安東愛季【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

安東愛季とは戦国時代の出羽国の戦国大名。
下国(檜山)安東氏8代当主です。
今回はそんな安東愛季を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での安東愛季
信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 80 |
武勇 | 70 |
知略 | 80 |
内政 | 86 |
外政 | 80 |

『信長の野望』シリーズでは、昔から安定した能力を備えていた安東愛季ですが、80台を突破する能力も増え、バランスのいい優秀な能力に仕上がっています。
というか、きっちり80の能力が三つもあるんですね。
これが70台かそうでないかで、随分印象が変わるわけですが。
なかなかの能力を有し、独自の「志」を与えられているくらいには優遇されている愛季ですが、すぐ近くには南部家が控えていますので、のんびりしているとあっさりと飲み込まれてしまいます。
南部家が勢力拡大に乗り出す前に先んじて、周辺の小国を併呑し、羽後統一を果たして、南部家の南進を阻んでこれを逆に討てば、東北の一定の勢力を築くことも可能です。
その後は国力を蓄えつつ南進し、優秀な家臣を多数かかえる伊達家や最上家を降していけば、関東で待ち受けているであろう北条家とも、いい勝負ができることでしょう。
信長の野望・新生での能力値

統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
82 | 70 | 82 | 85 |
新生での安東愛季も前作同様、高い評価のままです。
当主は十分に優秀なので、いちはやく東北地方を統一して関東進出を行えば、天下統一も夢ではありませんね。
安東愛季の来歴

安東愛季は出羽の戦国大名・安東舜季の子として、天文8年(1539年)に誕生しました。
出自の安東氏は下国家(檜山安東氏)と湊家(湊安東氏)の二つに分かれ、両家は相対しながらも秋田郡を分け合ってこれまできたのですが、愛季はそんな両家のうち、下国家(檜山安東氏)を出自としています。
戦国時代後期に入ると湊家に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、下国家の愛季が湊家をも継承して、元亀元年(1570年)に安東氏を統合し、安東氏の全盛期を築き上げることに成功しました。
このように戦国大名化を成し遂げ、愛季は智勇に優れた人物であったといわれているようです。
東北の諸大名はみんなやっていることなのですが、愛季は早くから中央の勢力である織田信長に対し、天正元年(1573年)から天正10年(1582年)まで貢物を送るなどして誼を通じ、その信長が本能寺の変で横死すると、その後継者となった羽柴秀吉と関係を深めるなど、外交的にも積極的に行動していたことが窺えます。
これは成功し、天正5年7月22日(1577年8月6日)には従五位下に、天正8年8月13日(1580年9月21日)には従五位上侍従となるなど官位を得、安東氏の家格を向上させ、その全盛期を築きました。
そしてその晩年には改姓し、安東氏から秋田氏に改めてもいます。
天正10年(1582年)に浅利勝頼を蠣崎慶広を使い、謀殺したことで浅利氏旧領の比内を得、出羽北部の沿岸部をほぼ統一。
さらには雄物川流域の支配権を巡って、戸沢氏と対立することになります。
そして天正15年(1587年)、角館城主戸沢盛安と戦うなか、、仙北淀川の陣中で病死しました。
文武に秀でた愛季は、出羽国の北半分である羽後最大の戦国大名となり、その功績から「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評されることになるのです。
安東愛季画像
