粟屋光若【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
粟屋光若とは戦国時代の武将。若狭武田氏の家臣です。
若狭国遠敷郡山内城主。
信長の野望での粟屋光若
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
47 | 68 | 53 | 60 |
粟屋光若と同じ一族である粟屋勝久と比べると、やや見劣りのする能力ではありますが、若狭武田家臣団の中ではマシな方です。
武勇は68ありますから、家臣団ではもっとも武に長けた武将ですね。
というわけで、光若を使わずして若狭武田家に明日はないのです。
ちなみに「信長の野望」の中において、粟屋氏を名乗る登場人物はもう一人います。
粟屋元親ですね。
元親の能力はかなり優秀な部類ですが、残念ながら若狭武田家臣ではありません。
こちらは安芸粟屋氏の出で、毛利氏に仕えている武将です。
若狭粟屋氏についてははっきり分かっていることは多くなく、いつ頃から若狭にいたのかもはっきりしていませんが、主家である若狭武田氏はもともと安芸武田氏から出ており、その安芸武田氏に粟屋氏も仕えていたので、その流れで若狭国にも粟屋氏が進出したのだろうと推測されているようですね。
粟屋光若の来歴
粟屋光若について、分かっていることは多くありません。
生年、没年も不詳。
光若は若狭武田氏に仕え、侍大将、奉行人を務めたとされています。
父の粟屋家長は大永7年(1527年)の川勝寺口の戦いで主君の武田元光とともに出陣し、戦死しています。
それまで若狭武田氏において、粟屋氏は有力家臣として存在感を誇っていました。
その中の中心人物が、光若と同じ一族の粟屋元隆です。
父・家長の死などにより、代わって存在感を増していった元隆でしたが、ついには天文7年(1538年)、主君・武田元光の弟である信孝を擁して謀反を起こしましたが、元光の子・信豊と戦って敗れました。
こういった経緯もあって、主君・武田信豊は元隆とは系統の違う粟屋氏である光若を奏者として重用していくようになります。
天文年間には安賀荘の代官に任ぜられ、安賀里城を築城しました。
同族に粟屋勝久がいるものの、光若との関係は明らかになってないようです。