう。
何と言っても平均視聴率が初回視聴率42.5%、最高視聴率49.2%、平均視聴率39.2%という歴代でもトップクラスの視聴率をはじき出した大河ドラマだったからです。
そういうこともあり、他の四名臣の中では比較的知られていないという、まことに残念な状況になっているのです。
しかし四名臣の名に恥じない優秀な人物だったことは間違いありません。
武田信玄家臣時代
武田信虎の家臣であった工藤虎豊に次男として生まれた、と『武田三代軍記』によって伝わっています。
1559年(永禄2年)に、初めて昌豊の名を史料の中に見ることができ、この頃には信玄の側近として活躍していたようです。
1561年(永禄4)に起きた第4次川中島の戦いにおいて、上杉軍を挟撃するための別働隊の大将として活躍。
1566年(永禄9)までには信濃国の深志城城代となり、その後三増峠の戦いにおいて戦死した浅利信種の後任として、箕輪城代となりました。
これは長篠の戦いにて、昌豊が戦死するまで務めることになります。
また三増峠の戦いにおいては、小荷駄隊を率いて補給の任に当たっていたとされています。
ちなみに箕輪城といえば、長野業正が守っていた城であり、業正が生きている間は武田信玄でも落とせなかったことで知られています。
しかし長野業正の死後、信玄はこれを攻略してその城代に、甘利昌忠や真田幸隆、浅利信種らが次々に任免し、1570年頃(元亀元年)頃になって昌豊がその城代の任にあたったのでした。
内藤姓
昌豊はもともと工藤姓でしたが、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承することとなり、内藤の姓を名乗ったとされています。
実家となる工藤家自体は、昌豊の兄である昌祐が継いでいます。
長篠の戦い
1573年(元亀4年)、武田信玄が死去。
この後は信玄の子であった、武田勝頼に仕えることになる。
1575年(天正3年5月21)、織田信長・徳川家康連合軍を相手に長篠の戦いが勃発。
昌豊は原昌胤や山県昌景と共に左翼に配置され、織田本隊と戦いました。
この時に本多忠勝と戦ったと『本多家武功聞書』には記されているのですが、詳しいことは分かっていません。
結局この戦いは武田方の敗北となり、敗退する武田勢の中にあって馬場信春と共に戦場に踏み止まり、主君・勝頼を逃すために尽力。
しかしついには徳川家臣であった朝比奈泰勝によって討ち取られたとされています。
享年54でした。
人物像
武田の将の中にあっても武略に長け、武田信繁と並ぶ将として評されています。
また昌豊は信玄に従い、そのほとんどの戦争に従軍し、武功を挙げました。
しかし信玄から感状をもらったことはなく、その理由として『甲陽軍鑑』によると、昌豊ほどの人物ならば常人に抜きん出た功があるのは当然のことである、と信玄は評して感状を出さなかったとされています。いや、出してあふげればいいのにヾ(ーー )ォィ
このことからも、昌豊が常日頃から高い評価を得ていたことがうかがえます。物は言いよう。
昌豊自身も個人の手柄にこだわることは小さきことだとして、感状ももらえないことを気にした風もなく、信玄との信頼関係を示す逸話として知られています。絶対意地張ってるよ…
また内藤昌豊の名前の方が有名ですが、実際には「内藤昌秀」の方が正しい実名ではないか、ともいわれているようです。